俺はイヌのスシを食べられないが、かといってヨソに行くアテもない

進常椀富

第1話俺はイヌのスシを食べられないが、かといってヨソに行くアテもない

 人類は速やかに消滅した。

 俺以外は。

 なにが原因かしらないが、ある日突然に人々が消え始めたのだった。まさしく蒸発するように。

 テレビもネットも連日大混乱したものだが、それも長くは続かなかった。なんにせよ、人々の蒸発が始まってから一週間ほどで俺の前には人っ子ひとりいなくなってしまったのだから。テレビは映らなくなり、ネットにも人がいなくなった。そして電気も止まった。水道もだ。

 ウチは建てたばかりの一戸建てだった。ガスはプロパンなので使える。電気も太陽光パネルがあるのでまったく使えないわけでもなかった。でも水道だけはだめだ。お手上げだ。川が近くにあったのは幸いだった。川の水を汲んでくることでなんとかなっている。

 快適な愛の巣を目論んで、恋人もいないのに一戸建てを買ったものだが、いまや妙齢女性どころか人間がひとりもいない。

 家族も友人も消えていたが、代わりに三十年たっぷりあった家のローンもチャラになった。悪いことばかりじゃない。そうだ、悪いことばかりじゃないんだ。俺は生きている。この先も生き残ることが、当面の目標だった。

 人間の営みが完全に破滅してから二ヶ月。過ごしやすい季節になった。朝晩は冷えるようになったが、なに、着込めばいい。洗濯には不自由するが、俺には新品の衣料がいくらでもあるんだから。人目がないから毎日着替えるわけでもないが、パンツは基本的に履き捨てだ。俺はいつでも清々しい新品のパンツを履いていた。世界にひとりっきりっていうのは、やはり悪いことでもない。高い五枚刃のカミソリが使い放題なので、髭を剃るのも億劫じゃなかった。人類が消滅してからまだ髪を切ったことはなかったが、切るなら電動バリカンで坊主にするだろう。電気がまったく使えないわけじゃないので、本当に助かっている。

 すき家から拝借してきたガス窯で炊いた米。焼いたランチョンミート。誰かの家庭菜園から引っこ抜いてきた大根のサラダ。それらで朝食を終えると、俺は日課の水汲みに向かった。

 風がそよぎ、木の葉がさざめく。鳥の鳴き声ばかりが快活だった。車も飛行機も動いていないし、電車も止まっている。静かだった。静謐とはこのことだろう。

 川辺には俺の手製ろ過装置が並んでいた。最初のものは大五郎のボトルを使って工作したもので、川辺の柵に四本くくりつけてある。次に作ったのはほうぼうを回って見つけてきた業務用ウォーターサーバーのボトルを使ったもので、こっちはだいぶ容量が増えた。

 俺はセットしたあったポリタンクをどかして、空のポリタンクを置く。それから川の水を汲んでろ過装置に注いだあと、ポリタンクの水を持って軽トラに載せた。ろ過には二時間ほどかかる。一回分はここで待つつもりだ。そのあいだは読書の時間だった。

 公園に設えられた東屋に腰をおろし、本を読む。図書館から持ってきたサバイバル関係の本を多く読んだが、小説もよく読む。

 ここ最近は村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいた。孤独を好む画家が主人公だった。この主人公はいまの俺の境遇を羨むだろうか。きっと羨むだろう。俺だってまんざらでもない。

 時間が経った。暗い日陰では秋の虫が鳴いている。水は八十リットルできていた。あともう一回夕方にくれば今日は風呂に入れるだろう。ここで汲んだ水はトイレと風呂に使う。調理器具と食器はそんなに毎回洗わないが、洗う場合はペットボトルの飲料水を使った。

 この川の水も煮沸するか塩素を使えば飲めるだろう。いつか飲料水に使う日も来るはずだ。だが、いまはまだそのときじゃない。街中に飲料水がだぶついているいまは。

 家に戻る。腕時計を見ると十一時だった。この腕時計も太陽光発電だ。耐用年数はどのくらいだろうか。どのみち時刻合わせの電波はもう届いてないだろうから、ゆっくり静かに狂っていくのは確実だった。俺はそのうち正確な時間もわからなくなる。それがどうした。どうせもう仕事もなにもない。明るくなったら起きて、暗くなったら寝るだけだ。

 今日はなにをしようか、どこへ行こうか。

 そうだな、今日はピザを焼こう。

 近所に薪を使った窯でピサを焼く店があった。いまでは俺がたまに使うくらいなので薪はたっぷり残っている。サラミもチーズもソースも、もちろん小麦粉も常温で日持ちする。いまだにピザを作ることは可能だった。

 俺は店に行って窯に薪をくべ、小麦粉の生地を練った。みようみまねのハンドトスで生地を伸ばし、店に残っていた具材をトッピングして窯に入れる。Lサイズを二枚作った。具材はあまりバリエーション豊かとはいえなかったが、たまに食う分にはまだ飽きない。

 一枚をぬるいビールをお供に店でたいらげ、もう一枚は箱に入れて持ち帰りにする。今日の夕飯だ。もしくは明日の朝飯か。気分しだいだ。今日はもう食えないかもしれない。

 あろうことか、人類が消滅してから俺は太っていた。米、パスタ、小麦粉、カップ麺、スナック菓子。日持ちのいい炭水化物のせいだった。肉、魚は全滅だし、野菜はあるにはあるが探すのに手間がかかる。炭水化物と缶詰の取り合わせがいちばん手軽だったのだ。

 いまの食生活にも不満はなかったが、強いていえば寿司が食いたい。寿司ならまだ可能の領域だった。米と酢はあるし、魚は自分で釣ればいい。いつか泊りがけで海辺の町へ寿司旅行へ行ってもいいだろう。さて、船を出せない身としては、浜辺や堤防からどんな魚が釣れるんだろう。釣りを趣味にしておけばよかった。まあ、いまからでも学ぶことはできる。時間はたっぷりあったから。

 今日はもうピザで腹いっぱいだったから動く気がしない。家へ帰ってテレビゲームをしよう。

 家ではテレビゲームもできたし、ブルーレイも見放題だった。庭に発電機をもってきていたからだ。人々は速やかに消えたので、燃料もたっぷり残っている。貴重な家の発電分は主に冷蔵庫へ回している。もっともその中身はいまや酒と氷ばかりだったが。

 今日はアクションの気分だったので、PS3でクライシス2をプレイする。ネットでアップデートするのが仕様となっている最新ゲームは具合が悪かった。いつバグで止まるかわからない。PS3ぐらいがちょうどいい。

 エイリアンの侵略者と戦っていると、あっという間に夕方になってしまった。ゲームをやめて、最後の水汲みに行った。

 戻ってくると、汲んできた水を風呂に張って、少々ハイターを混ぜて火をつける。風呂はプロパンガスだが、火をつけるには若干の電力が必要なのが不安の種だ。昔ならガスだけ使えればよかったものを。

 風呂が沸くまで筋トレをする。

 じつのところ、世界が破滅してから筋トレを始めたのだった。会社と家の往復ばかりだった以前の生活では、とても運動に費やす時間と元気がなかった。

 筋トレは自重を使うもので、怪我をしにくいのが特徴であるとされる。俺ひとりしか世界にいないのだからちょっとした怪我でも大問題になる。安全性は重要だった。いまの状況ならどこのジムに行っても貸し切り状態だが、ウェイトトレーニングにはやはりいくらかの危険が伴うし、プールも使えないのだから、ジムに行く機会はなかった。

 外は暗くなり、風呂が沸いた。俺は電池式のランタンを持って風呂へ入る。照明には家の電力を使わず、この電池式のランタンを持って歩いていた。ひとり暮らしなんだから、このほうが効率的だ。電池はいくらでもあるし。

 湯船に浸かっていると静けさが染み入ってくる。本当に静かだ。遠くで犬が吠えていたので少し不安にならないでもない。恩を仇で返すような真似をされなければいいのだが。

 人が消えて一週間もしたころ、俺は家々を回って飼い犬や飼い猫を開放して回ったのだった。閉じ込められたままだったり、首輪に繋がれたまま餓死するのは哀れだろうと思ったからだ。いまや犬たちは野犬と化して群れをなしている。俺も万が一に備えてナタを持って歩いているが、向こうが近づいてくることはいまのところなかった。俺も気が向けば軽トラを運転してホームセンターへ行き、犬猫のエサを大量に積んでくる。それを家から離れた公園や市場などの広い場所へぶちまけてくるのだ。エサを撒いている最中には犬も猫も姿を現さないが、翌日にはエサがきれいさっぱりなくなっている。俺としてはこれくらいの関係性を維持していきたかった。

 髪と身体を洗い、髭を剃って風呂を出る。

 そしてこのときにこそ用意してある冷えたビールを冷蔵庫から取り出して、一気に飲み下す。まったく! まったく最高だ。ビールの消費期限てのはどのくらいなんだろうな。この生活が長くできるといいが。

 長く、暗く、静かな夜だ。

 けっきょく腹が減って、冷めたピザを冷たいワインとともにかじる。ブルーレイで映画を見ることにした。お気に入りのインターステラーだ。

 インターステラーのいいところは、これを見ていてもあまり人恋しくならないところだ。ラブコメアニメなんか見た日には誰かと会いたい気持ちが高まっていたたまれなくなってしまう。

 冷めたピザとワインはよく合った。映画も終わらないうちに酔いが回ってしまう。俺は気力を振り絞って歯磨きだけはした。虫歯になるのはなんとしても避けたい。そしてランタンを消して寝てしまう。夜が長いということは暇な時間が長いんじゃない。長く眠れるということだ。俺は今夜もよく眠った。

 翌朝、目覚めると雨が降っていた。しとしとと静謐のなか、冷たい雨が降り続ける。

 道路の邪魔にならないところに、苦労して引っ張ってきたバスタブが二台並べてある。今日の生活用水はこれだけでなんとかならないだろうか。こんな日は水汲みに行きたくなかった。トイレに使う分だけあればいい。

 ここは川の近くだが、住宅地は高台にあった。川の位置はかなり低い。どんなに雨が降っても、まず洪水にはならない。ひとりきりの世界で怖いのは地震くらいだった。

 ああ、あと原発が怖いといえば怖い。原子力発電所はすぐには止まらない。管理者たちは速やかに消失して、そのままのはずだった。遠くの原発では爆発が起こって、放射性物質を撒き散らしているかもしれなかった。今度ガイガーカウンターでも見つけてきて気をつけてみるべきかもしれない。それでも、できることなどほとんどないに等しいが。

 とにかく、こんな日には外に出る気がしない。俺は米を炊き、缶詰をおかずにして朝飯にした。

 卵が食べたい。ふとそう思った。探せばにわとりの生き残りが見つかるだろうか。にわとりの飼育はそんなに難しくないだろう。隣の家の庭に放し飼いにすればいい。そうすれば新鮮な卵が食べられる。

 そんなこと考えていると、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。キャンキャンという、恐怖か苦痛に見舞われたときに出す鳴き声だった。野良犬同士のケンカでもあったのか。

 しかし続く音こそが、俺を戦慄させた。

 それはひゅーひゅー、ぽーぽーという笛の音だった。こんな鳴き声をする動物はいない。少なくともこのあたりには。

 ということは人間か。先の犬の鳴き声は人間に撃退されたときのものかもしれない。

 どうする。様子を見にいくか。

 そうするべきだろう。人間がいるとして、俺に友好的かわからない。それなら見つけられる前に、こっちが先に見つけて様子を窺ったほうがいいだろう。

 俺は両手が空くようにカッパを着て、腰にナタを吊るし、双眼鏡を持って外へ出た。

 笛の音は続いていた。川のある公園のほうだ。どこか高いところへ登れればよかったが、近所のマンションはどこも出入り口がオートロックで階段にも入れない。こんな日が来る前にドアを壊しておけばよかった。

 俺はしかたなく徒歩で公園へ近づいていった。態勢を低くして進んでいくと、公園の広場にそれを見た。異様なものだった。色とりどりの発光をするぶよぶよした塊が、なにかを囲んでうごめいている。そいつらが笛の音をたてていた。

 俺は双眼鏡を覗いた。

 そいつらは生き物だとして、見たことがない姿だった。クラゲを段々重ねにしたような形で頭らしき場所から眼が突き出ている。身体のそこかしこから伸びた触手を振るって、血みどろの犬の肉を食っている。三体いるだろうか。深海魚のようにきらきら発光していた。

 双眼鏡の向こうで、突き出た眼がこちらを向く。次の瞬間、俺は凍りついた。声が聞こえたのだ。遠くからではなく、頭のなかに。

「おや、旧住人のかたがいたのか」

 別の声がする。

「旧住人のかた、こっちへおいでよ」

 また別の声が言った。

「イヌのスシを一緒に食べよう。生肉を植物と混ぜて食べるのをスシというんだろう。知ってるんだ」

 やつらは明らかに俺へ話しかけていた。あの異形たちは。膝が震える。人生でこれほどの恐怖に襲われたことはなかった。恐ろしい。歯の根も合わず、ガチガチと鳴るのを抑えられなかった。逃げる。逃げるしかない。

 俺は逃げ出そうと振り返った。その眼の前に、やつらの一体が出現する。なにもなかった空間に突如として。やつは人間にそっくりな白い歯を見せて言った。

「逃さないよ。貴重な旧住人のかたなんだから。少しおしゃべりしよう」

 頭のてっぺんにある管からひゅーひゅー、ぽーぽーと音をさせていた。それは呼吸音か、笑っているかのようだった。

 俺はその場に腰を抜かしてしまった。立てなくなった。

 やつは俺の身体に何本もの触手を絡めてきながら言った。

「まあまあ、なにもとって食おうってわけじゃないんだから。さあこっちへ」

 触手は細くて柔らかそうなのに頑丈だったし、予想外なほど力があった。やつは俺を軽々と持ち上げると、ヌルヌルと滑るように動き、仲間のもとへ運んでいく。俺と一緒だとテレポートはできないらしい。俺にはなすすべもなかった。ただ震えていた。

 俺は公園の広場へ入り、やつの仲間のもとへと運ばれた。やつらはやはり犬を食っていた。生で。ところどころえぐられた犬の死骸のそばに降ろされる。

 やつらの一体が犬から毛皮のついた肉片を剥ぎ取り、広場に生えている芝生をちぎって混ぜた。それを俺に差し出してくる。

「スシを食べなよ」

 別のやつが血まみれの口で言う。

「スシはおいしいね。ぼく感心しちゃったよ」

 俺を連れてきたやつが言った。

「キャクにはオチャを出すんだよ」

「熱した水に植物を混ぜたものか。熱した水なんかないよ」

「ぼくたちの体液は、この世界では八十度らしいよ。熱した水の代わりになるんじゃない」

「そりゃ試してみる価値あるね」

 このままではなにを口に入れられるかわかったものではない。いちおう話は通じそうだし、俺は震えながら口を開いた。

「あ、あんたたちの食べてるものは、すべて俺には毒だと思う。なにもくれなくていい」

 やつらは身体を震わせ、ひゅーひゅー、ぽーぽーと音を立てた。一体が言う。

「やっぱ生の声は違うなー」

「場から得られる知識なんてこんなもんだね。実際に生活してた旧住人のかたとはズレが生じる。しかたないね」

 俺の肩に触手が一本回された。

「まあなにも出さなくていいならいいや。ぼくたちが聞きたいのきみの気分なんだよ。この宇宙にひとり残った気分てどんなんだい?」

 俺はどもりながら答えた。

「き、気分……? わ、悪くはなかったよ、ぜんぶ独り占めできるわけだし、どこまでも自由だったし」

「それで? きみは全宇宙で十万個体くらしか残っていないうちのひとりなんだよ? この星にはおそらくひとりっきりだろう」

 俺は聞いた。

「あんたらはなにものだ?」

「ぼくたちはこの宇宙があいたから引っ越してきたんだ。何者かといえば、これからはぼくらがチキュージンだよ。よろしくね」

「ち、地球人、だって……?」

「だって、この宇宙すっからかんになってるんだもの、引っ越してこないともったいないでしょ」

「この宇宙っていうか、もとの地球人たちはどうなったんだ。俺の種族は……?」

「神野郎だよ」

 別の一体が言った。

「つがいと一緒になって対消滅したのさ。いまごろ新しい宇宙を作ってるんじゃないかな」

 俺はめまいがした。

「つい……しょうめつ……?」

「地球人がやったわけじゃないんだけどね。ここから五千光年ほど向こうの文明がやっちゃったんだよね。反世界への扉を開いちゃった。だからこの宇宙で哲学を思考できる生命体はほとんどすべて、つがいと対消滅しちゃったってわけ」

 もう一体が言った。

「たまにきみのように、反物質のつがいを持たない存在がいる。だからこうしてたったひとりで取り残されちゃったんだけど、どういう気分?」

「気分は悪くない……、悪くなかった……」

 俺は勇気を振り絞って続けた。

「俺はひとりが好きなんだ。できれば放っておいてくれないか。あんたたちの邪魔はしないから……」

 やつらはひゅーひゅー、ぽーぽーとあざ笑うような音を立てた。

「ま、ファーストコンタクトだしね」

「気が変わったらいつでも遊びにおいでよ、ぼくたちは同じチキュージンなんだからね」

「ひきとめてごめんね。好きなところへ行っていいよ。ぼくたちはスシパーティーを続けるから」

「スシパーティーってこれか! スルドイね!」

 やつらはまた騒がしくひゅーひゅー、ぽーぽー音を立てて盛り上がっていた。俺は開放されたらしい。

「そ、それじゃあ……」と、いちおう挨拶をしてその場を去る。ショックが抜けきらず、膝が笑った。ほかにもやつらの仲間がいるかもしれない。俺はそいつらに出会わないよう、フラフラした足取りで注意しながら帰った。

 家に着く。幸いなことになにも変わりはなかった。外では雨が降り続けている。ひと風呂浴びたいところだが、道路のバスタブでは水が足りず、汲みに行くとなったら公園へ行くからまたあいつらと出会ってしまう。我慢するしかなかった。

 新品のタオルで身体を拭き、新品のパンツを履いて、新品の服を着た。それから湯を沸かしてコーヒーを淹れる。部屋にコーヒーの香りが充満するころ、やっと人心地がついた。

 あいつらはなんだ。くらげみたいな軟体のようでいて、犬を簡単に殺して俺を軽々と運ぶ力がある。そうだ、それにテレポートもできるときた。

 凶暴ではなく知性もあるが、万一怒らせでもしたら簡単に殺されてしまうだろう。法律や司法などいまは存在しないのだ。完全に向こうの気分ひとつといえよう。

 俺は大きくため息をついた。やつらを追い出す手段などない。もう俺は世界にひとりじゃなかった。やつらの話しぶりだと、厄介な隣人は増えていくと思われる。できるだけ関わらず、おとなしくひっそりと生きていくしかないだろう。

 俺はもうひとつ大きなため息をつくと、冷蔵庫から氷を取り出した。グラスに入れ、そこへ山崎十八年を注ぐ。マーテルも手元へ持ってきておいた。つまみは蒸しウニと近江牛の缶詰を出してきた。取っておいても殺されてしまえば虚しい。こんな日は飲むしかないだろう。

 酔いつぶれていつの間にか眠っていた。玄関のドアがゴンゴンと強く叩かれている。腕時計を見ると深夜二時をまわったところだ。

 背筋を冷たいものが走り、一気に目が覚めた。やつらが来たに違いない。ドアを叩くなんてほかにどんな存在がいる?

 無視したら入ってくるかもしれない。それも怖い。しかたないので俺はランタンを片手に玄関へ向かった。俺は恐る恐るドアを半開きにする。そこにはやはり、くらげを段々重ねにしたようなやつらの一体が立っていた。

 そいつは突き出た目玉をぐりっと回して俺を見た。ひゅーぽーと音を立てながら言う。

「おはようございます、旧住人のかた。隣に引っ越してきた者です。これからナベパーティーをするのでご一緒にいかがですか」

 俺は目をつぶって唸った。

 こんな夜中にパーティーへ呼ばれても嬉しくない。だいいちナベだってどんなものかわかったものではないし。もしかしたら、こいつらは眠らないのかもしれない。その可能性もあった。気分を損ねるのは恐ろしいが、ここは偽ざるところを言ってみて様子をみてみよう。俺は言った。

「呼んでもらえて光栄ですが、寝ていたんですよ。いまはとても食欲がなくて。すぐまた寝たいです」

「まあ! 寝てらしたんですね! 寝るなんて素敵な習慣! 擬似的に死ぬことなんですよね、寝るって。知ってます! それでは食事どころではないでしょう。今回は諦めますが、またすぐおよびに来ますからね。隣に越してきましたので」

 どんな足があるのかわからないが、やつはスルスルと滑るように去っていった。

 俺はドアを閉めてもたれかかると、安堵の吐息をついた。

 やはりやつらは眠らないらしい。こっちはどうしても眠らなければならない。寝てるあいだになにが起こるか不安だ。俺が引っ越すべきだろうか。いや、きっとどこへ行っても同じことになるんだろう。ここでやつらに慣れていくしかない。なにしろやつらは新しいチキュージンなのだ。気分ひとつで別の宇宙からやってきたような存在だ。

 そして、俺のほうはといえばやつらと違って、他の世界へ出ていくアテもないのだから。

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俺はイヌのスシを食べられないが、かといってヨソに行くアテもない 進常椀富 @wamp

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