椿組・探偵係

Tー88

第1章 入学編

第1話 眼帯のクラスメイト

 春という季節は微妙な季節だ。温暖化のせいでさほど厳しくもなくなった冬が終わり、温かいのか寒いのか分からないどっちつかずな季節が来て冬物仕舞おうかな、まだ使うかなと迷っているうちに、母親が着るものから布団から何から春夏物に変えてしまう。そして「まだちょっと寒いのに」と文句を言ってるうちにすぐさま猛暑がやってくる。そして夕食時に母親が「冬が終わったと思ったらすぐに夏になっちゃったわねぇ」とお決まりの台詞を言うのだ。

 春は芽吹きの季節でもあるな。若葉が萌えっとしてきて虫が騒ぎ出す。春に元気になる動植物には当然人間も含まれる。僕の回りでもたまに気分が高まってしまって浮き上がってる奴を見かける。「虫が騒ぐ」という言い方をするが、人の中には体内に不思議な虫を飼ってる人たちがいるんだと思う。この虫はその人がよりよく生きるのを手助けしているのに違いない。病気をやっつけたり、落ち込んだ気分を盛り上げたり。発明や創作のインスピレーションを与えたり、あるいはザワザワと騒いで危機を知らせたり。もっとも僕には虫も憑かないというか、虫も喰わないというか、そういった胸のざわめきや落雷のようなインスピレーション、雲が割れ光差すような天啓とは無縁の人生を送っている。

 春は生命が生まれ終わる時。つまり別れと出会いの季節だ。こんなにも卒業、入学にお誂え向きな季節があるだろうか。否。否。秋入学断固反対。春入学が地球生命のサイクルに沿っているのに対して、秋入学って何?収穫期が終わって一段落したから子供たち、畑を離れて学校行っていいよ的な?街で誰かに「秋入学移行についてどう思いますか」ってインタビューされたら地球生命のサイクルと人々の営みについて語ってやろうと手ぐすねを引いて待っているのにとんとそういう機会に恵まれることがない。特急電車に揺られること十五分、都会に遠征してはどこかにニュース番組の街角取材班がいないものかと探すがこれまで全く出くわしたためしがない。

 僕は先月二十日に地元の公立中学をそこそこ優秀な成績で卒業し、これも地元の公立中高一貫校の高等部に入学した。西宝市立西宝東高校。東大、京大に何十人と生徒を送り込むような名門進学校ではないが、当たりの年なら東大に数名、京大に十数名、ハズレの年でも難関国公立に二十人以上は入学する。他の生徒もほとんどが地方国公立大か有名私立大に進学するそれなりの進学校だ。当然近隣市町だけでなく他府県からの入学希望者も多い。孫大好きの祖父母の強力な勧めもあり「僕なんかが受けるのちょっと恥ずかしいかな」と思いながらも受験したのだが、運命の女神が微笑んだのか、背を押したのか、それとも誘い込まれたのか分からないが、結果は見事合格。僕の学校からは四人が受験し、下馬評では合格間違いなしと目されていた成績学年トップで帰国子女の生徒会長(女子)、学業はもちろん陸上競技で総体出場、両親祖父が弁護士というサラブレッド(男子)のツートップはあえなく不合格、ダークホースと見られていた小学校からの友人大森康彦、番外(と言われていたらしい。さすがに少しショックだ)の僕が合格したものだから、それを知ったクラスメイト達は、落ち込む本命達の姿と、三四番手の勝ち抜けにちょっと騒然となったらしい。

 合格発表の翌日が卒業式だったので一日だけだったが「あっ、ほら、あいつだよ」的な好奇の眼を随分と浴びた。中には随分と恨みがましい眼を向けてくるやつもいた。ほとんど付き合いのないやつだったりしたので「なぜかな?」と思っていたら、どうやら誰が受かるかで賭けが行われていたらしい。「こいつのせいで損をした」という恨みのこもった視線であったらしい。

 中にはわざと聞こえるように「どうせ兄妹加算だろ」というやつもいた。僕の妹も同時に西宝東中学校に合格しているのだ。もっともしっかりものの妹の方は周囲の期待通りの合格である。既に合格していた私立の名門女子高を蹴って西宝東に進学する。

 僕らは受験前の約束通り、新しいノートPC(これまでは父のお古を兄妹交代で使っていた)とスマートフォン(中学のうちは持たせてもらえなかった)を買って貰い、両親祖父母親戚一同からたんまりとお祝い金をせしめた。堅実な我が妹有希はこの祝い金にこれまでのお年玉貯金を併せて投資を始めるらしい。

「トーマも一緒にやらない?やり方、教えてあげるから」

 うーん、考えとくよと曖昧に返事をすると「トーマはいつもそれだなぁ」と少し憐憫の籠った流し目を送られてしまった。

「相変わらずおゆきはしっかりしてるな」

 僕は妹を「おゆき」と呼ぶ。ここ数年、有希と呼び捨てにした記憶がない。

「だって考えてみてよトーマ、ウチは普通のサラリーマン家庭だよ?自分のお小遣いくらい自分で何とかしなくっちゃ。これから西宝東のお嬢様方と付き合っていかなきゃならないんだし、きっといろいろ必要だよ?トーマもぼやぼやしてちゃダメだよ?」

 確かにねと答えて僕はすごすごと自室に逃げ込んだ。まったく、しっかりものの妹というやつは時に母親並みに疎ましい存在である。

 さて、そして今日は入学式だ。昨日の中学校入学式に引き続き、両親祖父母揃って式にやってくる。僕は康彦と一緒に初登校の途に就いた。地元とはいえ、自宅から西宝東高校へは電車で二駅、駅から十分ほど歩くことになる。学校から自転車通学許可書を貰うまでの一週間程度の期間は電車通学だ。

 康彦と駅で待ち合わせをする。僕は時間前に着いていないと落ち着かない質なので約束の時間の十分程前に駅の改札前に着いてICカードに二千円だけチャージする。来週から は自転車通学になる予定だから定期は買わないつもりだ。

 約束時刻の三十秒ほど前に康彦がやってくる。両耳にイヤフォンを差し、口を少し突き出してブツブツ言いながら人波を器用に避けて歩いてくる。

「お待たせぇ。行くか」

 昔からマイペースの康彦は立ち止まりもせずそのまま改札に向かう。ホームに降りて一分と待たずにチャイムが鳴って電車が入ってくる。電車は都市のオフィスに向かう通勤客で電車は結構混んでいる。僕はリュックを降ろして足元に置く。康彦は背に背負ったまま。僕の視線に気付いて康彦が言う。

「大丈夫、今日はリュックの中ペンとノートくらいしか入ってないし。リュックがパンパンになって邪魔になったら降ろせばいいんだし」

 しかもそのセリフをごく普通の音量で話す。周りでしゃべっている人などいないから走っている電車の中でもよく声が通る。僕は「まぁそうかな」とか適当に返事する。康彦は「あぁ思い出した」という表情になり話題を変えた。

「よく通ったもんだよな、東にさ」

 高校名を出すの止めて欲しいなぁと思いながら「まぁね」と曖昧に笑う。よく考えたら制服ですぐ分かってしまう。西宝東の制服は黒のブレザーに黒のズボン。白シャツに赤いネクタイ。(紐で留める子供ネクタイでなく自分で結ぶ大人用)ブレザーのボタンは銀色で胸ポケットに翼とペンを組み合わせた校章のワッペンが縫いつけられている。

「斉木と松岡の顔、見た?口惜しさを必死に噛み殺してグッドルーザーを演じつつ俺におめでとうをいう時のあいつらの顔。あの顔見ただけで受験勉強頑張った甲斐があったってもんだ」

 斉木と松岡が口惜しがっていたのは本当だ。斉木には職員室に結果報告をしにいった時に出会った。落胆の色を出すまいと必死に笑顔を作る勝気な美少女の横顔。松岡は卒業式の後でばったり出くわした際に「おめでとう」と声をかけてきた。ちょっぴり屈辱に歪んだハンサムな顔。中学の三年間で松岡と口を利いたのはこれが最初で最後だった。斉木は普段から僕のことを下層階級を見る目で見るが、松岡は僕とは校内生息域が違うだけで根はいい奴なんだと分かった。確かにあの二人の顔はいいもの見たと言う感じだ。でも康彦が受験勉強を頑張ったというのは嘘だ。こいつは僕の半分も勉強していない。ある意味凄い奴なのかも。

「でもさ、俺たちが合格したのは偶然でも何でもない。実力だ」

「実力ねぇ」

 苦笑する僕。

「タイプだよ。学校側は勉強のできる奴だけでできてるんじゃない。多様性さ。学校は多様性が大事なんだ」

 駅に着いた。僕たちは「すみません」と呟きながら満員電車を降りる。ホームには大勢の黒ブレザー姿の男女がいる。この時間この駅で降りるのはほぼ全員西宝東生らしい。中には緑のネクタイ、スカーフを巻いた中等部の生徒の混じっている。おゆきもどこかにいるはずだ。周りを気にせず康彦はしゃべり続けている。

「俺はバランスタイプ。勉強もスポーツもそこそこできて、友達付き合い、周囲とのコミュニケーション能力も高い。見た目もほどよくイケメンだし。一方でトーマは」

 僕は「声が大きいって」と言ったが康彦は気にしない。

「普通タイプ。平凡って意味じゃないぜ?気を悪くするなよな」

 悪くするに決まってる。

「お前ってなんか普通感っていうの?普通っぽいんだよな。よく考えたらお前そんなに成績悪くないし。それに有希ちゃんの存在もでかいな。学校側は兄妹入学のサンプルとしてぜひ欲しいだろうから。見た目の方もまぁ― なぁトーマ、その髪型何とかしろって。寝起きで覇気のないブルースリーみたいだぜ?今度一緒に髪切りに行こ。俺が行ってるカットハウスに」

 自分だってついこの間までカリアゲ君だったくせに。ようやく学校に着く。正門をくぐる校舎入口の手前、エントランスにベニヤ製の掲示板があり前に人だかりができている。クラス分け表が掲示されているようだ。

「おっ、見に行こうぜ」

 人だかりに近づくと康彦はずいずいと人波を掻き分け前へ進み出る。

「ワオ、俺、桜じゃん」

 康彦は驚き半分嬉しさ半分と言った顔で僕を振り返る。僕は爪先立ったり小さくジャンプしたりして掲示板の文字を確認する。おっ、あった。五組だ。清村刀真。

「トーマ、お前椿だな」

 そう言って康彦が僕にスマホを渡す。写真を撮れということらしい。一組の自分の名前を指さしながらニッコリ笑う康彦を写真に収めてやる。康彦は二度も僕の写真のセンスに文句をつけ撮り直しをさせた。僕も撮ってもらう。

 西宝東高校は一学年八組。それぞれの組にシンボルフラワーが決められていて生徒は校章と一緒にその徽章を付ける。一組は桜、二組は梅、三組は菫、四組は藤、五組は椿、六組は百合、七組は菖蒲、八組は睡蓮。一組から五組は普通科。六組は人文系選抜クラス。七組は理数系選抜クラス。東大京大に合格する生徒のほとんどはこの二クラスの生徒だ。八組は演劇科と音楽科の合同クラスだ。西宝東校にまつわる都市伝説に桜最強説がある。学年主任が一組の担任を務めるため、学業優秀なのはもちろん、スポーツに秀でていたり、語学が得意だったり、リーダーシップがあったりと、華も実もある目立つ生徒が一組に集まりやすいのだという。後は梅から椿まで公平にバランスを見ながら生徒が割り振られるらしい。ネットの書込みレベルでは本当だというものと、単なる都市伝説とするものが半々といった感じだ。

「なんか俺、光の当たるとこに来たって感じかな?」

 鼻の穴を膨らませて喜ぶ康彦。

「椿いいじゃん。梅よりはマシだろ、ウメよりは?」

 と、早くも上から目線で慰められてしまった。康彦に「じゃぁ後で」と言って、それぞれのクラスに向かう。椿、つまり1年五組の教室はもう半分以上埋まっている。今日は入学式なのでクラス名簿順に座るらしい。つまり男女混合で五十音順。僕の出席番号は五番。机の天板に「№5」と書かれた付箋が貼られている席に着く。明日以降の学校生活、授業に関する連絡事項と一年生全クラスの名簿、校歌の歌詞と楽譜を印刷したプリントが置かれている。中高一貫校の西宝東は中学も高校も三年間クラス替えがない。出だしで躓くと三年間辛い時間を過ごさねばならない破目になる。前後の席が埋まっているのを幸いと苦手な社交に精を出す。前の席は柏原晃君、後ろの席は沢渡杏樹さん。二人とも僕と同じ高校入学組だったのでクラス内に知り合いもおらず、プリントを眺めながら時間を潰していたらしい。早速電話とメール、SNSのアカウントを教え合って徒党を組むことにする。リラックスした表情で笑い声を上げているのは中等部からの内部進学組だろう。三分の二は内部進学組なので慣れないうちは僕たち外部組は少し肩身が狭い。やがて訳知り顔の内部進学組が続々と現れ席はあっという間に埋まった。ほどなくしてチャイムが鳴る。黒いセルフレームのボストン眼鏡にポニーテールの女性教師が入ってくる。ピンクのワンピースにレディースの蝶ネクタイ。あと数年で三十路ですといった感じ。襟からネクタイを止める紐がほんの少しはみ出している。どうやら生徒たちと違ってワンタッチネクタイのようだ。

「おひゃよう、みんな。担任の花村佳恋です。よろしくね」

 いきなり噛んだ花村先生はちょっと顔を赤くして咳払いをした。

「じゃ、五組最初の出席を取ります。元気よくひぇんじしてね― オホンッ」

 どうやらは行が苦手なようだ。うちの母親のような昭和のおばちゃん世代からはきっと「ちょっと頼りないわねぇ。大丈夫かしら」などと言われてしまうのだろう。花村先生は出席簿を開きチラっと席に眼を走らせる。五組の出席番号一番、窓側の一番前の席は空席のままだ。

「越前雄太君」

 はい―と二番目の席の男子が返事をした。名簿の一番目にあるのは「四十崎 二三」あ行の読みなんだろうが読み方が分からない。教師の前でスマホを取り出し検索するわけにもいかない。それに僕は五番だから結構すぐに呼ばれる。

「清村刀真君」

 なんとか噛まずに発音して貰えた。僕の方も必要以上に張り切らず、かといってなげやりでもない絶妙なタッチで「はい」と返事ができた。一番を除く全ての生徒が呼ばれ、僕たちは席を立って廊下に一列に並ぶと花村先生の先導の下、保護者達の待ち受ける入学式会場、西宝ホールへと移動する。その昔、まだ日本が第二次世界大戦を戦っていた頃、ここは軍の飛行場だったらしい。戦後になって学校用地に転用されたのだが、元が飛行場だけにとにかく敷地が広い。サッカー専用グラウンドと野球専用グラウンドには簡易な客席まで設けてあるし、陸上トラック、五十メートルプール、八面のテニスコート、だだっ広い体育館。地区の高校スポーツ大会はほとんど西宝東が会場になるほどだ。おまけに客席八百席のホールまである。入学式や卒業式、演劇やコンサートなど文化系の発表はここでやるというわけだ。僕たちは若干緊張の面持ちでホールに入り、保護者達の拍手とフラッシュを浴びながら客席を抜け、ホールの椅子に腰かける。しばらくして式が始まる。額の艶々した校長先生が祝辞を述べる声がホールに響いた。


 翌日。椿組では一時限目を潰してホームルームが行われ、自己紹介と席替えが行われた。花沢先生は三一歳独身だそうだ。今日はクリーム色の上品なワンピース姿だ。昨日の服は入学式用かなと思ったが案外お嬢様ファッションが好みなのかもしれない。僕は名前と出身校、趣味を述べるに留めておいた。僕の場合、受けを狙って弾けたことを言ってみたところで上手くいかないのは経験上良く分かっている。ちなみに趣味は読書と映画にしておいた。自分で言うのも何だが面白くもなんともない。

 西宝東高校は他の高校と違って授業時間が一コマ六五分と通常より十五分長くなっている。一限目をHRに使い、二限目からは通常授業だ。今三限目が終わったところで昼休み中。昼食は弁当派と学食派が半々くらい。僕は自宅から弁当を持ってきている。内部進学組は学食派、高校入学組は弁当派が多いようだ。弁当男子はめいめい自席で弁当を食べている。僕は高校入学弁当派の隣席の奴と部活は何を選ぶかとか、サッカー日本代表に誰を入れるべきかなど他愛ない話しをしながら箸を進める。

 弁当もほぼ食べ終わり、デザートの苺に取りかかろうとした時だ。大粒のハート型をした旬の苺だ。緑のヘタを指先で摘まみ、今まさに口に運ぼうとしたその瞬間だ。


 トーマ

 

 声を掛けられた気がして、康彦かなと考えながら「なにさ?」と言いながら振り向く。と、そこには意外過ぎる人物がいた。女子だ。相手もちょっと驚いたような表情でこちらを見返してる。その女子はかなり特徴的な見た目をしていた。まず髪だ。長くてゆったりとうねってる長い髪は明らかに赤い。パーマも髪染も禁止だから地毛なのだろうか。そしてもっと奇妙なのがその長い髪に半分隠された右目だ。ぱっちりと大きくて、つけまつ毛かと思うほどまつ毛が長い。僕の眼はその瞳の色に釘付けになった。濃い茶色の左目に対して、彼女の右目は磨き上げられたステンレスのような銀灰色をしていた。彼女の指先は右の眉の上あたりで何かを摘まんだまま止まっている。眼帯。アイパッチだ。白くて細長い指先が黒くて丸いアイパッチをめくり上げている。

「あ―」

 僕はなんだかドギマギしてしまい「ごめん」の一言が出てこず、ただもう愚鈍な田舎者のように彼女の眼を見つめていた。彼女も突然のことでびっくりしたのか、その可愛らしい唇を少し開いたまま僕を見返していたが、やがてアイパッチを右目の上に被せ、チラリと僕の右手の先を見た。そこには大粒の赤い苺が摘ままれている。僕は自分の格好に気付いて思わず身体がカッと熱くなる。名前も知らない女生徒に手に持った苺を「食べる?」とでも言いたげに口元に突き出している。傍から見ればそう見えるに違いない。

 僕が「ごめん。人違いしちゃって」と言うよりも速く、少女の左手が動いて僕の右手首を掴んでいた。ひんやりしっとりとした感触。微かなハンドクリームの香り。

「あぅ―」

 僕は後から思えば死んでしまいたくなるほど間抜けな声を出していた。でも少女はまるで気にした様子もなく掴んだ僕の手を引き寄せるとそこに顔を近づける。


 かぷっ


 苺が一口齧られる。続いてもう一口。少女はもぐもぐと苺を咀嚼している。そしてもう一口。指先に少女の息がかかる。少女は顔を上げ、僕の手首を離した。少女はまだ口を動かしている。口の端に赤い苺の果汁が小さく垂れている。少女はスカートのポケットからハンカチを取り出す。小さな苺のプリントされたハンカチで少女は口元を拭った。

「ありがと」

 少女は少しハスキーなか細い声で呟く。

「美味しかった」

「うん―」

 僕は体中が沸騰するような感覚を覚えながら前に向き直る。指先の苺のヘタを見つめる。少女の歯形の残った果肉が僅かに残っている。僕は周囲の視線が自分に集中しているのを感じながら苺のヘタを弁当箱に落としハンカチで指先を拭った。まだ心臓が高鳴っている。隣席の生徒が大丈夫かと遠慮がちに聞いてきた。僕は「ちょっと外の空気に当たってくる」と答えて席を立った。校舎の外に出て風に当たるとようやく動機が収まってきたきた。冷静になるとようやく事態が飲み込めてくる。僕の後ろの席。朝の席替えの時は空席だったが、あの席は確か出席番号一番、四十崎二三、よんじゅうざきにさんの席だ。つまり昼から出席したのだろう。全く気が付かなかった。椅子を引いたり荷物を置いたりする気配が全く無かったのだ。

 それにしても初日からやらかしてしまったものだ。初対面の、名の読み方さえ知らぬ女生徒に馴れ馴れしくも「苺食べない?」的な態度を取ってしまうなんて。あの時教室にいたのは十人程度のものだったが、さぞかし常識をわきまえない馬鹿野郎だと思われたに違いない。いや、馬鹿ならまだいい。少しは当たっているし。いきなり女生徒に自分の弁当の苺を差し出すなんて、どう考えても変態の仕業だ。この手の噂の伝播は速い。恐らく今

日中に僕の行為は尾ひれ羽ひれ金銀リボンを付けて学年中に知れ渡ってしまうだろう。この誤解を解き本当の僕のキャラを知ってもらうには長い時間が必要に違いない。僕は思わず深い溜息をついた。それにしてもよんじゅうざきもよんじゅうざきだ。何もあそこで苺にかぶりつくことはないじゃないか。無視してくれればまだ救われたのに。よんじゅうざきのやつ、ある意味僕以上に空気を読まない奴だ。あ、待てよ、ひょっとすると僕の立場を決定的に悪くするためにあんなことを?チクショウ、よんじゅうざきの奴め。覚えてろ―と、まぁ、これが僕と四十崎二三の出会いであり、その後の二人の関係を決定づけることになろうとは、この時の僕は知る由もなかった。


 僕は四限目、五限目を鬱々とした気分で聞き流した。五限が終わると待ちかねたように花村先生が教室に入ってきてクラス委員決めが始まる。すぐにクラスの中から「円城君」とか「星ヶ丘さん」とか声が上がって、委員長、副委員長はあっという間に決まった。どうやら出来レースのようだ。内部進学組の生徒の間には円城と星ヶ丘を委員長、副委員長にという空気が最初から出来上がっていたようだ。つまり二人とも中学時代からスターだったのだろう。

 二人が教壇の前に立ちクラスの皆に挨拶をする。

「円城勇一郎です。推薦をありがとう。椿を素晴らしいクラスにできるよう半年間頑張るつもりです。だからみんなも協力して欲しい。一緒に椿を盛り上げていきましょう」

 西宝東高校は三学期制ではなく二学期制を採用している。一学期は夏休みを挟んで九月末までの半年間だ。

「星ヶ丘小百合です。花村先生、円城君と一緒にこの椿組を輝かせるために努力を惜しみません。一人一人が輝ける最高の組にしましょう」

 二人とも笑顔と仕草が堂に入っている。ずっとスポットライトの当たる場所で生きてきたのだろう。花村先生も微笑みながらしきりに頷いている。

「じゃぁ、ここからは僕らが司会進行します。花村先生はどうぞお楽になさっていてください」

 花村先生はミーハーなアイドルファンのように顔を少し赤らめて「はい、じゃぁ」と答えて教室の一番前、窓際に置かれた椅子に腰かけた。星ヶ丘さんが胸の前で指先を合わせながら歌のおねぇさんのように踵でリズムを取りながらクラス全体を見渡す。

「では、残りの委員を決めていきたいと思います。高校生活では勉学だけでなく自主性や積極性を育むのも大切なですから、できるだけ立候補で決めていきたいと思います」

「一年生のクラスで必要な委員は、保健、風紀、美化、体育。この四つだね。それぞれ男女一名ずつ」

「では、まずは保健委員から決めたいと思います。立候補者はいらっしゃいますか?」

 一瞬間を置いて、「はい」と声が聞こえた。男子、女子が一人ずつ手を挙げている。

「他には立候補者がいないようだね。では、茂手木くん栩山さんに」

 と言って円城君と星ヶ丘さんが拍手をすると内部進学組がすぐそれに続き、半拍遅れて高校入学組が拍手する。円城君が黒板にチョークで「保健 茂手木 栩山」と板書する。なかなかの達筆。

 続いて風紀委員、美化委員、体育委員とスムーズに委員が決まる。立候補者はすべて内部進学組の生徒だ。委員長、副委員長と同様、こちらも事前の根回しができていたのだろう。委員が教室の前列に並ぶ。

「では、このメンバーで半年間頑張っていくのでみんなよろしく」

「困ったことや提案があればいつでもクラス委員に声を掛けてください」

 不意に円城が戸惑ったような表情を浮かべた。視線は僕の方に向けられている。え?何?と戸惑う僕。星ヶ丘さんが少し無理した笑顔を浮かべる。無理して笑ったことが相手にもきちんと伝わる類の笑顔だ。

「何かしら四十崎さん?」

 あいざき!あいざきと読むのか。あぁ、あいざきさん、変態で間の悪い僕を許してくれ。どうかあの瞬間のことは記憶から消し去ってくれ。今後二度と絡まないと約束するから。そう念じる僕の耳にちょっぴりハスキーな声が聞こえてくる。

「探偵係に立候補します」

 クラス中がシン―と静かになった。クラス中の視線が集まる。何だか僕を見られているようで決まりが悪い。まったく四十崎の奴め。今日はもうこれ以上注目を集めたくないんだ、僕は。

「探偵係か。生徒事案相談調整委員のことだね?」

 円城君の言葉に後ろで頷く気配。微かな風と鼻腔をくすぐるシャンプーの香り。うーん、チキショーめ、腹立つがいい匂いだ。でも探偵係って何だろ?

「先生?」

 星ヶ丘さんがちょっぴり眉を吊り上げて花村先生を見る。花村先生は明らかに狼狽した様子だった。

「うっ、うーん、探偵ってねぇ― まぁ、確かに必要があれば生徒事案相談調整委員を置けることになってるけどぉ」

 花村先生の煮え切らない態度に星ヶ丘さんは苛立ちの表情を隠せない。「探偵係など必要ない」とぴしゃりと却下して欲しかったのだろう。

「うーん、探偵係かぁ。しばらく聞かないけどぉ。そう言えば昔はいたらしいよ、探偵係さん。先生が赴任してくるもっと前に。うん」

 さすがの円城も花村の煮え切らない言葉に眉根を寄せて尋ねる。

「よいのですか?花村先生」

「うーん、よいかと言われるとアレなんだけど。逆に悪いかと言われても、アレだしねぇ、うん」

「どっちなんです?花村先生?」

 星ヶ丘さんの口調もキツくなっている。花村先生は慌てたように椅子から立ち上がる。

「うん、その、ダメとは言えない以上はねぇ。その、まぁ、先生、ちょっと嬉しいんだな。四十崎さんが自分から委員になりたいって言ってくれるなんて」

 花村先生は少しモジモジしながら言う。星ヶ丘さんが分かりやすく溜息を吐いた。円城君はチラっと星ヶ丘さんを強い目で見てから、優しい笑顔を浮かべて花村先生を見た。円城君の眼は笑っていない。ちょっと怖い。

「花村先生、立候補、受け付けていいんですね?」

「そっ、そうねぇ。ルール上はねぇ、拒否するのもあれだし。そういうことかしらねぇ。うん」

 円城君はまだ口元に笑みを貼り付かせたまま「仕方ないな」と星ヶ丘さんに向けて呟くと、四十崎さんに向かって言った。

「じゃぁ、立候補を受付けよう。えっと、四十崎さんと清村君だね?」

 何⁉今なんと⁉

「いいんですか?清村君?」

 僕は喉がつかえて上手くしゃべれなかった。なぜ僕⁉僕は呆けたように口を半開きにして自分の左手の人差し指で自分の胸を指しながら「why」といった感じで右手を空に向けるのが精一杯。

「探偵係、生徒事案相談調整委員も他の委員と同じに男女一名ずつなの。四十崎さんと清村君で届けてしまっていいの?」

 星ヶ丘さんの眼が「断りなさい」と言っている。あまり空気を読むのが得意でない僕にもはっきりと分かるほど強く激しく光っている。

「四十崎さん、清村君は同意してるのかい?見たところ清村君困ってるみたいだよ?」

「そうだわ。四十崎さん、男女一名ずつが原則よ?高校から入学して勝手の分からない清村君を巻き込むのは良くないわ」

 円城君と星ヶ丘さんが余裕を取り戻した顔付で四十崎さんに迫る。僕も思わず後ろを振り返る。

「大丈夫。トーマも了解済みだから。他に何か問題でも?」

 四十崎さんは小さいけれどはっきりと教室中に通るハスキーボイスで、まるで幼馴染でも呼ぶかのように僕の名を口にすると、長くてちょっぴり赤くてウェーブのかかった髪をバサリと揺らす。半分隠れた顔。髪に手を挿し込んであの黒くて丸いアイパッチを外す。

 声にならない声が聞こえた気がした。教室に緊張が走る。教室の前に並んだ役員たちの狼狽ぶりは顕著だった。まるで銃でも向けられたかのように慌てている。何なんだ?これ。

「分かった!分かったよ!」

 円城君が余裕の消し飛んだ顔で叫ぶように言う。一体何なんだ?この状況は。彼女の何がこんなにもクラスのスター、エース、幹部や取り巻き達を慌てさせるというのだろう。

「分かったから!もう止してくれないか⁉」

 円城君は四十崎さんを思い止まらせるかのように両手を突き出しながら叫ぶように言う。四十崎さんは何も言わずにもう一度髪に手を刺し入れるとアイパッチを嵌め直した。新クラス委員たちはあからさまにホッとした表情を見せ、次いで自分たちの晒した醜態を恥じるかのように唇を噛みしめて居心地悪そうに俯く。円城君がクルリと黒板に向き直ってチョークをカッカッと鳴らしながら「探偵係 四十崎 清村」と書いた。

「じゃぁ椿組の委員はこれで届けておくから」

 そう言って円城君はじめ新委員たちが自席に戻る。花村先生が胸の前で小さく拍手しながら教壇の前に立つ。

「先生、みんなの自主性に任せようって思って見守っていたけれど、さすがはみんな東の生徒ね。自分たちで考えて自分たちで解決してくれたわ。先生すごく嬉しいです。うん」

 花村先生は四十崎の、いや四十崎と僕に向かって微笑みかける。

「特に四十崎さんと清村君が探偵係に立候補してくれるなんて、先生感動したわ。今後の事は二人でよぉく話し合ってね。清村君はまだ東のこと、よく分からないことも多いと思うけど、何かあったら先生にも相談してね」

「いえ、あの―」

 この間違えた世界を正すにはもうこの瞬間しかない。僕はみんなの誤解を解くために勇気を持って立ち上がろうとしたが、何ともタイミングの悪いことにほぼ同じタイミングで円城君が「起立!」と号令を掛けた。僕を含めた全員が立ち上がる。えっ⁉ちょっと待って!

「礼!」

 クラスメイト達が鞄やリュックを手に教室を出て行く。

「ちょっと待っ―」

「清村君!先生嬉しいわ!高校入学組の清村君が積極的に委員に立候補してくれるなんて!」

 花村先生の妙に浮ついた声が僕の声を封じてしまう。まるで運命の神様が僕の意図を察して邪魔しているかのようだ。

「じゃぁガンバって!」

 花村先生は両手でガッツポーズをして見せると、四十崎さんにも「ガンバって!」とエールを送り教室を出て行った。

「何なんだよ、もう」

 僕は半分泣き声でそう言うと、恨み言の十や二十は言わないと気が済まぬとばかりに四十崎さんを振り返る。

「あ―」

 四十崎さんの姿はもう教室から消えていた。ふと気付くと僕のリュックのネットポケットに何か差してある。ペコちゃんの顔がプリントされたパラソルチョコだ。懐かしい。子供の頃食べたなとか思いながら手に取る。柄の部分に矢文ならぬ傘文が結ばれている。文を解いて開く。淡いクリーム色のメモ用紙に青いインク文字で携帯の電話番号とメールアドレス、チャットアプリのアカウントが書かれている。細くて繊細な字で書かれたメールアドレスのアカウントは「fumi23aizaki」。連絡しろということらしい。ラブレターでも告白文でもないが女子から始めて連絡先を貰ったわけだ。

 不思議と怒りは収まっていた。僕はメモをパスケースに仕舞うとパラソルチョコの包み紙をピリリと破く。おぉ、いちごチョコ味だ。僕は傘の先端をかじる。美味い。

「おーい、もう終わった?」

 教室のドアから康彦が顔を覗かせていた。

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