太田道灌の活躍
年が明け1479年になった。
昨年の秋に還俗して関東管領上杉顕定の客将として3000人の兵を与えられた太田道灌は、兵を与えられるとすぐさま上野国で長尾景春に味方する国人衆の制圧に取り掛かった。
道灌の還俗と共に、元道灌の家臣だった者達も集まり全盛期では無いものの目覚ましい活躍を見せ、景春方の国人衆を滅ぼし、また降伏に追い込み年が明けるまでに上野国から景春の勢力を完全に駆逐した。
ただ滅ぼした国人衆の所領は道灌に与えられることなく上杉顕定が治めるらしく、道灌が許されているのは降伏した国人衆に兵を出させ先陣とする事だけだった。
とはいえ降伏した国人衆を含め5000人程に膨れ上がった道灌軍は年明けには利根川沿いに進軍し、景春の乱に乗じ足利成氏に奪われた土地を奪い返し幸手(現在の幸手市)まで軍を進める。
途中、忍城の成田正等は道灌が上野国を制圧した直後、関東管領上杉顕定と和議を結び、病気を理由に城へ引き籠っているので有力な国人衆である成田家が敵対しなかった事が道灌軍の快進撃を後押ししている感じだ。
因みに道灌が制圧した場所へは関東管領上杉家の家宰である長尾忠景が古河公方こと足利成氏に備えるとの名目で上杉家の支配を盤石にする為に兵を率いて統治をおこなっている。
道灌は完全に露払いをさせられていると言った感じだ。
5月になり田植えの時期が終わると幸手で一旦動きを止めていた道灌軍が乱の中心となっている長尾景春を討つ為鉢形城へ向け動きだした。
その数は約10000人、道灌としては着実に景春の力を削ぎその上で鉢形城を攻め落とし乱を終結させたいと思っていたが関東管領上杉顕定と家宰の長尾忠景より勢が失われないうちに景春を討伐せよとの命が下ったからだ。
道灌はまだ景春と景春に味方する勢力の力は侮りがたし、と伝えたものの乱が始まって3年が経ち、その間、関東管領山内上杉家、そして扇谷上杉家の影響力が低下し古河公方こと足利成氏の力が強まっていることに危惧をした上杉顕定達はそれを無視し鉢形城の長尾景春を討ち取れとの厳命を下した感じだ。
道灌の動きを察知した長尾景春は周辺の国人衆を鉢形城へ集結させ道灌を用土原(埼玉県深谷市)で迎え打つ構えを見せる。
その数約15000人、道灌は数の劣勢を埋める為、上杉顕定や長尾忠景に援軍を求めたものの足利成氏が8000人の兵を率い利根川の対岸に陣を張った事を理由に援軍要請を拒否し道灌は10000人の兵で景春が待ち受ける用土原に向けて進軍した。
両軍が対峙し2日後、道灌軍が得意の少数の兵で挑発を始め、挑発に乗った一部の国人衆が道灌軍に攻めかかった事で本格的な合戦へと突入した。
挑発に乗り最初に攻めかかった国人衆の兵達は道灌があらかじめ雑木林に伏せていた兵達によって大打撃を受け後退しようとするも後方から道灌軍に向かって突撃を開始した味方である景春軍によって逃げ道を塞がれる形になり再度道灌軍に突撃し壊滅する。
その後両軍の主力が激突し激しい乱戦となったものの出鼻を挫かれ国人衆の足並みを崩された景春軍が時間の経過と共に押し込まれ始め敗色が濃厚となった為、夕暮れに合戦が終わった後、景春軍は鉢形城へと退却した。
出鼻を挫かれた事による国人衆の足並みが乱れた事も大きな要因だが、道灌自身既に失うものが無いうえ、従えている国人衆も元は景春に味方していた者達で手柄を立てなければいずれ所領を追われる可能性がある為必死に戦った事も大きな要因となった。
そして道灌軍と景春軍が激突していた頃、利根川を渡河してきた足利成氏軍と長尾忠景軍も合戦となっていた。
長尾忠景は足利成氏が渡河して来るとは思っておらず、長尾景春の元に援軍を送らせない為の陽動と見ていた為、夜間に一部の兵を利根川を渡河させ後方に回り込ませた成氏軍の兵に挟撃される形となった。
朝、利根川の渡河を始めた成氏軍に対し対岸から矢を放ち石を投げ、川の中で身動きが取りにくい成氏軍相手に善戦をしていたものの、後方へ回り込んだ成氏軍の攻撃を受け一気に形勢が傾き長尾忠景を始め多くの兵が討ち取られると言う大敗を喫した。
長尾忠景を討ち取った成氏軍はそのまま武蔵に侵攻を開始しようとしたものの、合戦となる数日前に関東管領上杉顕定より幸手に居る長尾忠景の援軍に行くよう命を受けて進軍をしていた岩槻城主太田資忠率いる兵に行く手を阻まれ古河へ引き返す。
この時、太田資忠が率いていた兵は1000人程であったが敗戦の報を受け、近隣の農民達を雇いむしろ旗を掲げさせ兵数を多く見せかけた事で成氏軍の物見が3000~4000人の兵が向かって来ていると慌てて報告した事で成氏に撤退を決意させたと言った感じだ。
長尾忠景討ち死にの報は一気に武蔵、上野国に広がり、景春と用土原で戦っていた道灌は形勢不利とみて夜の内に兵を引き幸手に向かった。
幸手まで退却し、弟の資忠と合流した道灌は栗原城(東武伊勢崎線、鷲宮駅近く)に本陣を置き、景春方に寝返る国人衆の制圧に乗り出し周辺の混乱を静める成氏の再侵攻に備えた。
実際に成氏は太田資忠の軍が実際には1000人程と知り、長尾忠景を討ち取った2日後、再度利根川を渡河し侵攻しようとしたものの道灌軍が幸手に向かっているとの報を受け再侵攻を諦めている。
その後、主だった動きがないまま8月を迎えた所で道灌どころか武蔵、相模、上野の国人衆達を驚愕させる出来事が起きた。
俺も聞いた時に何度か聞き返したがどうやら本当のようだった。
家宰である長尾忠景を失った関東管領上杉顕定が乱を静める為に手を打った。
これにより長尾景春の乱は終わりを告げたが更なる争いの幕開けとなるとは…。
うん、聞いた時、予想してた。
確実に豊嶋家に火の粉どころか火の玉が飛んで来ることを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます