第3話 探偵勝負

 翌日の昼休み。僕は二三と一緒に校長室にいた。

「ふーん、これはどうしたことでしょうね。探偵係に立候補者が。しかも二組も。きっとこんなことかつてなかったでしょうねぇ」

 国分校長は文豪みたいなべっ甲縁の丸眼鏡を外して「はぁ」と息を吹きかけハンカチで拭き始める。校長室には僕と二三と花村先生、伊村と道長、桜組の担任の笹山先生がいる。

「私も話に聞いている程度ですが、探偵係ですか。生徒会の下部組織としてはどうなんですかね。正直必要なんでしょうか、その探偵係というのは」

 学年主任の笹山先生はあからさまに胡散臭そうな表情で、七三分けの前髪を右手の小指でかき上げた。少し広くなり始めた額がほんのりと汗を掻いている。内心かなり苛立っているのだろう。余計なことをしてくれるなというところか。そしてその苛立ちは僕たち椿組の生徒だけでなく、担任の花村先生、桜の生徒である伊村と道長にも向けられているようだ。

「あぁ違いますよ、笹山先生。探偵係、生徒事案相談調整委員はね、校長直下、校長直属の委員です」

「はぁ?校長直属って、スパイ映画とかじゃあるまいし」

 笹山先生は顔を顰めて見せ声を荒げた。国分校長は落ち着いた表情でまだ眼鏡磨きを続けている。

「東校の学校運営要領です。百十一条にこうあります。学校長は必要と認める場合、生徒事案相談調整委員を任命することができるとね。同条二項にはこうあります。校長は前項に規定する委員を任命した場合は適切な指導監督を行わなければならないとね。生徒会の委員とは少し違うのです。私が直接指導監督を行うことになっているんですよ」

 笹山先生はムッとした表情で国分校長の手元にある学校運営要領を覗きこんだ。古い決裁用紙に旧仮名使いの筆文字で書かれ細い綴じ紐で綴じられている。

「聞いたことありませんがね。西宝東高校の学校運営要領なんて」

 校長はハンカチをポケットにしまい眼鏡を掛け直した。

「まだこの学校が西宝市立西宝東商業学校と呼ばれていた時代のものですが、この要領はまだ生きています。当時の校長、教頭はもちろん、教育委員長、教育委員の署名と捺印があります。確かに古いですがね、まだちゃんと生きてるんですよ、この要領は」

「みんな忘れてますよ、そんなの」

 笹山先生は校長の態度に対する不満を隠そうとしていない。

「笹山先生の言われる通りかもしれませんねぇ。でも要領はここにある。そして立候補した生徒もいる。我々は対応しなければなりませんねぇ。任命権は私にありますので、私はどちらを生徒事案相談調整委員にするかを決めなくてはならないわけです」

 笹山先生は眼鏡の鼻の部分をちょいと掛け直す。

「どちらにするか、職員会議に諮られてはどうです?」

 国分校長は「ふうむ」と言って少し考えた。

「生徒が自主的に立候補したのです。生徒が納得できる形がいいでしょう」

「納得できる形というのは?」

「探偵勝負ですよ。いや、探偵勝負というのも少し軽々しいですかね。模擬案件への対応を見て決めることにしましょう。判定は私が下します。いいですね?」

 花村先生が明らかにワクワクした様子で、

「校長がそうおっしゃるなら椿組は異存ありません」

 僕としても異存があるわけではないんだが、何でこんな学年一のスター生徒、伊村大貴と道長クララと角を突き合わす破目になったのか理解できない。僕って厄除け体質じゃなかったのか。

「ま、校長がそうおっしゃるなら桜としても受けて立ちますがね」

 笹山先生はあからさまな溜息と共に言った。

「で、校長、どのような勝負を?」

 花村先生が頬を紅潮させながら尋ねる。

「観察と分析です」

 校長はそう言って立ち上がると校長室の隅にあるロッカーから小さな包みを取り出す。紺地に白い水玉の散った布に包まれた弁当箱。

「では先生方は部屋から出て行ってください」

 笹山先生は不満そうだったが仕方なく校長室を出ていく。花村先生は校長室のドアの陰から声に出さず口だけ「ファイッ」と動かし、拳を握って見せる。パタンとドアが閉じられた。校長は部屋に置かれた来客用のソファを指さす。

「あちらで話しましょう」

 国分校長が一人掛けのソファに腰掛け、僕たち生徒は向かいの四人掛けに座る。四人掛けと言ってもかなりぴったり身体を寄せないと四人座れない。自然真ん中に僕と伊村が座り、左端に二三、右端が道長の順になる。

「さて、では探偵勝負を始めましょうか」

「模擬案件対応じゃなかったんですか?」

 道長が口の端に薄っすら笑みを浮かべながら高校一年生と思えない世慣れた口調で尋ねた。康彦から聞いた話ではお父さんがデンマーク人らしい。深く滑らかな曲線を描く横顔はとても綺麗だ。確かにスターのオーラを発している。

「笹山先生は少し堅苦しい所がありますからね。本筋と違うところに若干こだわりすぎるところがある。あ、言っておきますが探偵係になっても、ならなくても、探偵係候補者の皆さんには守秘義務が発生します。この部屋で見聞きしたことは口外無用、一生胸に秘めておいてください。担任はもちろん家族にもね。できますか?できないならこの場で立候補を取り下げてください」

 僕たち四人はほんの一瞬様子を見合うように沈黙したが、意外にも「できます」と最初に言ったのは二三だった。僅かに遅れて道長が、その後を追うように僕と伊村が「できます」と声を発する。

「結構。さて、まずみなさん今スマートフォンを持っていますか?はい。持ってると思いました。最近は持ってない高校生を探す方が難しいですから。使用を許可しますからチーム同士の相談はチャットアプリなどを使ってください。この状況では肉声で内緒の相談はできませんからね。さて私のアカウントをお教えしましょう。これです。チームで相談して決めた答えをこのアカウントに送ってもらいます。あ、もちろんマナーモードのままでね。では最初の課題です」

 校長先生はローテーブルの上にお弁当の包みを置くとクルリと回して僕らの方に向けた。

「このお弁当箱を見て分かること、想像できることを答えてください。観察時間は三分間にしましょう」

 十秒と待たずに僕のスマホが震える。

『道長をあまりジロジロ見ないほうがいい。恥ずかしいぞ』

『見てない 観察してるだけ』

 布の三角の角が垂れているほうが手前とすると

『左利き?』

『可能性はある。結び方は個人のクセもある。絶対じゃない』

『男物の布 洗濯アイロンされてる いい奥さん』

『昔風の解釈だ。掃除洗濯がいい女の条件ではないぞ』

 そんなこと言ってる場合かなぁ。

『クラスの弁当と比べ 匂いがしない 揚げ 油もの 少ない?』

『校長は結構スマートだ。成人病検診に引っかかるタイプではなさそうだ』

『あっさり好き?ベジ?ヴィーガン?』

『頭のてかりと血色を見ろ。見た目は細身で穏やかだか肉とチーズと酒が好きに違いない』

『答え まとめないと』

『分かっている。横道に逸れずに集中しろ』

 どっちがだよ。それにしても二三は文字を打つのが早い。それに普段の口調とチャット分から受ける印象が少し違う。メールだと少し自己中心的で断定的。どっちが本当の二三に近いのだろう。

「さて、あと一分ですよ」

「包みに触ってみていいですか?」

 僕が尋ねると国分校長は、

「指先で軽く触れる程度なら。箱を動かしてはいけません」 

 僕と伊村、道長が素早く包みに触れる。清潔な木綿の感触。結び目も確かめる。さり気なく指先を嗅いでみるが何も臭わない。

『どうだ、分かったか?』

『左利き 幅細の箱 この二つは確定』

『うん。で?』

 で?じゃないよ。

『作り手は左利き サラリーマンサイズの箱 校長は転職者?』

『知らないのか?元商社マンだ。三年前に公募で選ばれた。受験前に調べるだろ普通』

『最初から教えて 他は?』

『知らない。時間だ。頼んだぞ』

「さぁ、時間です。分析結果を送ってください」

 ひょっとすると二三は邪眼のせいで随分と甘やかされているのかもと考えながら校長へのまとめを打つ。校長のスマホが震え始める。

 僕の分析まとめはこうだ。一「結び目からして作りては左利きの可能性。つまり校長が自分で作ったものではない」ここで一旦トークを送信。二「弁当箱のサイズから会社員時代の物ではないか」送信。三「男物の布できちんと洗濯アイロンがけされている。奥様は専業主婦では」送信。校長のスマホは先程から震えっ放しだ。桜組は伊村と道長がそれぞれ意見を送っているらしい。ヤバイ。指の動きも僕の倍くらい早い。四「健康のため油ものを控えているのでは」送信。五… うーん… そうだ。「お弁当箱の持ち方が丁寧。結び目を摘まずに両手で箱を持っている。作り手を大切に思っている」送信。

「さぁ、そろそろいいですか」

 国分校長がそう言ったとき、不意に二三が画面に指を走らせる。ブルル。校長のスマホが震える。

「はい。じゃぁここまでにしましょう」

 校長は画面を見ながらフムフムと頷く。

「箱を包んだ人は左利きではないか。これはどちら組も気付いたようです。その通り。正解ですよ」

 校長は画面をゆっくりスクロールしていく。

「私が商社マンだった頃の弁当箱ではないか。この意見も双方一致ですね。正解です。数年使っていなかったのですが東の校長になってからまた使い始めました」

 校長は楽しそうだ。小さく頷きながら画面を読む。

「ほう。弁当箱の容量は約六三〇ミリリットル。摂取カロリーは七五〇キロカロリー前後と想定される―か。これは自分でも計算したことがありません。短い時間でよく推計しましたね」

 なるほどそうきたか。これは伊村だな。

「包み布にキチンとアイロンがかかっている。包み方が丁寧。これも双方一致の意見ですね。奥様は専業主婦―か。はは、当たりですねぇ」

 よっしゃ。

「ふーん」

 校長の指の動きが止まる。

「かすかに亜麻仁油の香りがする。すごいですね。私もつい最近まで気付いてなかったのですが。確かに亜麻仁油を使っているそうです」

 くやしいが凄いというしかない。僕なんか亜麻仁油ってどんな匂いなのかも知らない。

「うん―」

 校長が画面をジッと見つめる。

「お弁当はメッセージ。持ち方でそのメッセージを大切に受け取っているのが分かる。箱の持ち方が丁寧。作り手を大切に思っている。なるほど」

 前半は二三のメッセージだろう。しかもなかなか心に刺さる表現だ。校長は画面から顔を上げ笑顔を見せた。

「桜組も椿組も素晴らしい。処理スピードと客観的な分析では桜組、一方で椿組は目に見えるものの奥にあるのもにも目を向けようとしている。双方互角。第一戦は引き分けですね」

 第一戦。じゃぁ二戦もあるんだ。必ず勝負をつけるということか。

「正直第一戦で決着が着くと思ってたんですが。校長たるもの生徒を侮ってはいけませんねぇ」

 校長はお弁当箱の包みを解いて蓋を開ける。校長は弁当にスマホを向けるとカシャリと写真を撮った。隣でなぜか二三がビクンと身体を震わせた。校長はクルリと弁当箱を回して僕たちの方に向ける。

「さて、この後私が食べますので味見はダメです。触ったり顔を近づけて匂いを嗅いだりするのもね。観察時間はこれも三分にしましょう。はい」

 細長い長方形のお弁当箱。左半分はごはん。玄米ご飯。ご飯の上にほぐした鮭の身を敷きつめ中央に梅干しが一つ。右半分はおかずと果物。おからの和え物。豆腐の田楽。筍山椒。甘夏みかん。

『黙ってられると不安だ。どうなんだ?』

『考えチュウ』

『チュウってなんだチュウって。変な言い方は止めろ』

『へんかんみすだよ 集チュウして』

『…』

 伊村君と道長さんのスマホもミツバチのようにブンブン鳴りまくっている。向うはきっと建設的な意見の交換がなされているに違いない。

『確かにヘルシー トンカツ唐揚げ入ってない』

『トーマの弁当には入ってるのか?』

『牛豚鳥、どれかは絶対入る』

『ふーん。肉、好きなの?』

『怒怒 探偵かかり なりたくないの? 考えろ』

『絶対なる。全力で行け』

 何が全力だ。昨日は何だか可哀そうな子だなって同情して損したかもしれない。

「さぁ、あと一分ですよ」

『いい匂いだ。手間暇かかったお弁当だな』

『おからと豆腐、豆腐かぶりだ』

『豆腐好きなんじゃないか?』

『この弁当 アンバランス』

 僕は何となくこの弁当にモヤモヤしたものを感じた。

「校長先生」

「何かな?清村君」

「校長先生は毎日お弁当の写真を撮るんですか?」

「ええ、まだ撮り始めてひと月も経っていませんが」

「あのう、もしよければ昨日のお弁当の写真を見せていただけませんか」

 校長はちょっと僕の真意を測りかねるように曖昧な笑みを浮かべたが、

「いいでしょう」

 とスマホの画面を何度か擦った。

「これです」

 差し出されたスマホに僕と伊村、道長がグッと顔を近づける。二三もグイと身体を寄せてくる。視界の端に黒い眼帯の影がチラつく。

 そぼろタマゴをのせたご飯、オクラとじゃこのおかか和え、ツナマヨコーン、

「あのう、校長先生、これは?」

「さんまの竜田揚げですね」

 そして果物はビワか。なるほど。そういうことか。二三が敏感に何か察してスマホを叩く。

『何?何を見つけた?』

『二三はさすがだね』

『エッヘン でも何が?』

「さぁ、時間ですね。ではそれぞれの組の見解を送ってください」

 校長はお弁当のふたを閉じながら言った。校長が言い終わって五秒ほどでもう校長のスマホが震える。その後五秒と間を空けずに震え続ける。さすがは桜のスター二人だ。僕は落ち着いて妙な誤変換のないように、かつ素早く簡潔に僕の見解を画面に打ち込む。二三も何か感じるものがあったのか、トークを連発することなくじっくりと文章を打っている。

「さて、そろそろいいでしょうか」

 二三が送信ボタンを押す。僕も文末に最後の丸を打つと送信ボタンを押した。

「はい、ではここまで」

 そう言って校長は画面の文字をじっくりと追い始める。初めのうちはニコニコ笑いながら画面を見ていた校長の顔から表情が消えていく。そして沈黙。その沈黙が一分近く続き、さすが伊村道長の両スターもモジモジし始めた時、校長が口を開いた。

「清村君」

「はい」

「清村君の考えをみんなに話してくれませんか」

 三人の視線が僕に集中する。伊村と道長の顔に「まさか」「なぜ?」の表情が浮かんでいる。僕は緊張で噛まないようにゆっくりと話し始めた。

「最初にお弁当を見た時に何だか少し違和感を感じたんです。アンバランスというか、不器用というか、何だかお弁当を作ったことのない人が詰めたような、ちぐはぐな印象を受けました」

 僕は息を継いでコクンと喉を鳴らす。

「校長の奥さん、ある程度家事や料理経験のある人が詰めたようには見えませんでした。手の込んだおかずもありますから料理未経験者の作ったお弁当とは思えません。そこで共同作業なのかもと考えたんです」

 二三がギュっと身体を寄せてきて僕の左袖をそっと摘まんでいる。どうやら応援してくれているらしい。

「校長先生は最初にお弁当の写真を撮られました。お弁当を写真に撮ってブログやSNSにアップしている人は大勢います。でもお尋ねした時にまだひと月も経ってないとおっしゃったのでピンときました。ひょっとしたら娘さんでもいらっしゃって娘さんが作ってくれた、お母さんと一緒にお弁当作りを手伝い始めたんじゃないかって」

 校長はジッと僕の顔を見つめたまま。伊村と道長は正に固唾を呑むといった感じでこれまた僕を注視している。正直かなり恥ずかしい。二三は視線を下げたまま僕に身体を寄せて袖を掴んだまま。

「で、そう思ってお弁当を眺めてみたらある事に気付きました。今日のお弁当の写真を見せていただいていいですか?」

 校長は黙って弁当の写真が写った画面を差し出す。僕は写真を指で示しながら続ける。

「おからの和え物、豆腐田楽、たけのこ山椒。最初は豆腐が被ってるし、ひょっとしてご実家が豆腐屋さんなのかなとか変な想像をしたり、詰め方がなんかアンバランスだなと感じてたんですが、二三のー いや四十崎さんの意見を聞いてハッと気付いたんです。お弁当はメッセージなんです」

 僕は再び画面を示す。

「おから、豆腐、そして最後はタケノコではなく山椒。お、とう、さん、というメッセージです。昨日のお弁当の写真をもう一度見せてください」

 校長は黙って前日のお弁当の写真を示す。

「オクラ、ツナマヨコーンはとうもろこしと読みます、そしてさんま。これも同じです。お、とう、さん、です」

 誰も口を利かずただ校長の手の中のスマホを見つめている。

「これは多分奥様ではなく、お子さん、お嬢さんからのメッセージではないかという気がします。お母さんと一緒にお弁当作りを手伝いながら、いつも頑張ってくれているお父さんに感謝のメッセージを伝えたかったのではないでしょうか。このお弁当は大切な人への感謝のメッセージだと思います」

 校長先生はしばらくじっと画面に見入っていたがやがてスマホをポケットに戻した。少し遠くを見るような目つきで話し始める。

「この話は誰にもしたことはありません。東校の生徒はもちろん教職員も、教育委員会の人たちも当然知りません。誰にも話すつもりはありませんでしたが、あなたたちにだけ話すことにしました」

 校長の口元には静かな笑みが浮かんでいる。

「私には娘がいます。一人娘です。彼女は高校入学から二か月経った頃、突然不登校になってしまいました。いや、突然ではなく、後から考えれば色々と彼女なりのサインを出していたのですが、親である私も妻もそのサインに気付けなかったのです。結局彼女は高校を退学し、自室に引き籠るようになりました。私は自分を責めました。どうすればいいのかと随分と悩みました。いや、過去形ではなく今も悩み続けています。東校の校長に応募したのは彼女が引き籠るようになって二年が過ぎた頃でした。校長になり多くの高校生に触れることで娘が立ち直るためのヒントが見つかるのではないかと考えたのです。それと同時に娘のように苦しんでいる生徒の力になれればという思いもありました。私は毎日日記を書いて娘の部屋の前に置くようにしました。学校での辛いこと、苦しいこと、嬉しかったこと、驚いたこと。全部包み隠さずに書いたのです。彼女はそれを読んでいるようでしたが反応はありませんでした。最初のうちは彼女が見せた反応といえばただ物に当たり散らす音と叫び声ぐらいでした。こちらの呼びかけに応えるようになったのもこの一年くらいからです。うんとか嫌とか、ごく短い意思表示だけですが、それでも私たち夫婦にとっては嬉しい出来事でした。そしてこの春、桜の花がほころぶ頃、もっと素晴らしいことが起こりました。彼女がとうとう自室から自分の意志で出るようになったのです。早朝のまだ私が起き出す前の時間帯ですが。しかも妻と一緒に弁当作りを手伝ってくれているというのです。私たち夫婦がどれだけ歓喜したか、あなたたちには想像もつかないでしょうね。娘を刺激しないよう私は弁当作りが終わるまで目が覚めてもキッチンに降りて行かないようにしました。弁当を作り終えた娘が自室に戻ったのを確認してから、ベッドを抜け出し階下に降りるのです。そして弁当箱を大事に抱えて出勤するのです。娘の作ってくれた弁当を写真に収めてから、大事に大事に味わって食べるのです。娘の精一杯の努力、思いの籠った弁当をいただくのです。まさにメッセージです。この弁当は大切な人からのメッセージです」

 校長は薄っすらと涙を浮かべている。

「私は今、とても嬉しく幸せな気持ちと、恐ろしい気持ちでいっぱいです。娘が私に送ってくれたメッセージに気付いた幸せ。そしてこの探偵勝負がなければ娘のメッセージに永久に気付かなかったかもしれないという怖れ。この機会を与えてくれた君たちに感謝します。ありがとう」

 校長は僕たちに向かって頭を下げた。僕らも慌てて頭を下げる。

「さて、勝負はこれでお終いです。実は高校生同士の探偵ごっこと高を括っていましたが、私が浅はかでした。椿組の二人には感謝しないといけませんね。大切なことに気付かせてもらい心の負担が随分と軽くなった気がします。また明日も頑張ろうという気にさせてもらいました。ありがとう」

 校長は僕と二三に頭を下げた。伊村と道長にも微笑みかける。

「君たちもよくやりました。私の酔狂に付き合ってくれてありがとう」

 校長がソファから立ち上がる。僕たちもそれにならう。

「さて、もうわざわざ私が判定を下すまでもないでしょう。どちらが探偵係に相応しいか、もう君たちは分かっているでしょうから。では午後の授業も頑張って」

 礼をして校長室を出てこうとする僕たちを校長が声をかける。

「四十崎さん」

 二三が立ち止まって振り返る。

「君が学校に来てくれて嬉しいです。友達ができると学校は楽しいですからね。では」

 僕たちは廊下に出てドアを閉めた。伊村がふぅと大きく溜息を吐くと左手をポケットに突っ込んで右手で頭を掻くふりをする。

「参ったね。やられたよ。俺たちの負けだな」

 伊村が右手を差し出してきたので快く握手に応じる。

「僕らが平民だからだよ。平民はああいう細かいところが目に付くんだ」

 伊村はアハハと笑う。

「清村に敬意を表して今後はトーマと呼ぶことにしよう。僕のことは大貴と呼んで」

「あたしもちょっと驚いたな。だって四十崎のことフミって呼ぶんだもの。いつから付き合ってるの?」

「いや、付き合ってないし。昨日会ったばかりだよ。クラスメイトなわけだし、同じ委員をやるわけだからさ、二三でいいかなって」

 ちょっと言い訳がましい僕。僕たちはそれぞれの教室に戻り、午後の授業を受けた。結局、伊村と道長は立候補を取り下げ、二三と僕は正式に西宝東高校一学年の生徒事案相談調整委員、副委員となった。

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