第10話

田沼意次は実力主義者であり、その才を認めれば武士のみにあらず商人や町人でも自らの手駒として用いた。


だがそれは商人や町人からすればまたとない出世の機会であり、田沼に少しでも気に入られようと目論もくろ賄賂わいろが横行する事態となっており、方々ほうぼうからの批判や揶揄やゆの声が高まっていた。


その中で、飢饉や嫡男ちゃくなんの暗殺などに乗じて田沼失墜を画策する、家柄やしきたりを重んじる対立派閥が、田沼の手駒を削り取り弱体化させる策謀さくぼうを仕掛け始めていた。


彦衛門は田沼の手元でその賄賂の裏帳簿を作成する任を与えられており、しかもその賄賂から田沼公認でいくばくかを自らの懐に忍ばせていたため、手始めにと矢が立ったのであった。


縄を掛けられ涙ながらの必死の弁解を繰り返すも庭へと引きずり降ろされ地面に転がった彦衛門に、


「すまぬ……本当は私はこの事をお前に伝えに来たのだ」


と甲斎が頭を下げた。


「お前とは幼き頃からの並々ならぬ仲、それをご存知であった田沼様が私のもとへお出でになり、こう仰られた」


『明日にでも彦衛門の捕物とりものがある。旧友であるお前の方からそれを伝えてやってくれぬか。それで奴が逃げるのか自ら奉行所へ参じるのかは奴に任せて良い。だが逃げたとてすぐに捕らえられるし、自ら参じたとて城の金を横領せしは重罪にて、死罪は免れぬ。本来ならばも無く打首であろうところだが、私の力でなんとかそれを切腹にとどめることはできよう。その際、お前に介錯を頼めぬか』


その言葉に彦衛門は叫ぶことをやめ、全てを、この捕物も、自分が行ってきた罪の重さも、豪華な懐石も、そして食事をとりながら甲斎が語った話の意味も、全てを理解し、ただただ、天を仰いで大粒の涙を落とした。


甲斎は深く息をつくとゆっくりと立ち上がり、足音も立てずに舞のような所作でふわりと、しかし瞬時に縁側から庭へと降りて彦衛門のかたわらに腰を下ろすと、


「すまぬ。私にはどうすることもできぬ。だが案ずるな。先に私の知り得ることは全て伝えたつもりだ。お前を苦しませるようなことはせぬ。私の剣の腕はお前もよく知っておろう。お前は腹を斬る真似だけしてくれればいい。後は私が、斬られたことにすらも気付かぬよう、尋常じんじょう介錯仕かいしゃくつかまつる」


そう言って彦衛門の肩に手を置いた甲斎の真っ直ぐな眼差しの奥に、しかしながら人斬りの炎が静かに揺らめいたような気がして、彦衛門はこらえきれぬ全身の震えに襲われ地面に崩れ落ち、再び大声で泣き叫び始めた。






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