Re:D.A.Y.S.

結月亜仁

第1話 残滓

消えていく。全てが。


今まで、経験したこと、感じたこと、やりたかったこと、言い出せなかったこと。そのどれも、ほんの些細な出来事で、こんなもの、別に消えてしまっても良いと思っていた。

それらが、砂で出来た城みたいに、風に吹かれ、さらさらと音を立てて無くなっていく様を見て初めて、気付く。

でも、もう止めようがない。しょうがない。これが、現実だから。受け入れるしかない。

砂粒の一つ一つが通り過ぎる間に、いくつもの記憶が走馬燈のごとく流れ出す。

その時、不意に、声が聞こえた。

------------------------------。

振り向くと、彼女が微笑みながら、手をこちらに差し出す。

いつもの、穏やかで、太陽のような温もりを孕みつつも、どこか悲し気な笑顔で。

咄嗟に手を伸ばしたものの、掴めるはずもなく、あっという間にどこかへ飛んで行ってしまう。

残ったのは、バラバラになった記憶と、あの声だけだ。

いや。

それだけ残っていればかまわない。それだけで、おれは。

そして、視界にノイズが走った。


******


足音、車のエンジン音、カラスの鳴き声。草の匂い、魚の焼けた匂い、香水の香り。

体を包む熱、服がこすれ合う感触、肌を撫でる風。電柱を照り付ける夕日、長く伸びた影、闇に染まっていく空。そのすべてが調和したこの平凡な世界に、自分という人間は存在する。

今日も何事も無く、家へ帰り、風呂に入って、飯を食べて、寝るのだろう。

それは、もう決まりきったことだ。だから、今日という日が何か特別な意味を持っているというわけではない。たぶん明日だって、明後日だって、一か月後だって、一年後、三年後だって、自分を取り囲む環境や状況は変わったとしても、本質は変わることは無いと思う。それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。ただ、この世界が、そういう風に出来ているだけのことだ。そんなこと、当たり前で、何気ない普通の出来事だと、そう思っていた。

はずだった。


******


声が、聞こえた。違う、これは声じゃない。それに、何か、湿っぽい。背中には冷たくて硬い感触がある。それに、つんとくるかびた匂いまで漂っている。


ここは、どこだろう。瞼をゆっくり開けても、目の前がぼんやりと明るくて、よくわからない。

でも、自分の名前ぐらいは分かる。名前。そう、ユウト。

他は、思い出せそうで、思い出せない。あと少し、喉まで出掛かっているんだけれど、掴めない。やっと掴んだと思ったら、それは雲みたいに、するっとすり抜けていく。


「………と」

すると、光がぼやけた世界に何か音が響いた。そういえば、さっきも何か音というか、声を聴いた気がする。

それは、なんだったっけ。

「……うと」

その音がまたぼんやりと響いた。今度はよりはっきりと聴こえる。うと?という音だったが、うとってなんだろう。


「…ユウト!!」

3回目に響いた音は急激にボリュームを増して、鼓膜に反響した。

微睡から突き落とされた感覚だった。思い切り息を吸い込んで、むせ返りそうになる。

曖昧だった視界にも、光が差し込み、複雑な色彩がなだれ込んできた。

さわさわ、と長閑な音。木々の濃緑の隙間から覗く空の青。雲の白と降り注ぐ光。

そこには、色鮮やかな世界があった。


「おうユウト。無事だったか」

低く、野太い声音だった。耳の奥にも響く、よく通る声だな、と思った。男の声だ。

視線を上に逸らすと、おれを見下ろしている大きな影が映る。どうやら、仰向けになっていたようだ。道理で、背中にごつごつした冷たい岩を感じるわけだ。


「…ん?お前、どうかしたか?」

こちらがだんまりしているうちに、男がそう続けた。

逆光になっていて、姿はよく見えないが、パッと見の雰囲気は十代半ばの少年だった。真っ黒な髪は少し長めで、目が大分隠れてしまっているけれど、そこから覗く目つきは鋭く尖っている。ほっそりした顔立ちと相まって、見た目がかなり強面だ。


「もう、心配したよ?動かなくなってびっくりしたんだから」

青年の後ろから、ひょっこりと顔を覗かせたのは、背の低い女の子だった。

肩まで伸ばした濃紺色の髪。顔の大きさに見合わない大きな黒縁眼鏡は少し下にずれていて、どこか幼さを感じさせる。

彼女は手を伸ばすと仰向けだったおれの腕を握って、ゆっくりと身体を起こしてくれた。「まあ、大きな怪我がなさそうで良かったよ」

そう言って彼女はにっこりと笑って見せた。


「あ、ああ…、ありがとう…?」

今まで声を出していなかったせいか、掠れた声音が喉を通る。

でも、その顔を直視できなくて、思わず目を逸らしてしまう。

目を逸らした先には、別の女の子が立っていた。

綺麗な赤色の髪だった。それを後ろに束ねて、ポニーテイルにしている。瞳の色も同じく赤で、力強い目線をしていた。彼女も顔立ちは幼げだが、どこか大人びた雰囲気を醸し出している。


「…何よ、あたしに何か付いてる?」

赤い瞳の女の子はおれを睨んだ。「あ、いや、何でもない」おれはまた顔を反射的に背けてしまう。

全然、目のやりどころがない。


いや、それよりも。

彼らは誰で。ここは、どこだ?


「おいおい、だからあぶねえっつったのにさあ」

今度はまた別の男の声が聴こえた。少し高めの声音だ。

「お前、調子乗ってこんな高い木に登るから、落っこちんだよ」

くっくっくっ、と腹を抱えて堪えるように笑ったのは、茶髪の小柄な男だった。こちらも、十代半ばの青年だ。ただ、どこかやんちゃそうな雰囲気を漂わせている。何だろう。とても失礼な感じだが、身に覚えがある気がする。


「ユウト、周りを見渡してみるよ、って勢いよくこの樹に登って、滑って壮大に落ちたんだよ」

はあ、と頭を押さえながら強面の男が言った。

「お、落ちた…?」

身体を起こした目の前には、葉が生い茂っている大きな樹が聳え立っていた。そうか、ここから落ちたのか。道理で背中がじんじん痛いし、息苦しいし、頭がくらくらするわけだ。


でも。

本当に、それだけだった?


「ったくよぉ、これから大事な戦だってのに、怪我されたらたまんねぇぜ、まったく」

茶髪の小柄な男は、眉間に皺を寄せながら腕を組んだ。こいつ、なんかえらそうな奴だな、と思いながらも、ある言葉に引っ掛かった。


戦…?


そういえば、皆特徴的な格好をしていた。茶髪の男は、緑を基調とした軽装の装備に、背中には自分の背丈よりも長い槍を背負っている。強面の男に関しては、厚苦しそうな鎧に大きな盾を装備している。眼鏡の女の子も、青を基調とした服装に、こん棒のような、ロッド?を持っている。赤い瞳の女の子は、武器は持っていないが、ボディラインがはっきりした黒い服装で身軽そうだ。

全員、普通の格好じゃない。


というより、普通の格好ってなんだっけ?


「…ほら」赤い瞳の女の子は、そっけなくおれに背を向けた。「怪我がないなら、さっさと行くわよ。時間も無いんだから」

「そうだな、早いとこ済ませちまおうぜ」

「うん!行こう行こう!」

強面男と、眼鏡の女の子が続いて答え、何事もなかったかのように踵を返した。

「え、ちょ、ちょっと」

「ん?どした?ユウト」

茶髪の男が振り返った。おれの軽く上げた手が宙を泳ぐ。

反射的に、皆の足を止めてしまった。皆が振り向いて、視線が集中する。すごく、言いづらい。けど、止めてしまったのなら、言った方が良いのか。


「…え、と。何をしに、行くんだっけ」

そう言った直後に、後悔する。皆が視線をおれに集中させたまま、固まってしまったのだ。

茶髪の男なんて、口をあんぐり開けて呆れてしまっている。

まずい、ことを口走ってしまったのか。どうしよう。微妙な空気だ。

「何をしに、って」強面男が一度皆を見回した。「そりゃあ、戦いに、だろ」

「た、戦う?」おれは苦笑いを浮かべながら首をひねる。

戦うって、何と?どうやって?何のために?色んな疑問が同時に頭を過ったけれど、結局それは、口に出す前に消えてしまう。

「あのねぇ」赤い瞳の女の子が目を細めて、おれを指さした。

「なんか、他人事みたいに言ってるけど、そういうあんたも戦わなきゃいけないんだからね?」


「…え?」

彼女に言われて、自分を見下ろす。そういえば、初めて自分を見た気がする。

心臓が一拍、大きく跳ねた。

黒と茶が入り混じったような装備。黒い手袋や、厚めのブーツまで。


なんで。

今まで何も感じなかったけれど、背中に重みを感じた。手を回すと硬い何かに手が触れた。

手に取って確認してみると、それは、剣らしきものだった。鞘に収まっていて、刃は見えないが。いや、らしきじゃない。これはどこからどう見ても、剣だ。


なんで?

なんで、おれはこんな剣士っぽい恰好をしているんだ?

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