第五章 後悔ばかり多かりき ~第二節~

 嘉生かしょうは岩壁に開いた横穴へと入った。立ったまま入れるほどの高さはあるが、奥行きはせいぜい二丈ほどで、突き当りには小さな祠が置かれている。このあたりの土地神とちしんを祀ったものかもしれない。

 嘉生は剣を無造作に振るって祠を壊すと、それを薪代わりにして手早く火を起こした。

「うわー……罰当たり」

「なら別におまえは当たらなくてもかまわんが」

「いやいや、そこはまあ……せっかくだしね」

 血の気のない唇を吊り上げ、獅伯しはくは焚火の前に腰を下ろした。

「……その瓢箪に酒は入っているのか?」

「これ? まあ、残り少ないけど」

「なら、それで傷口を洗ってこれを塗っておけ」

 腰にくくりつけてあった荷物をほどき、嘉生は血止めの軟膏を獅伯に差し出した。

「いつつつ……」

 嘉生の言葉に素直にしたがい、獅伯は衣を脱いで肩と胸の傷口に薬を塗り込んでいる。胸はともかく、肩のほうの傷はそう軽いものではないが、嘉生と違って獅伯には若さがある。すぐによくなるだろう。

 嘉生は壊した祠を細く割って次々に火にくべ、獅伯に尋ねた。

「……それで、何があった?」

「おれにもよく判らないんだけどね……どうもその奉公人が、引き連れてきた用心棒たちを抱き込んで、山賊だか何だかに寝返ったっぽくてさあ」

万槐崗ばんかいこうの連中か……」

「は? 何? あんた知ってんの?」

「万槐崗の山賊どもが一行を狙っているという話は聞いていた。たとえ一行に二〇人の用心棒がついていても、絶対にしくじらないように手を打ってあるという話だったが、そういうことだったか」

「ふぅん……寝返ったっていうより、最初から仕組まれてたわけか」

 瓢箪の酒をちびちびとなめ、その合間に獅伯は嘆息した。

「――剣なぞ振り回していれば、人を斬るだけでなく、人に斬られることもある。判っていたんじゃないのか?」

「いやあ、何もしてなくったって人に斬られることってあるでしょ。今はそういう世の中じゃん?」

「……おまえのそれは、達観しているというべきなのかな」

 朱色の炎が静かに踊るさまをじっと見つめたまま、嘉生は静かに続けた。

「俺の知り合いが――」

「はい?」

「知り合いの話だ。……その男も、若い頃から剣を振り回していた」

「へえ」

「それなりの腕になった男は、やがて剣で身を立てたいと思うようになった。それこそ今はそういう世の中だからな」

「いいんじゃない、好きにすれば?」

「そうだな……男には妻も子供もいたが、おまえのいう通り、好きにした。武功を立てるために妻子を残して故郷を離れた」

「前言撤回、妻子がいるのに好き勝手やるのは駄目じゃん」

 あっさりてのひらを返した獅伯は、瓢箪もひっくり返して酒を飲み干した。やはりそれが若さというものなのか、早くも獅伯の頬には赤みが差し始めている。

「――で? その身勝手な男はどうなったわけ?」

「……一〇年たっても名を成すことはできなかった。剣の腕は上がったし、人を殺すことに抵抗もなくなったが、得たものより失ったもののほうが多かっただろう。だから男は失意とともに故郷に戻った」

「奥さんに愛想尽かされてないといいけどね。……ってかさ、それもう子供は父親の顔覚えてないんじゃない?」

「……それでも、妻子が健在であればましだった」

「え?」

「男が故郷に戻ってきた時、生まれ育った村は賊に襲われて跡形もなくなっていた」

「そりゃまた……」

 獅伯は継ぐべき言葉を捜して視線をさまよわせている。嘉生はその表情を見て思わず笑ってしまった。

「……馬鹿な男だ。旅に出てさえいなければ、家族だけでも守れただろうにな」

「まあ……自慢の剣は家族を守るために振り回すべきだったかもね」

「……村のわずかな生き残りの話では、妻は賊に殺され、娘はさらわれたという」

「へえ、娘さんは生きてるかもしれないんだ?」

「……ああ。それだけが唯一の救いといえるかもしれないな」

 こんなにしゃべったのは久しぶりだった。嘉生は深く息を吸い込み、それから小さく咳き込みながら立ち上がった。

「……もう邪魔はするなよ?」

「は? 何の話?」

「俺は劉蛮軒りゅうばんけんを斬るまで死ねん……俺にできるのはもうそれだけだ」

「そこはまあ……おれが請け負ったのは、あのお嬢さまの護衛だからさ。あんたがお嬢さんをどうするつもりなのかによるよ」

「……どうもしない」

「だったらおれもあんたの邪魔はしないよ。さっきも自力で切り抜けられたとは思うけど、まあ、形としてはあんたに助けられたからね」

「……口の減らない小僧だ」

 嘉生は口もとをぬぐって横穴を出た。

 すでに日は高く昇り始めているようで、朝靄あさもやはかなり晴れてきていた。まずはどこかで馬を調達し、賊たちに追いつかなければならない。

「――なあ、あんた」

 立ち去ろうとする嘉生に獅伯が声をかけた。

「今の流れでいうと、その村を襲った賊ってのがが劉蛮軒てこと? 要するに――今の劉大人?」

「……さあな。今度その男に会ったら聞いておく」

「いや、とぼけても丸判りっていうか……あのさ、自分の過去の失敗談を、他人のやらかしみたいな感じで話すのってあんまりカッコよくなくない?」

「……もう先がないと判れば、人間は恥をかくことも怖くなくなるものだ」

「開き直りってやつ? そういうもんなんだ?」

「…………」

 怪訝そうにしている獅伯を肩越しに見やり、嘉生はふたたび足早に歩き出した。

 少なくとも嘉生は、いまさらどんな恥をかこうと怖くない。さらにいうなら、昔の恥をひとつさらすだけであの若者が動いてくれるのであれば、いくらでも恥をさらそうと思えるようになっている。

 逆にいうなら、そんなことを期待しなければならないほどに、今の嘉生はさまざまな意味で追い詰められていた。

「――余計な話かもしれないけどさ」

 最後に獅伯が投げかけてきた言葉を、嘉生は振り返りもせず、立ち止まることもなく、ただ背中で聞いた。

「その男の娘さんさあ、もしかしたら、目の前で村を焼かれたり母親を殺されたりしたせいで、昔のことを忘れちゃってるかもね! 父親の顔を覚えてないとかいう以前の話でさあ!」

「――――」

 嘉生の足がさらに速くなった。


          ☆


 濡れた衣を火のそばに広げて乾かしている間、獅伯は川辺で顔を洗い、水を飲んだ。

 手で触れた頬が熱く感じるのは、傷を負ったことで熱が出たからだろう。ただ、身体が冷えきって思うように動かないよりはずっといい。酒があれば傷の痛みもごまかせたかもしれないが、今はがまんするしかなかった。

 軟膏を塗った傷口にそっと触れ、獅伯は顔をしかめた。

「……やっぱり血のめぐりがよくなると、どうしても出血が増えるよな」

 胸の傷はともかく、肩の傷はそれなりに深い。鎖骨に当たって途中で止まったとはいえ、史春の飛刀の腕はかなりのものだった。

「――おい」

 右手だけで顔をざっとぬぐい、獅伯はいった。

「いるんでしょ? 判ってるんだからさっさと出てきなよ」

「…………」

 獅伯がそう呼びかけると、岩壁の上のほうから、器用に垂れた蔓を伝って小柄な少女がするすると降りてきた。

「あんた、お嬢さんにくっついてた侍女だよねえ? 名前、何だっけ?」

「は、白蓉はくようですぅ」

 どこかもじもじしながら名乗った少女は、しかし、その見た目とは裏腹な体術の持ち主だった。今の身のこなしを見れば判る。

「賊の仲間……じゃないよな?」

「ええ、まあ……」

「それに、あんたみたいなのがお嬢さんの周りにいたら、護衛役のあのおねえさんが真っ先に気づくだろうに、何もいわなかったってことは……そうか、あんた、あのおねえさんの仲間か何かか?」

「いや、それはまあ――」

 白蓉はそっぽを向いて言葉を濁しているが、おそらく獅伯の見立ては間違っていないのだろう。

「――で? そのあんたがどうしてここに?」

「そ、え、ええと……師姐はりんさまのことをとても気に懸けていてぇ、だからわたしも林さまがどうなったのかなぁって――」

「いや、あんたが気になってるのはおれじゃなくておれの剣でしょ? さっきからちらちら見すぎじゃん」

「あ」

「まあいいや。とにかくあんたが来てくれてよかったよ」

 獅伯は剣の柄を握り締め、鞘を足元に落とすように抜剣した。

「――とりあえずさ、帯ほどいてくれる?」

「は……?」

「だから、あんたのその、帯をほどいてっていったの」

「ちょ、え!? お、帯!? ですかぁ!?」

 急に顔を赤くしてうろたえる白蓉に、獅伯は溜息交じりにいった。

「……一応いっとくけど、別にいやらしい意味とかないから。傷口をぎっちり縛りたいから、あんたの帯をちょうだいっていってるの」

「あ……ああ、そういうことですかぁ……」

「判ったらほら、さっさと寄越して。あいつらを追いかけないといけないし」

「えっ? お、追いかけるってぇ、史春さんたちをですか!?」

「よく判らないけど、どうせもう石城せきじょうに引き返してんでしょ、みんな?」

「た、たぶん……お嬢さまを人質にしてぇ、旦那さまから身代金をふんだくるつもりだと思いますけどぉ……」

 帯をほどいて差し出してきた白蓉に、獅伯は代わりに岩壁に垂れていた蔓を適当に切って投げ渡した。

「あの賊たちと大人がどんな取引をするかはともかく、たぶん例の剣士は、その場にひとりで斬り込んでくつもりだ」

「え……? 旦那さまを狙ってるっていう人のことですかぁ?」

「あれは……お嬢さんの父親だ」

「えっ?」

 ごわごわする蔓を帯代わりに腰に巻いていた白蓉は、獅伯の言葉に目を丸くした。

「……いや、確かに大人とお嬢さまはぜんぜん似てませんけどぉ――どうしてそうなるんですぅ?」

「いや、その剣士がそんなようなことをいってたし」

「はい? まさかそのいいぶんをそのまま信じたんですかぁ?」

「あのね、おれはこれでも人を見る目はあるんだよ?」

「そんなこといって、史春さんには見事に裏切られてたじゃないですかぁ」

「あれはあれ、これはこれだよ」

 肩から腋の下に帯を回してきつく縛り、獅伯はゆっくりと左手を動かしてみた。痛みは相変わらずだが、かなり楽になった気がするし、何よりも出血が抑えられているのが大きい。

「とにかく、あんたの姉貴分だっていってただろ、大人は善人じゃないって? 劉大人の本名は劉蛮軒――もともとあいつも山賊だそうだ」

 故郷の村が劉蛮軒によって焼かれ、根こそぎ略奪された時に、あの剣士の妻は命を落とし、娘はさらわれた。おそらく、その際の惨劇を目の当たりにした衝撃で、娘――蘭芯はそれ以前の記憶を失ったのだろう。

「蛮軒は後ろめたい過去を隠して商人になった。さらってきた娘は、記憶を失ったのをいいことに、自分の娘として石城での地位を固めるために利用してきた。……だとすれば、お嬢さんを人質に取られたからって、大人が身代金を払ったり賊のいうことにしたがったりすると思うか?」

「……しないと思いますぅ」

「だろ? うっかりすると、争いに巻き込まれて死んじゃうぞ、あのお嬢さん」

 わずかに湿り気の残る衣をはおって剣を背負った獅伯は、川の流れに沿って歩き出した。どこかで舟でも調達できれば、馬で移動している賊たちとの差を一気に詰めることもできるかもしれない。

「あ! ちょ、ちょっと! 待ってくださいよぅ!」

「は?」

「は? じゃなくてぇ! こんな山の中にわたしだけ置いてかないでくださいよう!」

「あんたも行くの?」

「師姐は石城のお屋敷にいるんですよう?」

「……それもそうか」

「これでも師姐と同じお師匠さまのもとで修業してきたんでぇ、足だけは速いですから」

「そりゃあ頼もしい」

 白蓉がついてこられなくても獅伯は待つつもりはない。傷口を軽く押さえ、獅伯は走り出した。


          ☆


 石城の北の城門近くに、小さな酒家がある。

 亭主は背中の丸まった老人で、身体が悪いのか、それとも気分屋なのか、日によって店を開いたり開かなかったりするおかげで、あまり繁盛はしていない。城門に近いため、客の多くは街の守りに就いている兵士たちで、彼らからはりょのじいさんなどと呼ばれている。呂成安じょうあんだか呂成雲じょううんだか、とにかくそんな名前であるらしい。

 魁炎かいえんからあずかった書状にあらためて目を通し、くだんの酒家の前までやってきた姜天童きょうてんどうは、ぼりぼりと頭をかいて嘆息した。

「……何だってこんな田舎まで来て、わけの判らねえじいさんに会わなきゃならねぇんだ?」

 そもそも天童が牙門がもんの一員になったのは、自分の剣の腕を磨くためであって、使い走りをやるためではない。しかし、紅雪公主こうせつこうしゅのお遣いとなれば話は別だった。

「――呂のじいさんてお人はいるかい?」

 いい匂いのする店先を覗き込むと、奥のほうで背中の丸まった老人が、何やらぐつぐつと煮込んでいる。天童はくんくん鼻を鳴らしながら、じっと目を凝らした。

「まさか……あんたが呂のじいさんかい?」

「何の用だね、お若いの?」

 天童のほうを見もせず、老人は鍋をかき回している。天童の半分ほどしか目方がなさそうな、小柄で痩せっぽちの、どう見ても、ただの酒家の老亭主だった。

 天童は首をかしげ、預かっていた書状をもう一度確認した。

「俺はまたてっきり――」

 書状に記されていた魁炎の指示によれば、石城の北の城門近くで酒家を営む呂翁おうを訪ね、その指示にしたがって役目を果たせとのことだった。書かれていたのはそれだけで、具体的に何をすればいいのかも判らないし、そもそも呂翁というのがどういう人間なのかも明示されていない。

 ただ、呂翁が牙門とかかわりのある人間なのだとすれば、年を取ってはいても、剣なり暗器なりの達人に違いない――と、そう考えてやってきた天童の予想を、目の前の老人はあざやかに裏切ってくれた。この瘦せ細った老人の手で振り回せるのは、せいぜいが包丁くらいのものだろう。

 天童は落胆の吐息をもらし、空いている椅子に勝手に腰を下ろした。

「……あんたが呂さんか。俺は先生の遣いの姜天童ってもんだ」

「ずいぶんと甘くなんなさったな」

「は?」

「先生がだよ」

 老人は鍋にふたをすると、今度は羊だか豚の肉を串に刺し始めた。

「……まあ、先生は気まぐれなお人だから、そういうこともあるかもしれん。だが、そばに魁炎がついていて、どうしておまえさんの入門を許すようなことになるのかね?」

「…………」

 溜息交じりの老人の言葉の意味を、天童はすぐには理解できなかった。

「えーっと……なあじいさん、今のは……どういう意味だい?」

「おまえさん、天童とかいったか? ――牙門がどういうところか判ってて入ったんだろう?」

「そりゃあ、生まれも育ちも問わねえ、とにかく強くなりたい奴らが集まって剣の腕を磨く――」

「デカい図体に似合わず純粋だな、おまえさん」

「やっぱ馬鹿にしてんのか、あ? そうだよな!?」

 老人の意図に気づいた天童は、卓を平手で打って声を荒げた。しかし、老人はその剣幕にも動じることなく、乾いた唇を吊り上げた。

「馬鹿にはしていないな。……だが、牙門には向かん男だとは思ってるよ」

「だからどういう意味だよ!?」

「牙門というのは、雪峰せつほう先生の下で孜々ししとして剣技の研鑽にいそしむ集団――だと思っているなら、それは大きな間違いだな」

「……は?」

「先生の強さに心服して剣の腕を磨こうって連中は……ま、半分もいないだろうな。それ以外の大多数の連中は、牙門の中でのし上がることだけを考えてる」

「だから、みんな強くなるために集まってるってこったろ?」

「だからな、そう考えているおまえさんは、ある意味で純粋な男だが、牙門に集まってるのはそういう連中ばかりじゃないということだ」

「……つ、つまり?」

「不純な連中は、自分がのし上がるために、邪魔な奴の酒に一服盛ることもためらわん」

「な、え? 一服盛る……? 同門の仲間にか?」

「それだけじゃない。寝込みを襲うこともあるな」

 平然と語った老人は、袖を大きくまくって自分の左腕を天童に見せた。ただ細いだけかと思えた老人の腕には――確かに太いとはいえないが――みっしりとした筋肉がついており、さらにその手首から肘にかけての皮膚に、かなり新しい刀創が走っていた。

「そういう連中は、わしのような老人だろうと見境なしだ。競争相手は少なければ少ないほどいいんだろうな」

「あ、あんたも……牙門の剣士なのか?」

「おまえさん、右の袂を確かめてみな」

「!」

 老人にいわれて右袖を広げた天童は、そこに一本の竹串が刺さっていることに気づいた。おそらく老人が串焼きの準備をしている間に投じたものだろうが、天童はまったく気づかなかった。

「……先生に殺されずに入門を許されたのなら、おまえさんにもそれなりの腕はあるってことだろう。だが、考え方がまだ甘いな」

「か、考え方?」

「牙門の一員として梅花山荘ばいかさんそうで暮らすってことは、四六時中気を張ってなきゃならんということさ。毒を盛られるのも寝込みを襲われるのも日常茶飯事だからな。……少なくとも、相手が痩せっぽちの老人だからって簡単に目を放したりする奴は、あそこじゃ長生きできん」

「――――」

 老人の言葉に、天童は何もいい返せなかった。自分がこの老人をただの凡人と見て気を抜いていたのは事実だったからである。

「……しかしまあ」

 料理の下ごしらえをひと段落させ、老人は大きな瓢箪と縁の欠けた碗をふたつ持って天童の前に腰を下ろした。

「魁炎がおまえさんをここに寄越したってことは、多少なりとも見込みがあるってことだろう」

「だといいけどよ。……自信なくすぜ」

「おまえさんは素直だな。――なぐさめになるかどうか判らんが、さっきいったような、仲間を蹴落としてでも上に行きたいって連中には、先生も魁炎もこういうお役目は振らないんだ。そういう奴は信用できないからな」

「少なくとも、俺は信用されてる……ってことか?」

「もしくは、信用できるかどうかを見極めるためのお役目かもしれんが」

「そのお役目ってのを、俺はまだ何も聞いてないんだけどよ」

「今から説明してやる」

 老人は大雑把に碗に酒をそそぎ、天童に勧めた。

「……毒は入ってないよな?」

「入ってるかもしれんが、飲みたくなきゃ飲まなくていい」

 小さく笑って老人はひとりで飲み始めた。

「いや、飲むよ、飲むって」

 天童が気づかないうちに竹串を投じて袂に打ち込んだこの老人なら、おそらく天童の隙をついて殺すことなど造作もないだろう。わざわざ酒に毒を盛る必要もない。

「――で、お役目ってのは?」

 酒を一気にあおってひと息つき、天童はあらためて尋ねた。

「雪峰先生は、以前からとある剣を捜しておいででな」

「剣?」

「そいつがどんな剣かは判らん。先生がおっしゃるには、とても珍しい剣らしい」

「……何かふわっとしてんな。漠然としすぎってかよ」

「わしが思うに、先生が牙門をお作りになったのは、ひとつにはこの剣てのを捜すためだったのかもしれん。腕に覚えのある剣士なら、いわくつきの業物を持っていたり、噂のひとつも聞いたことがあるかもしれんしな」

「なるほど……」

「それに、手足となって動く剣士たちが多ければ、その剣を捜すのに役に立つ」

「てことは、お役目ってのもその剣に関係あるわけか?」

「そこだよ。この石城には、劉大人て金持ちがいてな――」

 声をひそめ、老人は卓の上に身を乗り出したその時、近くの城門の上で鐘が打ち鳴らされ始めた。

「なっ、何だ!?」

 剣を掴んで立ち上がった天童の脇をすり抜け、老人は素早く店を飛び出した。表の通りでは、槍をかついだ兵士たちが慌てたように走り回っている。

「いまさら蒙古軍が来たとは思えんし、こりゃあどこぞの山賊が略奪に来たか?」

「山賊? この街を襲撃するような大所帯の山賊がいるのか?」

「ああ。わしが山荘に応援を寄越せと連絡したのもそのせいでな」

 老人は眉間のしわを深くし、低い声で唸った。

「史春の奴、下手を打たなきゃいいんだが……」

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