第5話:水曜日の英雄

「廉太郎ー!早く起きなさーい!」


道子の呼ぶ声が聞こえていきた。階段下から呼んでいるようである。寝ぼけ眼で時計を見ると、後20分程で家を出る時間だ。


「うわっ!寝坊だ!」


いつもは学校へ行く1時間前には目覚めている。

昨日寝る前にあんなことを考えていたからだろう。暑さもあって、悪夢を見てしまい、そのせいで大変寝苦しかったのだ。

おかげでよく寝た気がしない。


ベッドから飛び起き、階段を駆け下りる。朝ごはんを作っていてくれたので、無下にする訳にもいかず慌てて口の中に掻き込む。味わう暇もない。

テレビに目を向けると丁度通り魔のニュースをやっていたが目ぼしい情報は無かった。昨日の今日だからか捜査は進展していないようだ。


「何も収穫無し……か」


そう独り言ちつつも急いで食べ終え、洗面台へ駆け込む。急いでいるため、歯磨きが少々雑になる。

身だしなみを整え、制服に着替えてドタバタと家を出ていく。出かけに


「忘れ物は無いの〜!?」

と道子の声が聞こえたが無視して学校へと向かった。


いつもと同じ時間に家を出れば必然的に通学路で出会う顔ぶれは変わらない。昨日会った小学生たちも岩崎のおじさんも皆昨日と同じ数字を頭に乗せている。

幸い急いだおかげでいつも乗っている電車に乗ることができた。この電車を乗り過ごすと遅刻の瀬戸際になってしまう。いつものサラリーマンの後ろに息を切らしながら並ぶ。サラリーマンの数字も変わってはいなかった。


だが。


電車が、定刻通りにホームへやってきてそのドアを開ける。降りる人を見送ると、サラリーマンはいつものように人がごった返すエリアへと飛び込んで行った。廉太郎も、昨日と同じように壁に寄りかかった。


息を整えるために電車が動き出しても、窓の外をずっと眺めていた。

電車が走り始めて少しした時点で、ふと、車内に目を移す。あのサラリーマンの数字が変わっていることに気付いた。


あれ?と廉太郎は思った。数字が見えるようになってから、変動したことを把握できた人は今の一度も見たことがない。今日、初めて昨日と数字が違う人に出会えたのだ。厳密に言えば、電車に乗る前は昨日と同じだったのだから、数字が変わったのはまさに電車に乗ってから、リアルタイムに変わったということだ。


内心、これはチャンスだ、と思った。


今はまだ不確定な悪意の数字説を検証することができる。

廉太郎は、おもむろに身体を壁から引き剥がし、サラリーマンに近づいていった。

そのサラリーマンの頭上の数字は、38だったものが39になっている。1つカウントアップしている。


サラリーマンの前には女子高生が立っており、何だか俯いて物悲しい顔をしている。そんなのはお構い無しにサラリーマンは身体をその子に密着させていた。

これは……。

もしや痴漢というやつでは?


体格は廉太郎とはそんなにかけ離れてはいないが、それでも相手は大人だ。怖さを感じる。手が少し震えているが、この女の子を助けるため、それと数字の秘密を暴くため。


成るように成れ!と思いながら、

「あなた、痴漢してませんか?」

そう言った。車内の空気がピンと張り詰めた。周りの乗客達も一斉にこちらに注目する。


当のサラリーマンは突然の事でギョッとして硬直している。

廉太郎の心臓も高鳴っている。今、悪い意味で廉太郎は、注目されている。この状況を打破するためにこの女子高生を味方につける方針にすぐ様変えた。


「君、触られてました?」


女の子はキョトンとした顔をした。

その反応で、間違ったか!?と内心思ったが、次の瞬間、彼女は首肯した。その目には涙が溜まっていた。


「やっぱり。次の駅で降りましょう」

「な、何を言ってるんだ!?俺は触ったりなんかしてねぇよ!」

「でも、彼女は……!」

「そんなもん知るか!後ろに立ってるだけで……!」


目の前の男はまくし立ててくる。こちらの旗色が悪くなってきた。どうする?と頭の中で逡巡していると、周りから援護射撃が来た。


「おっさん!この子がやられたって言ってるんだからさ!」

「そうよ!降りなさいよ!」


廉太郎と女の子は蚊帳の外で周りの人間が好き勝手言っている。サラリーマンの男はわなわなと震え始め、駅に着くと電車から一目散に逃げようとした。

だが――。


「おっと、待ちなよ。おじさん。そんなに慌ててどこ行くの?」


サラリーマンは、ガタイのいいニッカポッカを履いた歳が同じぐらいの男の人に入口付近で身体をガッチリと捕まれ、そのまま駅のホームへと降ろされた。


「はっ!離せよ!」

サラリーマンはジタバタしていたが、よほど男の力が強いのかやがて観念したようにはた、と動かなくなり、そのまま連れて行かれた。被害者の子はいつの間にか廉太郎のシャツの裾をギュッと握りことの成り行きを見ていた。

車内の群衆の内から


「君達もついていきなよ」


と言われたので、電車を降りてその男について行った。その間も女の子は廉太郎のシャツを握りついてきている。廉太郎はそれを振り払うでもなく成すがままに、ホームから階段を登り、改札口へと向かう。


改札口の横の駅員がいる所で男はサラリーマンの首根っこを捕まえたまま、何やら駅員に対して喋っていた。

廉太郎たちを見つけると男は、手招きをした。近づいてくとこれ以上の厄介事はゴメンだとでも言うように


「じゃあ、駅員さん。後、よろしくね」

とサラリーマンを引き渡して去っていった。


「君達が被害者?」


駅員が項垂れたサラリーマンを捕まえた状態で聞いてきた。


「いや、僕じゃなくて、こっちです」


廉太郎は自分の後ろを指差す。


「ああ。君か。じゃあ、こっちに来てくれる?」


駅員に呼ばれたので、廉太郎は身を左に引いて、駅員までの道を作った。彼女は俯いたまま、駅員に近づくと、駅員はサラリーマンを連れて、彼女と一緒に奥のエリアへと入って行って姿が見えなくなった。


「警察に連絡するから状況聞かせてくれる?」


姿は見えないが駅員がそう言っているのが聞こえた。それに答えるかたちで彼女は静かに頷いたのが、遠目に見えた。


「俺はどうすればいいんだろ?もう、行ってもいいかなぁ?」


一人でおろおろしていると、奥から別の駅員が顔を出した。


「君も当事者でしょ?」

「いや、僕はそのおじさんに声をかけただけです」

「じゃあ、当事者だよ。こっちきて」


手招きをされたので、そそくさと奥のエリアに入っていく。女の子は小さい声ながら、駅員と会話をしているようだ。よく見ると、この子はうちの高校の制服を着ている。


無我夢中で気が付かなかったが、この子はうちの高校の生徒だ。


「えーっと……、浜野 舞さんね……。警察来るから、一緒に警察に行って、話をしてくれる?」


舞は静かに頷いた。こういうキャラなのか、こういう事件があったからなのか分からないがいやに静かな子だなという印象を廉太郎は受けた。


メガネに髪を2つ結びにして、化粧気も無い。目はクリクリと大きく、鼻は小さい。雰囲気は愛華に似ていて、好きな人は好きそうな顔、つまり万人受けするわけではない顔の持ち主だな、と廉太郎は思った。


「有川君も警察に行って話ししてきてね」


駅員はもう説明するのも面倒だと言わんばかりに投げやりな説明をする。


「はぁ……」

とこれだけいうのが精一杯だった。それから先は覚えていない。


サイレンを鳴らしたパトカーが数台、駅にやって来て慌ただしく移動し、警察にいろいろ聞かれて素直に答え、もう行っていいよ、とけんもほろろに追い出され、行く先も無いから高校へと向かう。


そして、散々迷いながらヘロヘロの状態で高校へ着いた挙げ句、着いたら着いたで瀬野島に説教をくらった。


「何?痴漢から女の子を助けた?何、バカなことを言ってんだ?ただの寝坊だろ?」


確かに寝坊はした。だが、いつもの電車に間に合ったのだ。その時に何も無ければ、遅刻はしなかった。


「でも……」

「でもも、ヘチマもない。しっかりしろよ、有川ぁ」


呆れるように瀬野島は言った。そして、開放されて今に至る。職員室で小言を言われたのだけが幸いだった。教室だったらどれだけ精神的ダメージが大きかったか……。



                  ♢


その後は特段変化の無い、学校生活が終わった。

しかし、この日は更に違う所が一つだけあった。

部活が終わり、長嶋といつものT字路で別れ一人歩きながら、今日一日を振り返った。


数字が現れてもう3日目だ。この数字を、もう自分の生活の一部であると脳が認識し始めている。鬱陶しさも感じなければ、恐怖さえ感じなくなった。廉太郎は自分の脳の恐ろしさを初めて知った。


そうして駅前の繁華街へと入る。実は今日の部活は短縮であった。

理由はもちろん通り魔のせい。1時間近く早めに終わったせいで空は未だオレンジ色。


こんな空色を見るのは随分久しぶりだなぁ、と回顧していると、ふと前方を歩くサラリーマンに目が行った。


廉太郎は、当たり前のように人の頭上の数字を見た。初めて会う人の頭上を見ることが、もう癖になっている。

廉太郎は、その数字を見て愕然とした。


「え?76?」


後ろ姿はただのサラリーマンにしか見えないし、禍々しい印象も受けない。至って普通の人だな、という印象だ。

この街を歩いているということは、この辺の住人だろうか?駅から電車に乗って変える人だろうか?とそう思いながらついて行った。


答えは前者だった。彼は駅を通り過ぎ向こうへ歩いて行ってしまった。廉太郎には駅を越えてまで追いかける理由もないため、その場に立ち止まり、彼の姿が見えなくなるまで後ろ姿を見送った。


気にならないといえば嘘になる。

76の数字を持つ男の顔を見てみたいという衝動に駆られるも、もちろんそれは抑えた。


痴漢男でさえ39だったし、いかにもな風貌のおじさんでさえ68だったのに、それらを凌駕する76の数字を持つサラリーマン。


この後ろ姿をしっかり覚えておき、いつかチャンスがあれば尾行してみよう。

サラリーマンはいつも同じ時間に帰れるとは限らないから明日もこの時間にいるかどうかは分からないが……。


「それでもやってみよう。あの人の家はあっち方面か……」


廉太郎はそう呟くと、そそくさと自動改札をくぐった。いつもとは違う時間の電車に乗ると少し心がウキウキとした。家の近所の駅に降り、家路につく。今日は、時間が早いためか帰り道で楓に会うことはなかった。


家への玄関を開けると、カレーのいい匂いが鼻を突いた。


「今日はカレーかぁ……」


廉太郎が玄関先で靴も脱がずにそう呟くと、道子が例によってリビングから顔だけ出した。


「あれ?アンタ。今日早いじゃない?」

「部活が1時間早く終わった。通り魔の問題が終わるまでずっとそうだって」


靴のつま先を玄関ドアに向けるように靴を脱ぎながら、そう言った。

いつもルーティーンとして、バッグと制服を自室へ置いて、リビングへと向かった。


「いつまで1時間早いの?」


道子は先程の会話を続けたいようで、再び部活の話をぶり返した。


「さあ?通り魔が捕まるまで?下手したら部活も休みとかになるかもって。もっと下手をすると学校も休みになるかも」

「えー」


道子は憤懣やるかたない顔をして非難の声を上げた。


「そうは言っても仕方ない。嫌なら通り魔をどうにかしたら?」


嫌味の一言を投げかける。

道子は専業主婦だから基本家にいる。そうすると自然と通り魔に襲われる確率が減るが、父俊哉と自分は違う。


毎日、外へ出ているのだ。そのため通り魔に襲われる確率は道子よりもずっと高い。その確率を減らす努力をすると避難されるとあっては廉太郎も嫌味の一言も言いたくなるものだ。


学校の措置も生徒達の命を守るためのものだ。


「まだ、休みになるかは決まってないのよね」


こちらに問いかけているのか、自分を納得させるためにいったのか分からないような言葉を道子は言った。


「ご飯まだ?」


その流れを切りたくて、廉太郎は夕飯の事を話題にした。


「うん。もう少し煮込んだら終わり。アンタがこんなに早く帰ってくるとは思わなかったから……」


どうしてもそこを着地点にしたいのだろうか。


「んじゃ、その間テレビ見てよ」


母の発見の意図を知りつつも、それに乗っかりたくなかった廉太郎は、夕方のニュースをやっているテレビに目を向けた。

道子はそんな廉太郎の背中から拒絶的な意思を感じたのか、いそいそと台所へ戻っていった。


気になっているのは通り魔のニュースだ。1シーンも見逃すまいと、一言一句聞き逃すまいと熱心にニュースを見るも、どこそこの飲食店のランチが安いだとか、どこそこで交通事故とか自分には興味が無かったり、関係無かったりで、結局通り魔の事件は報道されないまま、明日の天気へと移ってしまった。


天気が流れたら、もうこの番組もそろそろ終る。情報を得ることでしか自分の身を守ることができないというのに、何も情報を得ることができなかった。


「夕方も収穫無しか……」

「カレー、できたわよ」


道子が配膳をしながら声をかけてきた。待ってましたと言わんばかりに廉太郎は、さっと席についた。

母が作ってくれるカレーを廉太郎は、気に入っていた。


世界が明日、滅ぶとしたら母のカレーが食べたいとさえ思っている。早速、カレーの器の横に並べられたスプーンを手に取り一口掬って口に入れる。


幼少の頃から食べているこの味。やはりこの味でなければ……。そう思い次から次へと口に入れていく。


「そんなに急いで食べたら喉につまるわよ」

「大丈夫」


あっという間にカレーを平らげると


「まだ、ある?」


とおかわりを所望した。


「アンタが2杯食べると思って、たくさん作っといたわよ」

廉太郎が、キレイに食べた皿を取り上げると慣れた手付きでご飯、カレールーを乗せて再び廉太郎の前に出した。


「ありがと」


礼を言うのが照れくさくてそんな言い方をしてしまう。

廉太郎は、カレーにスプーンを、差し込みがっつき始めた。

そして、再び皿をキレイにした。


「ごちそうさま」


手をしっかり合わせた。満足した廉太郎は


「お風呂入るよ」


と言ってリビングを後にした。

いつも通りにお風呂に入って、身体を洗い、パジャマに着替えて、リビングへと戻ると俊哉が帰ってきていた。


「おかえり」

「お、廉太郎、大丈夫だったか?」

「何が?」

「通り魔だよ、通り魔」


父も母も一言目には息子の心配をした。それはどの家庭でも普遍的なものなのかもしれなかった。


「こっちは大丈夫。父さんこそ平気なの?父さんの方が帰ってくるの遅いんだからさ、そっちの方が危ないんだよ」

「ははは。まぁ、何とか大丈夫だ。そもそもエリアが違うし」


俊哉は何が面白かったのか、からから笑った。いっちょ前に他人の心配をする息子が滑稽だったのだろうか?


「変な人とかいないの?」

「別に深夜ってわけでもないし……。何かあったら大声出せば大丈夫だよ。誰か出てきてくれる」


それもそうか、と納得した。


「母さんから聞いたけど、部活、短縮になったんだって?」

「あ。うん」

「いいなぁ。会社も短縮にならないかなぁ」


学校と会社では状況が違うので短縮になったりはしないだろう。いや、だからこそ、廉太郎を羨ましがっているのだ。しかし、こちらとしてはやりたいことの時間が削られているのと同義なので、嫌々会社に行っている父とは一緒にしないでほしいと廉太郎は内心思った。


廉太郎はフッと笑ってリビングを後にして2階の自室に引きこもる。

今日は部活が短かったせいで昨日ほど疲れてはいなかった。ベッドに潜り込んでもすぐには眠れないと踏んで、ゲーム機のスイッチをオンにした。

この前買ったゲームもそろそろ終盤。ここで一気に片付けてしまおうと考えた。


何だかんだで、一学期のテストは終わり、後は消化試合だ。夜更ししてもバチは当たらないだろう。

そうして、4時間ほどゲームをプレイして、眠くなってきたため、丁度いい所でセーブをして寝る準備をして、ベッドに潜った。


ぼんやり天井を、眺める。電気のついていないシーリングライトを眺めながら最近癖になりつつある逡巡を始めた。

今日あったとてつもない数字を持つサラリーマン。明日もあの時間にいてくれればと思った。


あの人物はこの数字の謎を解くキーマンのような気がする。人畜無害のような雰囲気を醸し出していたが、その裏ではとんでもない凶悪犯かもしれない。

そうでなければ、とてつもない金持ちとか。数字は資産の数で、とそこまで考えたが、なにせ開業医をしているあの楓の数字が少ないのだからそれは無い、と頭の中で打ち消した。


やはり、あの痴漢男の数値が上がったタイミングで考えると、「悪意の表れ」と考えるのが一番しっくり来てしまう。それは同時に、俊哉も愛華も、何かしらの犯罪に手を染めているかもしれないという可能性を示唆するものになる。


何かの間違いであってほしい、いや、これは悪意の表れであるという相反する意見が頭の中で木霊した。

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