第2話 生徒事案相談調整委員
「こいつ、梅の津久井蓮。小学校時代に同じフットサルクラブに入ってたんだ」
「二組の津久井です。よろしく」
「あっ、五組の清村刀真です。こちらこそよろしく」
「はは、嬉しいな。噂の刀真くんとお近づきになれるなんて」
「え⁉」
康彦がニヤつきながら僕の肩を小突く。
「聞いたぜ、トーマ。可愛い相棒ができたって?」
どうやら四十崎さんとの一件はもう学年中に知れ渡っているらしい。
「いや、何かよく分かんない委員にならされただけだし。どうして知ってるの?」
「蓮に教えてもらったんだ。連は中学から東だからさ。情報網もあるし」
「まぁ情報網ってほどでもないけど」
「でさ、ほら俺たち高校入学組だから東の事よく知らないだろ?蓮がさ、探偵係と四十崎二三のこと教えてくれるって」
「いいの?」
「うん。僕の家ここから歩いて二十分くらいだから。よかったら来ない?」
僕と康彦は津久井君の家にお邪魔することにする。津久井君の家は綺麗に区画整理された閑静な住宅地の中にあった。
「何か金持ちっぽい街並みだな」
「僕が越して来た頃は田んぼだらけだったけど。ここだよ」
白い壁に赤茶色の屋根の大きな家。僕の家が二つすっぽり入りそうな広い敷地。青い芝の広い庭。毛足の長い大型犬が尻尾をブンブン振りながら津久井君を迎える。家に上がって津久井君の部屋へ。十畳くらいの部屋にベッドと勉強机、エアコンに大きなゲームモニター。津久井君が他の部屋から大きなクッションを二つ抱えてくる。
「適当に座ってよ」
言われるがままにクッションにふんぞり返っていると津久井君のお母さんがジュースとお菓子を持ってきてくれる。康彦のことを覚えているらしく「あらぁヤス君、大きくなったわねぇ。お母さんお元気?」などと昔話を始めそうな勢い。津久井君が辟易したように
「母さん、僕ら学校の相談事があるんだから」
と言うと「はいはい分かりました。二人ともゆっくりね」と笑いながら部屋を出て行く。康彦はキットカットを頬張りながら、
「お前の母さん相変わらずいい人だな」
「愛想はいいんだ。他人にはね。あ、適当に喰ってね」
「ありがと」
僕もキットカットをいただく。
「トーマ、あのパラソルチョコ何よ?」
康彦は時々物凄く勘がいい。僕は素直に四十崎さんに貰ったと告げた。メモのことは黙っておいた。康彦と津久井君が「おぉ」という表情になる。
「凄いなぁ。清村君て大物なんだな。あの四十崎からチョコ貰うなんて。今がバレンタインじゃなくて残念というか、良かったというか、だけどさ」
「そんなに人気なの?まぁ確かに結構可愛いけど」
津久井君が違う違うと手を振る。
「そういう意味じゃないよ。むしろ逆。彼女クラスの誰かと仲良くしたりコミュニケーションを取ったりするタイプじゃないんだ。中学からの内部進学組の間では彼女有名なんだ」
「どう有名なんだよ?」
「うん、中学の時から四十崎は恐怖の対象というか、タブーと言うか、みんなから避けられてるんだ。本人もそれが分かってるからなのか滅多に学校に来ないけど」
津久井君はジュースで口を湿らせると中学時代の四十崎さんのことを語り始めた。
僕が最初に四十崎のことを聞いたのは中学に入って少ししてからだったかな。うん、ゴールデンウイークが終わったくらい。東の中等部は全部で五クラス。桜から始まって、梅、菫、藤、椿なんだけど、同じサッカー部の椿のやつがさ、椿に変な子がいるっていうんだ。眼病らしくて教室の中でもサングラスをしていたり、眼帯をしていることもある。男子はもちろん女子ともつるまないし、誰とも口を聞かないからクラスで浮いてるって。それが四十崎だったんだ。僕は学校帰りとかに何度か見かけたことがある程度でさ。その時はふーんて感じだったけど、梅雨頃かな。ジトジトザアザア、六月半ば過ぎの一番鬱陶しい頃さ。その椿の友達が部活帰りに「ヤバイ」って言いだして。何がヤバいんだよって話の流れでさ、聞いてみると四十崎がヤバいんだって。その日学校で事故があったって言うわけ。
クラスの女子のトップがさ、あ、トップって知ってる?そうそう、クラスで一番イケてる生徒のこと。二番手、三番手、別格、大御所とか色々あるんだけど、トップの女子がさ、四十崎にちょっかいをかけたらしいんだ。その日四十崎は眼帯をしてたんだって。その頃は今みたいな黒い怪しい眼帯じゃなくてさ。普通の白くて四角っぽくてガーゼがあてがってあるアレ、そうそう眼科なんかで出してくれそうなアレだったよ。それをさ、取っちゃったんだ。後ろからそっと忍び寄って眼帯の白い紐をシャーペンの先で引っ掛けてさ、耳から外してさ、眼帯を外しちゃったんだよ。その時の四十崎の慌てぶりは普通じゃなかったらしい。この話を教えてくれた椿の友達は四十崎の声をその時始めて聞いたって。四十崎さ、その時悲鳴を上げたらしいんだ。トップとその取り巻きたちはそれを見て笑ってたらしい。四十崎は落ちた眼帯を拾い上げて振り返った。そして後ろの席に座ってたトップを睨みつけた。トップはさ余裕の顔で「何よ」とか言い返したらしい。四十崎は無言で眼帯を握りしめながらトップを睨み続けた。そしたらさ、トップの顔から急に笑顔が消えて、苦しそうに胸を押さえて倒れちゃったんだって。一緒になって笑ってたトップの斜め後ろにいた子も気分が悪くなって立てなくなったって。もちろん四十崎は何もしてない。ただ睨んだだけさ。でも、その場にいたやつはみんな分かってたんだ。四十崎がやったんだって。邪眼って聞いたことある?その眼を見てしまうと呪われるとか、石になっちゃうとか、そういうやつ。具合の悪くなった二人は翌日には体調も戻ったんだけど、それ以来四十崎は邪眼使いだって噂されるようになった。この話以外にも似たような被害者が何人かいるらしいよ。嘘か本当か知らないけど、彼女に呪われて自殺しちゃった子もいるって。そりゃ単なる噂だけど。自殺ってのは本当だよ。東の中等部の校舎から飛び降りたんだ。噂が立つと同時に四十崎はほとんど学校に来なくなったんだ。
「邪眼かぁ、なるほど。あれが邪眼ね」
僕は三つ目のキットカット包装を破りながら呟いた。康彦が即座に反応する。
「お前、見たのか⁉」
僕はキットカットを口の端に加えたまま顔の前で手を振る。
「いや、見たっていうか、綺麗な目だなぁって」
「やっぱ見てんじゃねぇか⁉」
「えっ!ヤバくない⁉それって」
僕は二人の反応に驚いてブンブン首を振る。
「眼帯を外す前さ。見たのは左目だよ、左目」
と嘘を吐いておく。津久井君がジュースをゴクゴクと飲み干す。
「よかったよ。彼女の右目を見たらタダじゃ済まないからさ」
何だが四十崎さんの右目が綺麗な銀灰色だったとは言えなくなってしまった。
「とにかく彼女には気を付けたほうがいいよ。触らぬ神に祟りなしさ」
「分かったよ」
クラス委員たちがあんなにも四十崎さんを、四十崎さんが眼帯を外すのを怖がった理由が分かった。クラス委員たちは四十崎さんの邪眼の力を信じているんだ。そして四十崎さん自身もそのことを十分承知している。
「何だよトーマ、その顔。何考えてんだ?」
「確認してた。本当に邪眼を見てないかどうか。大丈夫、見てないよ」
僕は津久井君が開けたサワークリームオニオン味のポテトチップスを口に入れる。
「で、探偵係の方は知ってる?生徒事案相談調整委員だっけ?」
「そっちはよく知らないな。中学の時はそんなの無かった。いや、あったのかもしれないけど聞いたこと無いよ。四十崎の立候補が無かったらずっと知らなかったかも」
「ふーん。探偵係っていうくらいだから何かの調査をする係なんだろうけど」
「だろうな。探偵係に関しちゃ俺も知ってることがあるんだ」
康彦は何だか得意げに胸を張った。ニヤニヤ笑いながら勿体つけて黙っている。
「何だよ、教えてよ康彦」
康彦の顔から笑顔がスッと退く。
「立候補したのはお前らだけじゃない。桜からも立候補者が出た」
「えっ!誰⁉」
津久井君も身を乗り出す。康彦はペロリと舌を舐めた。
「伊村大貴と道長クララ。桜のトップ二人さ」
「え!伊村と道長⁉」
「そうさ。しかもさ、二人とも委員長と副委員長に決まってたのを白紙に戻してまで立候補したんだ。笹山の奴もちょっと慌ててたぜ」
笹山先生は桜の担任で学年主任だ。教科は数学。
「どんな様子だったの?」
「知りたがると思ったよ。どのクラスもそうだろうけど委員決めなんてただのパフォーマンスさ。内部進学組の主だったメンバーが委員に就くことが最初から決まってる。笹山がまず委員長を決めようかって言って二秒も経たないうちに内部進学組の誰かが伊村君って声を上げてたよ。で、伊村の奴が副委員長は道長さんがいいと思うけどどうかなって言ってそれで決まり。他の委員もシナリオ通りに即決さ。伊村の奴がだらだらと所信表明とやらをやり終えてさ、道長が面倒臭いポエムみたいな台詞をしゃべってる時だったな。多分伊村の携帯にメールか何かが来たんだろうな。スマートウォッチをチラチラ気にしだしてさ。得意満面で話し終えた道長に伊村が何か耳打ちした。その後すぐに伊村がさ、このクラスのみんなの成長や団結のために僕たちが委員長をやるよりも他に人たちにやってもらった方がいいとか言い始めてさ。で、道長と二人揃って探偵係に立候補さ。ありゃ椿で探偵係に立候補があったことを知ってのことさ」
康彦の言う通り、四十崎が探偵係に立候補したのを知って、それを阻止しようと立候補したんだろう。椿の誰かが、伊村の電話番号を知っている内部進学組の誰かが連絡を入れたに違いない。つまり探偵係、生徒事案相談調整委員は特に進んでなりたいとは思はないが、他人がなると面倒な存在なのだろう。あるいは四十崎さんになられると面倒ということかもしれない。つまり探偵係なんてものはいない、空席になっているのが普通の状態ということなのだ。
僕と康彦は五時頃津久井君の家を出た。津久井君は「また何か分かったら教えるよ」と言ってくれた。津久井君の家から駅まで歩く。康彦は気弱な溜息を吐いて桜組のことを愚痴り始める。
「なんだかみんな凄くいいやつらなんだけどさ―」
「けど―?」
康彦は少し迷いながら言う。
「疲れるっていうか。みんな愛想もいいし親切だし。でもなんかこう、みんなで海外の高校生ドラマを演じてるみたいな。俺もNG出さないように必死に台本覚えて演技してるみたいな、そんな感じなんだよな」
「最初はそんなもんだよ。打ち解けてくるとまた違うよ」
「そうだといいけどなぁ」
康彦にとっても高校生活初日は随分と重たい日だったようだ。僕のことがあったので自分も色々話したいのを我慢していたのだろう。電車の中でも康彦はボソボソとしゃべり続けた。
「目が笑ってないっていうか。ふとした時の一瞥がさ、こう冷たいって言うの?後ろの方からさ、ヒソヒソ話や押さえた笑いが聞こえたり。俺が振り返るとピタっと会話が止んだりさ。あーあ、桜だって喜んで損したなぁ」
康彦も今日一日で随分と病んでしまったようだ。
「大丈夫だよ。しばらくすれば友達もできるし慣れるって」
僕は慰めの言葉を口にする。でも実際のところは分からない。東は三年間クラス替えがない。地獄の三年という可能性は東生なら誰にでもある。
駅に着く。電車を降りると康彦が僕の袖を引っ張って家とは逆方向の改札に向かう。理由はすぐに分かった。西宝神呪神社に寄るつもりなのだろう。厄除け、開運の御利益があることで全国的に有名な神社だ。坂道を登って神社に向かう。鳥居の前で康彦は深々と一礼した。本殿の前の賽銭箱に康彦が五百円玉を入れたのには驚かされた。僕は五円玉一枚。神様はきっと金額ではなく思いの強さを見ているのだと思う。ポンポンと手を打って礼をする。どうか四十崎二三と面倒なことになりませんように。
タイミングよくポケットの中のスマホがブルブルッと震えた。本殿前から下がって僕は携帯を取り出す。
「会いたい」というメールタイトルが眼に飛び込んでくる。送信元はfumi23aizaki。メールを開く。本文には駅前の喫茶店の名前が書かれているのみ。
「どした?」
康彦が心配そうに聞く。どうやら心配になるような顔をしていたらしい。
「うん。何でもない。ちょっと寄るところができた」
「…四十崎か?」
「まぁね」
やっぱり康彦はこういうところで勘がいい。
「お、俺も付いていくか?」
「いや、いいよ。大丈夫」
「でもさ、祟り神だぜ?無視した方がよくね?」
「大丈夫だよ。津久井君の話は怖いけど、僕が見た四十崎はそんなに悪い人に見えなかったし」
「本当かぁ?何かあったらどうすんだよ」
心配する康彦を先に帰して僕は指定の喫茶店に向かった。
指定された喫茶店「CaveCafe」に向かう。店は駅から少し離れた住宅街の中にあった。シンプルなコンクリート打ちっ放し二階建ての建物。小ぶりな窓がいくつかと後は茶色い木のドア。コンクリートの壁に「CaveCafe」と書かれたステンレスのプレートが嵌め込まれている。扉を開けるといかにも喫茶店らしいシャリリンというドアベルの音。次いで「いらっしゃいませ」と落ち着いた男性の声。控えめな音量でジャズが流れている。外観と違って店内は温かみのある深い茶系統の色で統一されており、想像してたよりもずっと広い。店内は木目が美しい長いカウンターで仕切られており、カウンター席が十席、四人掛けのテーブル席が三つ。椅子もテーブルも茶色の木製。椅子の座面は落ち着いた臙脂色のビロード張りだ。壁板もフローリングも茶色だ。カウンターの奥に階段がある。どうやら二階席もあるらしい。
カウンター席に三人、奥のテーブルに二人の客がいる。客の前に置かれたカップは全て柄や形が違う。ただ飲んでいるのは皆コーヒーのようだ。小さなデミタスカップが三つ並んでいる客もいる。
「やぁ、清村君かい?」
上品な銀髪のマスターが笑顔を浮かべながら尋ねてくる。僕の名を知っているところを見るとどうやら四十崎さんの縁者、たぶん祖父だろう。
「はい。あの、いつもお世話に―」
全部言い終えないうちにカウンターの内側の小部屋からこれまたアジサイのように上品な髪色の女性が出てくる。
「あらまぁ」
老婦人は嬉しそうな笑みを浮かべて急ぎ足にカウンターから出てくる。
「まぁ、あなたが清村くん?」
ご婦人にいきなり両手を握られ僕は固まってしまう。
「まぁまぁ、二三のボーイフレンドが尋ねてくるなんて。本当にこんな日がくるなんてねぇ。ようこそ、清村君。来てくれて本当に嬉しいわ」
「おいおい、清村君が困ってるじゃないか。すまないね清村君」
パタパタと階段を降りてくる気配。四十崎さんだ。制服姿の四十崎さんはわざと髪を乱して右目を隠している。耳のところに黒い紐が見えるから眼帯は付けているようだ。
「二階に上がって」
と階段の方を指さす。
「二三ちゃん、ボーイフレンドを連れてきた時はきちんと紹介するものよ」
ご婦人はまだ僕の手を握ったまま。
「言ったよね、おばあちゃん。ボーイフレンドとかじゃないから。クラスで一緒に委員をやることになっただけ」
「あら、でも男の子のお友達でしょう?いいじゃない、ボーイフレンドで。ねぇ、清村君」
「はぁ」
四十崎さんは無理やり僕の手を引っ張ると祖母から僕を引き剝がす。急ぎ足に階段を登る。二階にもコーヒーのよい香りが漂っている。二階は首の高さくらいまでの壁で細かく仕切られており、半個室になっている。半個室が八つ。奥の二つは他より広めの造りになっている。部屋のうち二つから灯りが漏れている。四十崎さんは空いている奥の部屋の手前まで行くと小さな声で「座って」と部屋の中を指す。僕は無言で中に入る。小ぶりなテーブルと椅子二脚。読書灯。ヘッドフォン。FREE Wi-Fiの日替パスワードを書いた紙コーン。
「ごめん」
四十崎さんは髪を揺らしながら謝った。
「あたし友達いないから。トーマを呼んだって言ったらおじいちゃんとおばあちゃん、舞い上がっちゃって。あとでちゃんと説明しとく」
四十崎さんは小さな声で言った。もし僕がメールを無視していたら二人の落胆はいかばかりだったろう。来てよかったとホッとする。
「あの、しゃべって大丈夫?」
「大丈夫。勉強室とかネットカフェ的な使われ方してるけど基本喫茶店だから。常識的な音量なら会話優先。煩わされたくない人はヘッドフォンや耳栓を使うことになってる」
「そうなんだ。四十崎さん家がここだったなんて。前から気になってたんだ。この喫茶店って中はどうなってるのかなって。それはそうと、僕のアドレス誰に聞いたの?」
「ごっ、ごめん。学校に緊急連絡用のアドレス届けたでしょ?花村先生に教えてもらったの」
四十崎さんが申し訳なさそうに小さくなる。
「はいはい、お邪魔しますよ」
おばあちゃんがトレイに載せたお皿を運んできた。
「夕ご飯前だけどこれぐらい平気よね?食べ盛りの高校生なんだし」
僕と四十崎さんの前に皿を置く。削ぎ切りにされたバームクーヘンが山盛りになっている。皿の脇にホイップクリームがたっぷりと添えられている。
「ありがとうございます。あの、お構いなく」
「何言ってるの。待ってね。もうすぐコーヒーが来ますからね― あ、来た来た」
四十崎さんは少しムスッとした表情だったが何も言わなかった。
「お待たせ」
おじいちゃんがおばあちゃんと入れ替わって部屋に入る。僕と四十崎さんの前にカップを置く。僕の前には肉厚の白いマグカップ。四十崎さんの前には淡いクリーム色のカフェオレボウル。
「へぇ、トーマ君はそれかぁ」
入口から茶色い長髪をちょんまげに結った若いハンサムな青年がこちらを覗き込んでいる。綺麗な歯を覗かせて僕に向かって会釈する。
「長谷川零一です」
「長谷川四五(ようこ)です」
零一さんの後ろから女の子がぴょこりと顔を出して悪戯っぽく笑う。字に書いてもらわなくてもこれくらいなら僕でもピンとくる。たぶん四五と書いて「ようこ」。零、一、二、三、四、五。つまり三人兄弟だ。でも苗字が違う。
「じいちゃんはね、初めてのお客さんがくるとその人に合わせたカップを選んで出すんだ。で、基本次に来た時も同じカップで出す」
「時々は変わるよ?卒業とか、就職とかさ、結婚した時なんかに」
僕に合うのはこのシンプルでプレーンな白いマグカップということか。喜んでいいのか悪いのか良く分からない。おじいちゃんがポットからなみなみとコーヒーを注いでくれる。四十崎さんは自分で銅製のカップからボウルに牛乳を注ぐ。そこにおじいちゃんがコーヒーを注いだ。カップの色より少し濃いくらいのミルクコーヒーが出来上がる。
「ねぇ、二三」
零一さんがじれったそうに尋ねる。
「本当かい?トーマ君がさ、ほら、平気だって話」
おじいちゃんがテーブルに砂糖とミルクの容器を置いて部屋の外に出る。すると四十崎さんは右手で髪を掻き上げる。眼帯が取り去られ銀灰色の瞳が顕わになる。僕は思わず「あっ」と呟いた。四十崎二三の邪眼。ドキリと胸が高鳴る。四十崎さんはそのまましばらく僕をジッと見つめていた。僕は吞まれたように四十崎さんの眼を見つめ返していた。やがて四十崎さんはブルンと髪を振るうと眼帯を嵌めなおした。背後から見守っていた四人から溜息が漏れた。
「トーマ君、本当に何ともないの?」
零一さんが近づいてきて「失礼」と言いつつ僕の手首を取って脈を見る。顎の下に手を当て、眼を覗き込む。四五ちゃんもやってきて僕の肩や頭にペタペタ触る。
「うん。少し脈が速いだけで正常だ。驚いたな。本当に耐性があるんだ」
耐性?そしてこの四人の演技とは思えない驚きぶり。実は津久井君の話はあまり本気にしていなかったのだが、ひょとして四十崎さんの邪眼というのは本物なのか?ほんの数秒彼女と見つめ合っただけで家族がこんなに驚いてしまうほどのものなのか?
「もういいでしょ?学校の打合せだって言ったでしょ」
「はいはい分かりました。さぁみんな、下に降りるわよ」
心得顔のおばあちゃんがニコニコ顔でみんなを階段へ押しやる。少女の「えー、まだ見たかったのにぃ」という声。おばあちゃんが「二三ちゃんのデートを邪魔しちゃダメよ」という声が小さく消えていく。四十崎さんが小さく溜息を吐く。
「ごめん。いくら説明しても聞かないんだ、おばあちゃん」
「いいよ、別に」
気まずい沈黙が訪れそうになる前に、四十崎さんが「どうぞ食べて」と言って自分もカフェオレボウルを両手で包んで口をつける。どうやら四十崎さんも少々気恥ずかしいらしい。僕はフォークにバームクーヘンを刺すとクリームをたっぷり付けて口に放り込む。
「美味しい。店で焼いてるの?」
「ううん。知り合いのケーキ屋さんから仕入れてる。バームクーヘンだけじゃなくケーキもすごく美味しいんだ」
「そうなんだ。コーヒーもすごく美味しい。香りもいいしフルーツみたいな味がする」
「それ聞いたらおじいちゃん喜ぶよ」
僕らはしばし沈黙してコーヒーとバームクーヘンを楽しんだ。
「あの、探偵係のことだけどさ。生徒事案相談調整委員、だっけ?」
「うん―」
四十崎さんはカフェオレボウルで顔の半分を隠したまま答える。
「どうして僕を誘ったの?」
数秒の沈黙。四十崎さんはカフェオレボウルを静かにテーブルに置く。
「そうか。トーマは気付いてないんだね?そうなんだ」
「気付いてないって何に?」
「あたしはね、零兄もヨウちゃんもそうなんだけど、兄弟揃っていわゆる異能者なんだ。多分もう知ってるよね?あたしの邪眼のこと」
「―うん」
「あたしがトーマを探偵係に誘ったのはトーマもある意味異能者だからだよ」
この時僕はかなりの間抜け面をしていたに違いない。何しろ「異能」という言葉とは最も縁遠い人間だという自負があったから。実際これまでそういう人生を送ってきたし。
「トーマはね、異能を打ち消す人なんだよ。異能者の力を吸い取ってるのか、中和してるのか、同じ力を発揮して打ち消してるのか、その辺はあたしにも分からないけど。異能を打ち消す異能。立派な異能者よ。だからあたしに見つめられてもなんともなかった。さっきも、今日のお昼も。あたしは魔女じゃないから相手を石にするのは無理だけど、あたしの右目をまともに見ると、ほとんどの子が気分が悪くなったり胸苦しくなって動けなくなったりするんだ」
まさか憧れの東校に入学早々、四十崎さんみたいな可愛い子から異能者呼ばわりされるとは予想していなかった。にしても、異能者の端くれであればそれらしい予兆とか片鱗とかが見られそうなものだと思うが。
「トーマは幽霊とか火の玉とか、小っちゃいおじさんとか、緑の小人とか、見たことないでしょ?」
「ない。全くない。てか見たことある人っているの?」
「うん。私は神社の近くとか行くと緑の小人とか小っちゃいおじさんはよく見るよ。でもトーマはたぶんこれからも見ないと思う。厄除け体質っていうか、そうゆう摩訶不思議なものをスルーしちゃうの、トーマの異能は」
「いいね、それ。素晴らしい」
「ふふ。でもそれって別の見方をすると宝くじで五億円当たったり、大富豪になったり、とんとん拍子に大出世する可能性も低いってことになるんだ。そういう幸運って大抵は霊や魔物みたいなものが絡んでることが多いから」
「なるほど。僕は平凡に生きることを運命づけられてるんだな。でもまぁ東に合格しただけでも僕にとっては望外の幸運ってやつだし」
四十崎さんはちょっと笑って再びカフェオレボウルを持ち上げると口元を隠した。
「迷惑なことは分かってるけど」
四十崎さんはギュっと握った拳を少し大きめの春物カーディガンの袖で隠しながら、膝に手を揃えて僕に頭を下げる。
「いきなり巻き込んで本当にごめん。でも邪眼持ちのあたしと委員をやれそうなのはトーマしかいないから。お願いします。一緒に探偵係やってくれない?」
可愛い女子にお願いしますと頭を下げられて断れる男子高校生はなかなかいないと思う。
「ぼ、僕で良かったら。探偵に向いてるとは思えないから四十崎さんの期待には応えられないだろうけど」
顔を上げた四十崎さんは少し涙ぐんでいたので僕は大層慌ててしまった。
「ありがと、トーマ」
と言って言って四十崎さんは袖先で目元をゴシゴシやった。
「あ、でも、あたしちょっと図々しいかな。友達でもないのにトーマトーマって。同じ異能者だからつい―」
四十崎さんが少ししょげたように俯いたので僕はかなり慌ててしまった。
「い、いいよいいよ、そんなの。あっ、そうだ、僕も二三って呼ぶからさっ」
その場の勢いでつい口にしてしまった言葉に、四十崎さんは驚いたように顔を上げる。でもすぐにまた俯いてしまう。
「それはお勧めできないよ。あたしを二三なんて呼んでたらトーマまで学校で除け者にされてしまう」
今更そうだねやっぱりやめとくよとは言えるわけもない。
「でも大丈夫なんだよね?僕って厄除け体質だから」
四十崎さん、もとい二三はちょっと虚を憑かれてように僕の顔を眺めていたが、やがてこの日、というか出会ってから初めて笑顔を見せた。
「そうであること願う。心から」
そう言って二三はまた頭を下げる。
「さて、で、探偵係って結局何なんだい?何をするの?校内の紛失物調査とか?」
「うん、探偵係っていうのは俗称なの。正式には円城が言った通り、生徒事案相談調整委員。生徒はもちろん教師や保護者からの相談や依頼に応じて調査や調整を行うの。調査権があってね、学校の持ってる資料なら何でも閲覧できるし開示要求できる。生徒と保護者は任意ってことになってる」
「ふうん。探偵係のことを知らない人もいるみたいだね」
「ほとんどの人は知らないし知らないまま卒業するんじゃないかな。円城はお父さんもお兄さんも東出身だし、お母さんはPTAの役員もやってるから知ってたんだと思う」
「毎学年探偵係がいるわけじゃないんだ?」
「うん、常設じゃない。普通は立候補じゃなくて校長が直接指名するんだって。最後に探偵係がいたのは十何年前らしいけど」
「そうなんだ。立候補しちゃってよかったの?」
「立候補を禁ずる規則はないから。ただ周りの生徒は探偵係を良くは思わない。考えてもみて?こっそり自分たちを調べたり監視するやつにはだれも気を許さないし近づかない。校長がこっそり指名するならともかく、立候補するとみんなにあたしたちが探偵係だと分かっちゃう」
「そうか。じゃぁもう僕たち十分警戒されてるわけだ」
「ごめん。トーマがイチゴを手に持って振り返って、あっこの人異能者だって分かって、瞬間的にこれは運命のサインなんだって思ったの。あたしの願いを叶えるのは今しかないって」
僕は思わず苦笑する。
「でも二三さ、普通あそこでイチゴに齧りつくかなぁ?かなりあせったよ」
「うん、ほんとゴメン。あっ、手を引っ込められる前に食べちゃわないとって思ったんだ。ほんと、あたしって相当変なやつだよね」
「確かに普通とは言えないかな。でもそうまでしてなんで探偵係になりたいの?」
二三はキュッと唇を噛みしめる。
「話す。ちゃんと話すから。でもあたしの中で整理がついてなくて。必ずちゃんと話すから、もう少し待ってくれる?」
僕は「分かったよ」とできるだけ気楽な調子で言った。
「これ、せっかくだから食べていい?」
バームクーヘンを口に放り込んでコーヒーを呑む。バームクーヘンはとても美味しいが口の中の水分を奪っていくのか喉が乾く。僕はコーヒーをアッという間に飲み干してしまう。まるで測ったようなタイミングで四五ちゃんが顔を覗かせる。
「あのう、コーヒーのお代わりはいかがですか?」
こちらが返事をする前に部屋に入ってくると僕のマグカップにコーヒーを注ぐ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ヨウちゃん、邪魔しちゃだめよ。学校の打合せなんだから。トーマ君、タマゴサンドでも召し上がる?うちの店の名物なの」
四五ちゃんの後ろからおばあちゃんが続く。二三はムスッとした表情。
「はいはい分かりましたよ。ヨウちゃん、邪魔者は消えるわよ」
二人はニコニコ顔で部屋を出て行く。なんだか足音も楽しそうに聞こえる。
「ごめん」
「いいよ。今日はこれ食べたら帰るよ」
僕はふと思い出して言った。
「そうだ、探偵係のことだけど、友達の友達から聞いた話だけど桜組からも立候補があったってね」
二三は頷く。
「伊村と道長。東中のキングとクイーンだよ。あたしを探偵係にしたくない人が大勢いるから」
「探偵係は学年で一組だけなんだよね?候補が二組出た時はどうやって決めるの?」
「校長の裁量のはず」
「校長はどっちを選ぶかな?」
「普通に考えれば当然伊村と道長を選ぶ。他の生徒への影響力、両親の社会的地位を考えればそのほうが得策だから」
「じゃぁ形勢不利なんだ?」
「諦めるのは早い。あたしもできることはやるし、それに今の校長少し変わり者だから」
「変わり者?」
「教育委員会や有力保護者の言いなりにならないらしいんだ。偉い人からはちょっと煙たがられてるけど、学校運営能力が抜群だからなかなかクビにならないって」
「ふうん」
僕はホイップクリームたっぷりのバームクーヘンを頬張りながら、二三はあまり学校に来ないのに色んなことを知っているなと感心した。
「伊村と道長の話は大森君から?それとも津久井君?」
「あ、知ってたんだ。津久井君からだけど」
二三は少し気まずそうに俯く。
「別にトーマをスパイしてるわけじゃないけど、学校帰りに昼間の事謝ろうと思って待ってたら大森君と津久井君が一緒だったから。声を掛けられなくて」
「声を掛けてくれていいよ。康彦にも言っとくから」
二三は申し訳なさそうな顔で上目遣いになる。
「あの、気を遣ってくれるのは嬉しいけど、あたしのことあまり他人に話さないでくれる?あたし人とコミュニケーション取るのに慣れてないから。話しかけられるとちょっと怖い」
「分かったよ」
僕はバームクーヘンの最後の一切れでクリームを綺麗に取ると口に放り込む。
「ごちそうさま。美味かった。じゃ、そろそろ帰るよ」
「うん。き、今日はありがと」
「じゃ、明日また学校で」
「うん。行けるように頑張る」
この言葉で二三がほぼ不登校であったことを思い出す。
「無理しないで、ダメならメールしてよ」
二三は軽く髪を揺らして顔を振る。
「今は休んでいられない。探偵係にならなきゃ」
僕が階段を降りると一階でおじいちゃんとおばあちゃん、零一さんに四五ちゃんが待っていた。お客さんはカウンターの一人だけになっている。
「お邪魔しました。コーヒーとバームクーヘン美味しかったです」
おばあちゃんがニコニコ顔で近づいてきて僕に白い紙袋を手渡す。バームクーヘンがたっぷり詰まっている感触。
「お家で召し上がってね。またいつでも来てね」
「また来てね、トーマ君」
四五ちゃんは僕の二の腕にぶら下がるようにしながら屈託なく笑う。二三と違って人と距離を詰めるのが上手い。
「ありがとうございます。それじゃこれで」
僕はペコリと一礼してドアをシャランと鳴らして外に出た。陽が落ちて空が濃紺に染まっている。振り返ると開いたドアから二三がこちらを見ていた。僕が小さく手を振ると二三も小さく指を開いて控えめにそれに応えた。
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