第8話 宮風の太刀風

「ここは扇橋の神社詰めか」

 舳先を桟橋に集めて浮かぶ、屋形船の合間にそよぐ階川の上風が、川岸の散策道を歩き始めたはまやに花枝を寄せている。はまやは、ゆりか邸への登り坂に向かいながら、白鷺が肉薄して強く羽ばたく、輝く刀身の様に平らなままの川面を眺め、美しい飛映だけを川面に降ろして両岸を渡る白鷺の様相になぞらえて、朗らかに顔を合わせる先々が鎮まる、ゆりかの人当たりの様だと心中で詳述する。

 はまやは、時折り道端の葦を御伽月で薙ぎつ花や露草の香りをかぎつつ、心地よく遙かな海面からの風が、緑陰繁る高い山肌に冷やされながら階山を吹き上がってゆく中を、時折駆けながら登り進む。はまやは、階山の中宮、ゆりか邸、この風が吹き出す涼間に、坂道で辿り着く。


 ゆりか邸への階段には、夏木の生け垣が幾枚か重なって、入り口の姿をひそめている。

「朝日奈さん。こんにちは。真南です」

 邸宅の上手の瑞垣を透かして、柔らかな横笛の音がきざはし神社の境内から鳴りを高め始める。

「ゆりかが夏祭りでいつも奏でる曲」

 はまやは、そして己とゆりかとが、幼い頃に草いきれの中で草笛で交歓した曲だと、白い玉砂利の上での楠の緑、夕月錦の黄、社殿の赤へと彩りを深める次第を見通す、幟旗が立ち並ぶ石畳の参道でゆりかの笛の音を伝い進みながら、夢と現実を同じ太陽が照らし出したように、階神社の夏の例祭の光景を脳裏にほのめかす。はまやは、ゆりかが雅曲を供して庭上の煌びやかな稚児舞いを囃し、時を新ためて、階川への張り出し舞台で、川面に映える剣舞いを奉納した際、雷光を放って舞い手のゆりかの太刀から青空へ弾け飛んだ、銀の糸を指からほどく。


 はまやは身を清めて神域を訪うと、ゆりかの笛の音が、曲の佳境を調べるひと時に際会する。はまやは、肌が一体に白く珊瑚色の真珠の細粉を剥いた様に血色の良い頬で、日光がしたたる稚児髪風の細い黒髪の華奢なゆりかの姿を遠目にした刹那に、心理が整い、一帯のつぶさな情景を己の背後にまで徹して、さやかに感じ取られ始め、己の識能が高まる兆しに満たされるのが常だった。

 陽光と花樹とが傍立つ殿上の回廊に座すゆりかは、はまやと瞳の笑みの輝きを分かち合ったまま、曲を吹き遂げる。

「真南、来てくれたのか。うれしいな」

 ゆりかは、白鷺の翼を天心の日光に重ねて透かしているように明白な白衣の懐に愛笛を納め、浅葱の袴を伸ばしてはまやの許に歩み寄り、はまやとともにしとやかな清流に沿って歩み進むと、大池前の社務所から自邸へとはまやを迎え入れる。


 海岸を望む広縁から、ゆりかがはまやを自室に目迎し、はまやに水菓子を勧める。

「はいどうぞ」

 はまやが、そよ風を撫でるように優美な所作でゆりかが点てた、薄茶手前の熱い抹茶を喫すると、身内には甘みがもたらす健やかな温もりが広まり、苦味が喉元の渇きを抑え、肌先は庭表の暑気が騒ぐ中で目覚ましい涼気を帯びる。以前、ゆりかとまことと三人で遊びに出掛け、食彩に辛みのある昼食に難儀した時にも、ゆりかが注文した冷たい紅茶を嚥下すると、紅茶の心地よい渋みに替わって辛みが去る口福を味わったはまやは、心の真芯が直く伸び上がるような心地でゆりかの和顔に語りかける。

「ありがとう、ゆりか。凄くおいしいよ」

 はまやは、ゆりかが客前に支度していた茶扇子を広げ、扇橋の上下流の階川の川面に映る、明るい夏景色が描かれた扇子表に奉書の包みを乗せて、扇の要をゆりかの膝前に向けて進め置く。

「これは」

 ゆりかは膝前におかれた茶扇子から奉書包みを取り上げ、茶扇子はたたんではまやの膝許に返す。

「拝見するよ」

 はまやは、ゆりかが庭池からの砂金のような光で輝く瞳で、正面に座すはまやに咲顔し、奉書包みのこよりを解いて、日や月や星、花に雲に鳥などの模様を集め織られた袱紗に整置し、細く白い指が照り返す光で押し分けるように、軽やかな手捌きで伸びやかに書面を広げるさまからも、邸宅の表にも通じ溢れるゆりかの清く朗らかな気韻が、室内と己の心中とに満ち、昼の光の中で星々が星図を組み替えて、とことわに道行く摂理をも、己が明るく澄み渡った心境で達観していると感得する。

「真南には、いつもながら勝ち気をそそられるな」

 はまやは、青空の風が身の回りに吹き、首筋に気を置く艶やかな黒髪に涼風が滲み入って鎮まったかのように、さわやかな面立ちで顛末書を読み尽くし、はまやがしおりの切れ込みに挟んで奉書紙で個包みして同封していた、銀色の糸を見止めてはまやを正視したゆりかの眼差しを受けて、髪が毛先から伸びるかのように全身の感覚が鋭敏になり、適時までじらしていた献辞を笑顔で述べる。

「ゆりかの手許に有りきたりの物だと思ったから。頂きからは、心行くままに空を進まれたよ」

「階の風は大らかに吹くからな。真南が喜んでくれているならうれしいな。ところで真南。これは真南のそばに収めてくれても良かったんだ。だから、立ち入った話だが訊ねても良いか」

 ゆりかは胸元に広げたいっそう白い手の平の上に、奉書に載せた銀色の糸を提示する。

「なんだい」

星科ほしなの子は見定めたのか」

「やわらの技でいなす時は目を外すから」

「そうか」

「相手の動きを背越しに察しても、間に合わせるよ」

「礼をしたい」

 はまやは、手を袴に伏せて背筋を伸ばしたまま、踵と腰を上げ、片膝を水平に高めて手を袴に沿って滑らせながら立ち上がり、手を袴の腿の笹襞の脇に軽く添え、つま先を揃えて低く徐かに歩き始めるゆりかを傍観しながら、刀を帯びていれば、息遣いを文息から武息に移した刹那に、いつでも抜いて斬り掛かられる立ち居振る舞いで、茶を点てた際も茶筅や袱紗、柄杓・茶杓や棗を捌く諸々の所作に、白衣の広い袖を美事に従えていたなと感心し、透徹したこの犀利な心地を、来るべき闘争の場にも転移させ、己から万全の技能として発揮させたいと、心序を整えて黙思する。

 はまやは、ゆりかの足の運びも、足袋の内からつま先をなめらかな床に咬ませて下腿を前傾させつつ、紙一枚分浮かせた踵に重心を掛ける事で、自然体として抜かるべき力が消えた全身の均衡をとりつつ、最小の力で歩を進ませるもので、文武の礼技を一如に体現する達人の域にあると清解する。


 はまやは、神禰宜たるゆりかの姿を見送りながら、神とは人の自己投影なのだろうと思至する。はまやは、人が自然や現象、思像や契約を神意の顕われとして扱う様に、生身で空を飛行する際に、全周全域から感得する透明感の果てに、人知を超えるべき思考めいたものを感じようと欲するのも、その類の心機に因るのだろうと、爽やかな庭そよ風に耳を澄ます。

とびの声にしては人慣れているけれど)

 はまやは、周囲の穏やかに澄み切った空気に磨きをかけるような、ゆりかが奏でる笛の音色に似たうららかな曲の音素を聞き分ける。

(ゆりかの剣舞の調子に似ている)

「まさかこれは、宮風みやびの太刀風!」

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