第7話 異能兄妹
日曜日。あいにくの雨模様。ポロポロと雨が降ったかと思うとすぐに止み、また降りだす。僕は透明傘を差して駅前を二三のマンションに向かって歩いている。透明傘だと周りが見えやすいので楽だ。おまけに安くて置き忘れても後悔せずにすむから僕にとってはありがたい。
昨日は二三の家でキーマカレーをご馳走になり、その後アルプスの少女ハイジの一話から五話までを鑑賞した。二三の料理の腕はかなりのもので、昨日のキーマカレーもほとんどカフェご飯と言っていいレベルだ。素直にそう告げると二三は困ったような恥ずかしそうな顔で「ありがとう」と言った。
アルプスの少女ハイジはとてもエキサイティングだった。まだ五話を見終わっただけだが、生き生きとしたキレのある演出、美しいスイスの情景、ひたむきで純粋で明るいハイジの姿は僕を飽きさせなかった。二三は僕がアルプスの少女ハイジを楽しんだことがとても嬉しいようだった。
二三ははっきりと口にしないものの、食事の時やアニメ鑑賞の時間に翌日の段取りや打合せをするのを嫌がっている素振りだったので、昨日はそのことの触れず、代わりに今日は早めに二三の家に言って事前の打合せをすることになっている。
音楽を聞きながら歩いていると視界の端の方で何やらチラチラと揺れるものが。見ると西宝中の制服姿の四五ちゃんが手を振っていた。そして横にいるのは妹君のおゆきではないか。部活帰りらしい。二人とも吹奏楽部なのか。
「トーマくーん!」
大声で僕の名を呼んで手を振る四五ちゃん。明らかに不審者を見る目で僕を見ているおゆき。二人が道路を渡ってこちらにやってくる。
「トーマ君、今から行くとこ?」
「うん、まぁ」
僕はおゆきの顔色を気にしながら曖昧に頷く。おゆきが怖々といった感じで四五ちゃんに尋ねた。
「知ってるの?この人」
この人はないだろうに。
「この間街でナンパされちゃって」
「えっ⁉」
おゆきと僕が同時に声を上げる。四五ちゃんはペロリと舌を出す。
「嘘嘘。本当はお姉ちゃんの彼氏なんだ」
「ええっ⁉」
おゆきが手に持ったファミリアのトートバッグを取り落とさんばかりに驚く。四五ちゃんが「あっ」という表情になる。
「そうか、ごめん鈍くて。ゆきとトーマ君、兄妹だよね?苗字が一緒だし、兄貴が東高にいるって言ってたもんね?」
「はは」
僕は意味もなく笑ってどことなく気まずい雰囲気を掻き混ぜる。
「あたし今日お姉ちゃんの手伝いなんだ。トーマ君とお姉ちゃんのお家デートの」
「お家デート…」
おゆきはまさに目を丸くして驚いてみせる。「違うんだよ、クラス委員の打合せで」と言い訳するタイミングを逸した僕はただ苦笑いを浮かべるのみ。
「ゆきも一緒に来る?」
おゆきが慌てたように笑顔を作る。
「ううん、あたし午後から母さんと出かけることになってて」
と言いながら探るような目付きで僕を見る。
「そっか。じゃ、また今度ね。あっ、あのさ、ゆきにお願いがあるんだ」
「うん、何?」
「トーマ君とうちのお姉ちゃんが付き合ってるってこともだけど、高校に姉がいるってこと内緒にして欲しいの。うちのお姉ちゃんイジメられっ子で中学の時は不登校だったんだ。あたしまでイジメられないようにって姓を変えてるんだけど。東校に姉がいるって話をしたのはゆきが初めて。お願い、内緒にしてて」
おゆきは目にギュっと力を込めてコクンと頷く。
「うん。絶対言わない。約束する」
「ありがとう、ゆき」
四五ちゃんは目尻を指先でちょっと拭う。おゆきがキッと僕を睨む。
「トーマ、ヨウコに迷惑かけたら殺すから。いい?」
「かっ、かけるわけないだろ」
「じゃヨウコ、また明日ね」
歩き去るおゆきに四五ちゃんは明るく手を振る。おゆきの姿が街角に消えると四五ちゃんは傘を畳むと僕の二の腕に絡んでくる。
「行こ。お姉ちゃん時間前からずっと待ってるタイプだから」
二三のマンションまで二人で歩く。
「あぁ言っとけばゆきはあたしやフミ姉のことクラスで話すこともないし。ゆきは優しくて正義感が強いから。それに何しろ自分の身内まで絡んでるわけだし」
四五ちゃんなかなか計算高い。
「それにしても世の中って上手くできてるね。ゆきみたいに才能がある上に努力家で、外見もいい妹と暮らしてるのがトーマ君なんだから。トーマ君みたいに何でも受け流せる人じゃないときっと色々なところが歪んじゃうよね」
褒めるふりして貶されているのか、真実を語ることで結果的におゆきの非凡さと僕の平凡さを際立たせているのか、とても微妙な言い回しであることに違いはない。
二三のマンションのエントランスに入る。423をプッシュ。すぐに扉が開いた。四階に上がって部屋前に着くと計ったようにドアが開く。
「お待たせフミ姉、トーマ君連れてきたよ」
「おはよ」
「い、いらっしゃい。入って」
四五ちゃんは部屋の隅にリュックと楽器ケースを置くと、
「お腹減ったぁ、フミ姉ご飯」
と明るく声を上げる。「まず手を洗うんでしょ」と嗜められて僕と一緒に洗面台へ。
「フミ姉、警察の人っていつ来るの?」
「二時」
二三はテーブルにお箸をセットしながら答える。昨日は眼帯を外していたが今日は四五ちゃんがいるので眼帯は付けたままだ。今日の眼帯は曇り空に合う鳩の羽根色。髪をポニーテールに纏めているが、牧村さんが来たら髪を解いてしまうつもりだろう。服も同系色のワンピースだ。
テーブルの上に漆塗りの半円形のお盆が置かれ、僕の席には黒の、二三と四五ちゃんの席には赤の塗り箸が置かれている。四五ちゃんが料理を運ぶのを手伝う。「トーマ君は座ってなよ」と言われたので大人しく席で待つ。
今日のメニューは菜の花ごはん。菜の花に煎り卵、シラス、刻み梅、ゴマが混ぜ込んである。吸い物も菜の花だ。鰹のたたき。アスパラガスのベーコン巻き炒め。いかなごの釘煮の小皿がついている。
「あっ、菜の花ご飯だぁ。春だねぇ」
四五ちゃんが喜ぶ。みんなでいただきますをして食べ始める。
「あっ、美味い」
と僕。菜の花ご飯。色どりも綺麗だけれど、花を食べるってなんか素敵な行為だ。とにかく春の味がする。鰹のたたき。たっぷりのタマネギ、長ネギ、茗荷、大葉の上に桜の花の形にたたきが盛り付けられている。街中でホトトギスの声は聞こえないが初鰹だ。アスパラのベーコン巻き。唐辛子マヨネーズで食べる。穂先が柔らかい。いかなごの釘煮は、昔は自宅のキッチンで大きな鍋にいかなごと醤油をたっぷり入れて母が炊き上げていたのを覚えている。いつの間にかやらなくなったな。菜の花のお吸い物も滋味深い。うんうん。
「トーマ君、おかわりしたら?」
四五ちゃんが言う。二三が手を差し出すので「お願いします」とお茶碗を渡す。
「仲のおよろしいことで」
四五ちゃんが嬉しそうに笑う。食事が終わってお茶を飲みながら牧村さんが来た時に備えて話をする。二三が牧村さんにメールを送り、吹奏楽部の妹の練習を見てやってもらえないかと相談したところ二つ返事でOKしてくれたことは昨日のうちに聞いていた。
「特に何もしなくて大丈夫。普通にしてて。ヨウちゃんが牧村さんにクラリネットの練習を見てもらう。あたしたちはそれを見ていればいい」
二三は小さな湯呑茶碗を口元にあてがったままそう言った。
「トーマは御守り兼口直しだから」
「御守り?口直し?」
「そうだよ。よろしくね」
何のことかさっぱり分からないが二三に
「知らないほうがいいよ。そのほうが自然に振る舞えるから。牧村さんが帰ったら説明するよ」
と言われて釈然としないながらも口を閉じる。
「一つだけ。もしあたしが合図したらヨウちゃんを牧村さんから引き離して欲しいんだ。こんな感じで」
二三は僕の背後に回って僕の左手首をそっと掴むとそのまま右肩を抱くようにして身体を引き寄せるような仕草をしてみせる。
「はい、トーマ君練習練習。フミ姉の背後に回って。左手首をそっと掴んで、右肩も固定して、はい引き離す」
四五ちゃんの言う通りにやってみる。さすがに女子の体に触れるのは少し気恥ずかしい。
四五ちゃんはニヤニヤしている。二三は「もう!ヨウちゃん」と言って僕の手をそっと振り払う。そうこうしているうちに時は刻まれ、二時三分前にチャイムが鳴った。インターフォンに牧村さんの姿が映し出される。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
四五ちゃんが返事をして、三人揃って部屋の外に出て待つ。ほどなくしてエレベーターから牧村さんの姿が現れた。牧村さんが他意のない笑顔で手を振る。
「あれ?清村君も一緒なんだ?なになに、やっぱり付き合ってんだ」
牧村さんは泣き笑いのような表情で「そんな感じしたんだよね。なんか淋しいー」と目元をこする仕草。困り顔の二三と僕。四五ちゃんが笑顔で「まだ知り合って日が浅いので告白とかまだだと思います。でも付き合ってるみたいに一緒にいるよね?」と明るく言う。
「あの、ともかく中にどうぞ」
牧村さんは「お邪魔いたします」と言って靴を脱いで部屋に上がる。脱いだ靴を自分できちんと揃える。爪は短く切り揃えられ指輪の類は無し。屈んだ時にふんわりしたボブの髪が揺れ耳元が覗く。ピアスの穴も見当たらない。首筋に銀の細いチェーンが見える。時計は黒いウレタンゴム製のスマートウォッチだ。黒のパンツスーツに白いブラウス。靴は濃い臙脂色のパンプス。
「わぁ、今日はグレイ?服装に合わせて変えてるわけ?彼氏じゃなくても萌えちゃうわね。でも私の歳じゃ眼帯ファッションは無理ね。ただの痛い人になっちゃう」
「お休みなのにすみません。今日はよろしくお願いします。長谷川ヨウコです」
四五ちゃんがお辞儀をして挨拶する。
「よろしくね。牧村春香です。始める前に楽器見せてもらっていい?」
四五ちゃんはクラリネットのケース開く。ケースには「長谷川葉子」と書かれたシールが貼られている。学校の提出物や持ち物など、名前を書く場合は本名ではなく「葉っぱの子」の葉子を使っているらしい。「四五」だとすぐ周りに兄妹だと気付かれてしまう。
「わぁ、セルマー使ってるの⁉いいなぁ」
「おじいちゃんのお古なんです」
「恵まれてるなぁ。あたしなんか最初はお歳玉貯めてプラスティック管のやつだよ。高校の入学祝いでようやくヤマハを買ってもらって」
「あたしヤマハの音大好きです。学校のはヤマハだから。軽やかで澄んだ音がして。セルマーはなんかちょっと重たい音?な気がして」
「音って技術もそうだけど体力や肺活量でも変わってくるから。高校生になったらセルマーの印象も変わってくると思うよ」
牧村さんは断ってから上着を脱いだ。二三が上着をハンガーに掛ける。
「何か曲を吹ける?」
「アメイジング・グレイスとかキラキラ星とかメリーさんの羊くらいなら」
「じゃぁ、ちょっと吹いてみてくれる?アメイジング・グレイスで」
四五ちゃんがスウッと息を吸い込んでクラリネットを吹き始める。クラリネットのことは分からないけど結構上手いと思う。少なくとも僕のギターの数倍は上手い。
「上手いじゃない!中学一年でこれなら十分よ」
「ほんと?N響に入れるかな?」
「N響かぁ― あれって才能はもちろん運とコネも必要だからねぇ。あたしもN響とか入りたいなぁ。あぁ、笛吹いて暮らしたいよう」
なんだなうなだれてしまった牧村さん。
「牧村さん元気出して。音楽は最高の趣味とも言うし」
四五ちゃんがわざわざ立ち上がって牧村さんをトントンとやって慰める。牧村さんはちょっとドキッとしたような様子で、
「ありがとう。お互い頑張ろうね」
と笑顔を取り戻す。四五ちゃんは「練習ノート 長谷川葉子」と書かれたノートを開くとシャープペンシルで何か書きつける。牧村さんが自分のクラリネットを取り出して組み立てる。
「すごく上手いと思う。このまま基礎連をしっかりやって積み上げて行けばいい。で、指の運びだけどね、ラララー ラ ララーのとこはこう」
牧村さんの演奏を一小節聞いただけで、牧村さんがこれまで音楽に費やしてきた時間の重み、思いの強さが分かった。やはり音楽で生きていきたいと願う人の演奏は伊達ではないのだ。四五ちゃんは「すごーい」と呟いてノートに何か書きつけると、「牧村さんの楽器、持たせてもらっていいですか?」と言って牧村さんのヤマハを手に取り、重さとバランスを見る。お礼を言ってヤマハを牧村さんに返しまた何か書きつける。
「じゃもう一回吹いてみて」
こうして牧村さんのレッスンは続き、三時になったところで休憩になった。二三がコーヒーか紅茶か尋ねると、牧村さんは少し考えてからコーヒーを所望した。
「あたしも中学から吹奏楽部だったの。そこで初めてクラリネットに出会って。朝から晩まで練習して、県西の音楽科に行ったの」
県立西宝高校。通称県西。西宝市内にある県立高校で東同様に公立には珍しく音楽科がある。牧村さんはコーヒーにたっぷりのミルクと砂糖をひと匙入れて掻き混ぜる。四五ちゃんも同じようにミルクと砂糖を使った。僕はブラック。二三はカフェオレ。
「そこで人生最初の挫折を味わったの。周りはもうメチャクチャ上手い子だらけで。学校楽団のレギュラーですら遥か雲の上って感じで。二年でレギュラー取れた時は嬉しかったなぁ」
「どうやって練習したんですか?」
四五ちゃんはノートを開いて待つ。
「結局は基礎練習。反復練習しかないよね。楽器に触れた時間、吹いた時間の勝負なんだよ。県立高校の音楽科レベルならね」
四五ちゃんはメモする手を止めて牧村さんを見る。牧村さんは小さく溜息を吐く。
「音大に進んだんだけど、そこは県西の音楽科どころじゃない猛者どもの集まりでね。そこでなんとなく、分っちゃったんだなぁ。あたし音楽一本でやっていくのは無理かもって」
牧村さんは自ら笑顔を作って気まずい沈黙をかき消す。
「自分の好きなことを貫く、好きな事だけして生きていくって難しいんだなって。で、高校の音楽教師になろうか、楽団のある自衛隊や警察に入ろうかって悩んで。教えるより演奏したかったから楽団のある職場を探して。でも考えることはみんな同じでね。それにあたしくらいの演奏家は掃いて捨てるほどいる。県警の楽団も空きがなかなか出ないし、オーディションもあるし。で、結局仕事のできない婦警を続けてるってわけ」
牧村さんはバームクーヘンを一切れ摘まんで笑う。
「さて、大人の愚痴に付き合わせてごめん。あなたたちも何か話があるんでしょう?」
僕と二三は顔を見合わせる。僕は申し訳なさそうに口を開く。
「はい。ヨウコちゃんの練習のついでに、先日署を訪問させていただいた時の話の続きができないかと思って」
「続きって、例の東中の転落事件のことね?」
「はい」
牧村さんは口元に微妙な笑みを浮かべながら無言でコーヒーを一口飲んだ。
「君たち高校生が首を突っ込んでいい内容だとは思わないな。当時のクラスメイトとして気になるのは分かるけど」
と二三を見る。
「警察の出した結論は自殺。彼女の転落自体に事件性は無い。転落に至るまでに彼女にどんなことがあったか、そこは学校のほうで調べたんじゃないかな」
牧村さんは二三に優しい口調で言った。
「四十崎さん、あなたがあの事件のことでずっと悩んでいるのは想像がつく。軽々しくあなたのこれまでの人生を批評しようとは思わないけど、色々と辛い目にも遭ったのでしょうね。でももう過去の事。過去の事にしなくちゃダメ。人は今を生きるしかない。今、この瞬間を楽しみ、頑張るしかない。高校生になって彼氏もできたことだし、これは大きなチャンスであり節目よ。人生を方向転換してやり直すの」
「い、いえ、か、彼氏とかじゃ―」
「ダメよ、誤魔化しても。刑事の眼を舐めちゃダメ。分かるわよ、それくらい。意地を張らずに清村君にもたれかかって頼ってしまいなさい。清村君も嫌とは言わないわよ」
牧村さんはチラっと僕を見て「青春だねぇ」と言ってコーヒーを飲み干す。
「さぁ、せっかくだからもう少し練習しない?誰かと練習するの私も久しぶりだし」
「お願いします」
二三がテーブルの上を片付ける。牧村さんと四五ちゃんは練習を続ける。牧村さんが四五ちゃんの姿勢や楽器の持ち方、フィンガリングを細かく直しながらアドバイスをする。途中、牧村さんが「ワオ、バチッと来たぁ」と言って肩を揺らし、「ひょっとして葉子ちゃんて静電気体質?お水をたくさん飲んだ方がいいよ」などと言っている。四五ちゃんは「よく言われます」と笑いながらメモを取る。
時計が四時を指す頃、
「この辺にしましょうか」
と牧村さんが楽器を置いた。
「ありがとうございました」
楽器をしまいながら牧村さんは四五ちゃんのノートに目を遣る。
「葉子ちゃん、何?それ」
「あ、速記です。先生のコメントとか、先輩のアドバイスとか、自分で思いついたことを素早くメモするのに便利なんで」
「ふうん。努力家なんだね」
牧村さんは手早く帰り支度をすると、
「機会があったらまた一緒に練習しようね。探偵係のお二人はあんまり無茶しないで。いい?」
二三が紙の手提げ袋を牧村さん手渡す。お礼のバームクーヘンだ。四五ちゃんがドアを開けて四人で廊下に出る。
「ありがとう、お土産までいただいちゃって。それじゃ。あ、もうここでいいわよ」
牧村さんが手を振ってエレベーターに乗り込む。僕らは部屋に戻った。
「はあっ、トーマ君、ここトントンしてぇ」
四五ちゃんが後頭部の首の付け根を指さしながら背中を押し付けてくる。「え?ここ?」と言いながら首筋を軽く握った拳て叩いてあげる。四五ちゃんが僕の手を取って額に当てる。ほんのりと熱い。体調が悪かったのかな。
「はー、気持ちいい」
四五ちゃんは温泉にでも浸かったかのようなのんびりした口調で、「トーマ君、背中の窪んだとこも」と指示を出し、左手を僕のジーパンの膝辺りにゴシゴシと擦り付けた。
「ねぇ、何してるの?これ」
「フィルター洗浄というか消臭?天気のいい日にお布団を干すって感覚かなぁ?シャツにアイロンをかけるのにもちょっと似てるかな」
四五ちゃんの言っている意味が良く分からない。四五ちゃんは「こめかみのとこ、軽くぐりぐりして」と注文を出す。戸惑っている僕に気付いた四五ちゃん、
「フミ姉、トーマ君にまだ話してないの?」
「うん。意識しちゃうかなと思って。自然に振る舞って欲しかったし。一応牧村さん刑事だしね」
四五ちゃんが「ふぅ、ありがと」と言って振り返ると僕に向かって「STOP」とでも言いたげな感じで開いた左手を突き出す。
「この手はね、相手の思念、考えや感情を読み取るんだ。相手から直接でも、あるいは物に残った思念でもね。サイコメトリーっていうんだ」
サイコメトリー。それなら僕も知っている。
「ヨウちゃんに協力してもらったの。牧村さんは絶対に教えてくれないって分かってたから」
「じゃぁその速記って」
「うん。牧村さんや牧村さんのクラリネットに触れた時に感じた感情と記憶の断片。その場で書き留めないと忘れちゃうから。コーヒーカップとスプーンは後で観る」
「この間望月先生のところで先生に見せた写真、あ、気を付けて。トーマが触れると残った記憶と感情の残滓が消えちゃうから。それとこれ」
二三は小さなチャック付きビニール袋に入ったハンカチを見せる。豆腐店を訪れた時に二三が貸したハンカチだ。
「この二つはもう何度かヨウちゃんに観てもらってる。牧村さんの使ったカップとスプーンに残った思念を調べたらもう一度観てもらう。何度か観るうちに焦点が合ってきたり、違うものが観えたりもするらから」
「そうなんだ」
そうなんだ。四五ちゃんも異能者なのか。聞いてはいたものの今一つ実感がわかない。明るく屈託のない四五ちゃんと異能者という言葉の響き、イメージが合わないのだ。
「あんまり使いたくないんだけどね」
四五ちゃんが塾に行くの嫌だなといった感じで言う。
「物に残った感情を観るのはまだましなんだけど、生身はねぇ。人間の心ってそんなに綺麗なものじゃないし」
「穢れてる―的な?」
「うーん、そんなんじゃなくて。トーマ君はステーキとか好き?」
「うん。好き」
「じゃぁ牛とか豚を解体するのは?皮を剥いで肉を裂くと、血や体液や内臓が一杯出てきて、その中に手や顔を突っ込むとしたら?」
「嫌に決まってる。かなり嫌だよ」
「でしょ?心も結局は物なんだよ。その人の感情や思い出や記憶が絡み合ってできた物なんだよ」
二三が後を引き継ぐ。
「ヨウちゃんにとっては心も臓器みたいなものだってこと。思念は血や体液みたいなもの。思念を読み取るにはその中に手を突っ込んでみたり、匂いを嗅いでみたり、もしかすると舌先で舐めてみたりしなきゃいけない。できればそんなことしたくないけど、うっかり触れたものの残留思念や触れた人の感情が勝手に流れ込んできちゃうんだ。スイッチを切っておくことなんてできないんだよ」
異能者は自身の異能に常に苦しめられているということか。
「できるだけ変なものに触らないように普段は手袋をしてるんだ」
四五ちゃんは肌色の薄い手袋を見せる。ん?手作りっぽい。二三の眼帯と同じお手製品か。
「でも今日は助かったな。トーマ君に触れると嫌な味が消えるから。観た後はいつも体中気持ち悪い嫌な味だらけで、吐きそうで、頭も痛かったりして」
そう言われれば四五ちゃん少し顔色が冴えない。そこへ玄関チャイムが鳴った。しばらくして零一さんが部屋に入ってきた。
「よ、お疲れ。フミ、俺コーヒー」
黒い長髪をちょんまげに結い、ウェリントン型のサングラスをかけ、春物のモッズコートを引っ掛けた姿はストリートファッション誌から抜け出たように格好いい。しかしこの兄妹、三人とも美男美女だが不思議と三人ともキャラが違う。
「ヨウ、座って」
零一さんはサングラスを外して脱いだコートを二三に向かってポイと放ると、四五ちゃんを椅子に座らせ背後から首筋をマッサージし始める。
「お、今日はマシだな?あの女刑事、意外といい奴だったのか?」
「良い豚の内臓も悪い豚の内臓も同じように臭いしキモイ」
「はは、だよな」
「トーマ君が大分消してくれた」
「へぇ」
零一さんがマッサージを続けながら僕を見る。
「さすがは未来の義弟だけのことはあるな」
何と答えていいか分からない。困り顔で「いやぁ」と呟くのが精一杯だ。二三は「もう、やめてよ」と頬を膨らませる。零一さんはただニヤニヤと笑っていた。十分ほどして、
「さ、こんなもんかな。あんまりやりすぎるのも良くないしな」
「うーん、ありがと零兄」
四五ちゃんが猫のように伸びをする。二三がテーブルにコーヒーカップを置く。素朴で味わい深い備前焼のカップとソーサー。零一さんはこれなのか。二三は僕のカップにもお代わりを入れてくれる。
「ヨウちゃんはミルクセーキにする?」
「うん。砂糖大目で」
二三はミキサーに牛乳、卵黄、砂糖をふた匙、バニラエッセンスを一滴垂らして十秒弱掻き混ぜる。細長いガラスのコップに中身を注いでストローを差す。
「コップとスプーンを調べるのはまた明日かな。日に何度もやらせるとヨウちゃんに負担がかかるから」
「そうだな。あんまり日が経つと残留思念も薄れるし。明日かな」
「明日学校から帰ったらCaveで観る。トーマ君も明日Caveに寄って気持ち悪いの取って?」
「うん。寄るよ」
四五ちゃんが僕に纏わりつく理由がようやく分かった。なぜだか異能の力をスルーしてしまう僕からは何も見えないからだ。そして体内に気味の悪い思念の残滓が残ったときにはそれを洗い流すような効果もあるらしい。
さっきの様子を見て察しはついていたが、零一さんにはヒーラーとしての能力が備わっているらしい。その能力を効果的に使うために医師を志したんだそうだ。国立大学の医学部一年生。エリートのタマゴだ。
「望月先生からの情報は今日の牧村さんのと一緒に明日見せるから」
「フミ姉、ノート置いていくから。今日教えてあげたら?」
「うん。俺、車だから。ヨウコ連れて帰るわ。二人で晩飯でも喰いながら相談しなよ。何とか調整委員のさ」
「急にそういうのも― ご迷惑かなって」
遠慮する僕に四五ちゃんが耳打ちする。
「迷惑なんかじゃないよ。フミ姉、日曜の夜が一番淋しいって言ってたし」
「ヨウちゃん!」
二三が怒り顔で四五ちゃんをひと睨みする。「ごめん」とションボリ顔の四五ちゃん。
「何か厚かましいかなって。押しかけて晩御飯だなんて」
「う、ううん。よ、よかったら食べていって。何にも無くてゴメンなさいだけど」
「よし。じゃそれで決まりね」
零一さんは四五ちゃんと連れ立って玄関へ。靴を履きながら僕に笑顔を向ける。
「俺たち異能者は助け合わないとな。さっきの義弟ってのは冗談だけど、これからもよろしく」
と握手を求められた。「こちらこそよろしく」と手を握り返す。見送りに外に出ようとする僕と二三に、零一さんは「いい、いい、ここで」と手を振る。
「トーマ君、また明日ね」
四五ちゃんが明るく言って二人が出て行く。玄関ドアがパタンと閉まった。
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