第四章 武昌へ ~第三節~


          ☆


 結局、雨漏りの少ない北側の主殿しゅでんの中を布を張ってふたつに仕切った上で、より雨に濡れないほうで蘭芯らんしんと侍女たちが休み、もう一方で護衛役の獅伯しはくぶん先生が休むことになった。

 見張りを除いて一行が床に就くころには、ずいぶんと雨足が弱まっていた。このぶんならあすにはひとまず雨は上がってくれるだろう。ぬかるんだ地面はそう簡単には乾かないだろうが、それでも、雨中の行軍よりはよほどましだった。

「んぎ、んぎぎ……」

「おい」

 こうして隣で寝てみて初めて知ったが、寝ている間、文先生はやたら歯ぎしりをする。夢を見ながらここまで歯噛みをするということは、文先生には何か胸中に鬱屈したものでもあるのかもしれないが、いずれにしろ、眠りが浅い獅伯にとっては耳障りなことこの上なかった。

「……地味にうるさいな」

 寝るに寝られず、むくりと身を起こして壁にもたれた獅伯は、すぐ隣で眉間にしわを寄せて寝ている文先生をひと睨みした。

 不思議なもので、他人のいびきや歯ぎしり、足音などにはすぐに目が覚める獅伯も、今夜のようにそぼ降る雨の音や秋の虫の音のようなものには、さほど眠りを邪魔されることがない。

「風流さのあるなしかな?」

 残り少ない瓢箪の酒をあおり、獅伯は闇の中で笑った。できることなら、あしたは朝早くに出立して、どこか酒家なり村なりに立ち寄り、瓢箪の中身を満たしたい。

 軽い溜息とともに瓢箪に栓をしたその時、獅伯は目を細めて動きを止めた。

 静かな雨音の中に、泥を踏む無数の足音が交じっている。明らかに殺気をまとった足音だった。それも、この主殿のすぐ外まで迫っている。

 雨音にまぎれていたとはいえ、今の今まで気づかなかったのはおそらく文先生のせいだろう。自分の甘さを人のせいにして気持ちを切り替えた獅伯は、剣の鞘の先端でいまだに歯ぎしりをしている文先生の頭を小突いて立ち上がった。

「――んぁ?」

「あんたはそのへんの櫃にでも隠れてろ」

 寝ぼけまなこの書生にそうささやき、獅伯は仕切りをめくって蘭芯たちのほうへ向かった。

「――おい」

 獅伯は剣を背負い、侍女たちと身を寄せ合うようにして眠っている蘭芯をそっと揺すった。

「ん……!?」

 目を覚ました途端に叫びそうになった蘭芯の口をふさぎ、獅伯は低く押し殺した声でいった。

「し、獅伯さま!? 何を――」

「あんたと違っておれは夜這いなんかしないよ。……どうも様子がおかしくてさ」

「……え? 何です? いったい何が」

「何が起こってるのかはおれも知りたいね。ついでに、見張りがちゃんと仕事をしてたのかどうかもさ」

 見張りがまともに役目を果たしてくれていたら、ここまで接近を許すことはなかっただろう。まして、獅伯はせいぜいうつらうつらしていただけで、完全に寝入っていたわけではないからである。

 もし相手があの刺客であれば、五人の見張りにひと声もあげさせることなく、一瞬で始末することも可能かもしれない。だが、だとすると、今度はひそかに近づいてくる無数の足音の説明がつかなかった。

 いずれにしろ、声もかけずにここへ近づいてくる連中がいることに変わりはない。

「な、何ですか、獅伯さん……? まだ朝じゃないですよね?」

 ようやく起き出してきた文先生は、まだ完全には目が覚めていないらしい。続いて蘭芯の侍女たちも目を覚ましてきた。

「お嬢さま……?」

「あなたたち、静かに。よく判りませんけど、外の様子がおかしいそうです。ここは獅伯さまのご指示にしたがって――」

「えっ!?」

 蘭芯のその言葉に驚いて大きな声をあげたのは、よりによって文先生だった。

「ちょっ……ど、どういうことです、獅伯さん!? まさかあの刺客が来たってことですか!?」

「だからあんたは櫃の中にでも隠れてろっていったじゃん……!」

 うんざり顔で舌打ちした獅伯は、狼狽する文先生の袖を掴んで引っ張った。

 その直後、漆喰塗りの壁をつらぬいて槍の穂先が伸びてきた。

「ひっ!?」

 続いて主殿の扉が蹴破られ、剣や槍を手にした男たちが踏み込んできた。こちらの様子を外で窺っていた敵が、今の文先生の声で不意討ちはできないと察し、力押しに切り替えてきたのだろう。

「いいか! 大人の娘と書生は生かして捕えろ!」

「小僧は殺してもかまわん!」

「こいつら――!?」

 獅伯は落ちていた衣を剣の切っ先で引っ掛け、突っ込んでくる男たちの目の前に放り投げた。

「お嬢さんはおれの後ろへ! 先生と侍女の子たちは――勝手に逃げろ!」

「そっ、そんな……!」

 文先生は情けない声をあげたが、さっきの男たちのやり取りから察するに、狙いは蘭芯と文先生で、それを邪魔する獅伯は最初から生かしておくつもりはないようだった。つまり、抵抗さえしなければ、文先生も侍女たちも殺される可能性は低い。

「悪いな、先生。あんたを守れとは頼まれてないんだ」

 この主殿はそれなりに広いとはいえ、斬った張ったの修羅場を繰り広げるのに充分とはいえない。何より、蘭芯を守りながら戦う獅伯にしてみれば、囲まれやすい屋内での戦いは圧倒的に不利だった。

「この餓鬼がっ……ぐぶっ?」

 衣を引きむしって斬りかかってきた男を前蹴りで追い払い、獅伯は背後の壁に剣を走らせた。ちらりと一瞥すると、文先生ははなから逆らうつもりもないのか、侍女たちと抱き合い、その場にへたり込んでいる。あれなら命までは取られないだろう。

 それを確認した獅伯は、みずからの剣で壁に四角く開けた穴から外へ飛び出した。

「獅伯さま! 文先生や白蓉はくようたちは――!」

「迂闊に逃げようとしなきゃ、たぶん殺されはしないよ。あいつらの一番の狙いはあんたみたいだからさ」

 こんな時にも先生たちの心配をする蘭芯の人のよさに苦笑しながら、獅伯は小雨が降る中を竹林に逃げ込んだ。

「あ、あれはいったい、何者たちなのでしょう……?」

「さあね。賊は賊だろうけどさ」

 敵の正体は獅伯にも判らない。例の刺客ではないようだが、この際、それは何のなぐさめにもなりそうになかった。

「さて、どうしたもんかな……」

 山門前までたどり着き、馬を手に入れることができれば、何とか逃げきることはできるだろう。ただ、見張りが何のはたらきも見せなかったということは、すでに彼らも殺されているか、あるいは――。

「……あれ?」

 早くも息切れを起こした蘭芯のために、足を止めてひと息ついた獅伯は、目を細めて自分の足元をじっと凝視した。

「……山門前の見張りがあっという間に倒されたとしても、じゃあ、残りの用心棒は何してたんだ? おれたちが休んでた北側の主殿に踏み込むには、まず北側の主殿を通り抜けなきゃならないわけで――」

「し、獅伯さま……?」

 獅伯にすがるようにして息を整えている蘭芯を見下ろし、獅伯は小さくかぶりを振った。獅伯が迷っていては、蘭芯の不安が大きくなる。

「何でもないよ。……いざとなったらあんたをかついででも山を下りてやるから安心しなって」

「それはさすがに……」

「ま、それは最後の手段だけど――」

 獅伯はざっと顔をぬぐうと、かたわらに生えていたまだ細い竹に剣をすべらせた。

「捜せ! まだ遠くには行っちゃいねえはずだ!」

 獅伯たちを追う男たちの声が雨音の向こうから聞こえてくる。獅伯はその声を頼りに、鋭利な切り口を持つ竹を投げつけた。

「ぐっ」

 低い呻き声に続いて、男たちが急に足を止めた気配が伝わってきた。闇の向こうから飛んでくる竹槍を恐れたのだろう。

 その間に、獅伯は蘭芯を連れてまた少し移動した。とにかく、こちらの居場所を把握され、取り囲まれるのだけは避けなければならない。ときおり雷がとどろく雨の夜が、今だけは数の少ない獅伯たちの味方をしてくれていた。

「……この隙に、どうにかうまく回り込んで山門までたどり着ければいいんだけどな」

 そう呟きながらも、獅伯はそれがはかない望みだということに気づいていた。見張りがいたはずの山門をやすやすと突破され、残りの用心棒たちが何の抵抗もしていない理由を察したからである。

「お嬢さん」

 竹藪にしゃがみ込み、獅伯は低い声でいった。

「――確証はないんだけどさ、たぶんだけど、大人が雇った用心棒たちの中に裏切り者がいたんじゃないかと思う」

「えっ!?」

 自分で発した声の大きさに、蘭芯は慌てて口もとを押さえた。

「あいつら、用心棒たちがいたはずの南の主殿は素通りして、おれたちが休んでた北側の主殿にいきなり踏み込んできたしね。はなからお嬢さんがどこにいるか知ってたみたいだし、そもそも用心棒たちと鉢合わせて斬り合いになってなかったってことは、つまりは……用心棒たちの中に交じってた裏切り者が、邪魔な連中をあっさり黙らせたってことじゃないかな」

「そ、そんな……!」

「もしくは、連れてきた用心棒が全員裏切ったって最悪の可能性もあるけど――まあ、いまさらどっちでもいいんだけどね、そんなこと」

 一行が運ぶ財貨に目がくらみ、よからぬことを考える用心棒が出ることは獅伯も予想していた。しかし、ここまでまとまった数が手を組んで、しかも揃って賊に寝返るとはさすがに想定していなかった。

「とりあえず、まずは数を減らさないと」

 うんざり顔で立ち上がり、獅伯は蘭芯にいった。

「――お嬢さんはここでじっとしててくれる? しゃがんで黙ってればそうそう見つからないから」

「し、獅伯さまはどうなさるのです?」

「あんたを連れて馬のいるところまで行くには、まずはそれなりに敵の数を減らさないと難しいんだよ」

 蘭芯を守りながら逃げ切るには、今はまだ敵の数が多すぎる。そのためにひとりで行動しようと考えた獅伯は、ふと思いついて、

「……おれがひとりで逃げ出すとか心配してる?」

「いえ」

 意外にしっかりした声で、蘭芯は即座に答えた。

「そう思ってもらえるのはありがたいね。……じゃ、ちょっと行ってくる」

 最後のひと口を残して瓢箪の酒をあおり、獅伯は走り出した。

 蘭芯という足枷なく自由に動けるのであれば、獅伯にとって数の差は特に問題にはならない。ましてこの竹林の中では、細かく素早く動けるほうが圧倒的に有利――つまり獅伯の独壇場だった。

「! てめ――っつお!?」

 いきなり出くわした男のみぞおちに、下から上へと、小さな動きで剣を突き込む。逆に男が手にしていた剣は、獅伯の首をはねようとしていたのか、振りかぶる途中で近くの竹にめり込み、止まっている。

「こいつは――賊か」

 一行に加わっていた用心棒たちは、大人があつらえさせたそれなりに仕立てのいい服を着ていた。それとくらべると、獅伯の目の前で血を吐いて倒れた男の服は薄汚れていて、素封家の屋敷に出入りできるようなものではない。

「こっちだ! 小僧がいたぞ!」

 獅伯に気づいた誰かが声をあげた。

「わざわざ悪いね」

 その声に引き寄せられた男たちを、獅伯は次々にひと刺しふた刺ししていった。こうした多数との戦いでは、いちいち相手にとどめを刺していくより、手傷を負わせて戦意を削ぐだけに留めておくほうが、手間もかからず効率がいい。酒飲みの師匠の教えのひとつだった。

「ぐっ……う」

「つ……!」

 苦しげに呻く男たちをその場に放置し、獅伯はすぐに移動した。ひとつところにとどまり続けていては、いずれ囲まれてしまいかねないからである。

 そうやって一〇人ほどに手傷を負わせた獅伯は、切っ先についた血をぬぐい、蘭芯のところへ戻った。

「――お嬢さん? 大丈夫か?」

「獅伯さま……?」

 いいつけ通り藪の中に身をひそめていた蘭芯は、低く抑えた獅伯の呼びかけにひょこっと顔を出し、安心したように溜息をついた。

「ご無事だったのですね……」

「そりゃまあおれってけっこう強いからさあ」

 蘭芯をはげますためというより、獅伯は本気でそう思っている。実際、師匠のもとから旅立って以降、誰かと戦って負けたことはまだ一度もない。

「かなり引っ掻き回してやったから、今なら行けるかもしれない」

「ひ、引っ掻き回す……?」

「ぐちゃっとね」

 蘭芯の手を引き、獅伯は姿勢を低くして足早に歩き出した。まだ雨は降りやまない。まだ息が荒いままの蘭芯に、もっと速く走れというのは酷だろう。

 しとしと降り続ける雨音に交じって、竹林のあちこちから男たちの苦痛の呻きが聞こえてくる。それを耳にするたびに、獅伯の手に蘭芯の震えが伝わってきた。

「し、獅伯さま……あれはいったい……?」

「何か悪いモンでも食ったヤツが唸ってるんでしょ? ま、気にする必要ないよ」

 蘭芯にとって、血だらけで悶える男たちを見ずにすんだのは運がよかったかもしれない。獅伯は闇の向こうから不意に飛び出してくる敵に警戒しながら、蘭芯の先に立って竹林の中を歩いていった。

「……?」

 ふと、笹の葉を踏む不規則な足音が聞こえてきた。獅伯は足を止め、蘭芯に少し下がっているよう身振りで指示すると、雨に濡れた手を大雑把にぬぐい、剣を持ち直した。

「お、お嬢さま……林さま……? どちらにいらっしゃいますか……?」

 足音に続いて聞こえてきたのは、耳に覚えのある声だった。

「……史春ししゅん? 獅伯さま、あれは史春の声です!」

 獅伯より先に蘭芯のほうが声の主に気づき、明るい声をあげた。

「無事だったのね、史春!」

「お嬢さま……? そちらにいらっしゃるのですか?」

「え、ええ! 獅伯さまもごいっしょです!」

「あ、おい――」

 獅伯が止める間もなく、蘭芯は史春の声のするほうへと歩き出していた。彼女からしてみれば、屋敷から連れてきた者が生きていてくれたことが嬉しいのかもしれない。だが、獅伯はそこに何ともいえない不安を覚えていた。

「おい、お嬢さん! ちょっと待て――」

 慌てて蘭芯の手を掴んで引き戻そうとした獅伯は、闇の中から何かが風を切って飛んでくるかすかな音に気づいた。

「――――」

 咄嗟に蘭芯をしゃがませた獅伯の鎖骨のあたりに、熱い痛みが走った。

「林さまなら、きっとお嬢さまをかばってくださると思っておりましたよ。でなければ、お嬢さまを傷物にしてしまうところでした」

「……は?」

 左の鎖骨のあたりにめり込んだ飛刀を一瞥した獅伯は、柳葉刀りゅうようとうを手にして現れた史春に気づいて眉間のしわを深くした。

「あんた……何してんの?」

「申し訳ございません、林さま。こちらにもいささか事情がございまして――」

「し、史春、あなた、どうして……?」

万槐崗ばんかいこうのみなさんと利害の一致を見たと申しますか……世の中にはいろいろとあるのでございますよ」

 主人の娘にそう語った史春は、いつもながらの人のよさそうな笑みを浮かべていたが、それがうわべだけのものだということが獅伯には判った。

 獅伯は刺さった飛刀を引き抜き、史春の右足を一瞥した。

「……演技がうまいな。あんたのその足、ホントは悪くなかったわけか」

「まあそんなところです。ふだんは足首が動かないようにしっかりと縛っているだけですが、これが意外とばれませんで……何しろお屋敷には、腕の立つ用心棒のかたがたが多いものですから、こういう細工も必要だったのですよ」

「やれやれ……この次からは、足の不自由な人間をそういう疑いの目で見なきゃならないのかよ」

「この次などございませんよ」

 刃についた水滴を振り払い、史春は大股で獅伯に迫った。

「史春!? あなた、何を――」

「私の主人が……いや、私の師が、林さまの剣をご所望でして」

「何……!?」

 束の間、肩の痛みを忘れて史春は目を見開いた。

「正確にはご所望の剣かもしれない、という話なのですが……ともかく、師匠のもとへお届けしてみないことには――ねえ?」

「史春、やめて! やめなさい!」

「お嬢さまはそこでおとなしくしていてください」

「っ――」

 袖を掴んで止めようとする蘭芯のみぞおちに軽く掌底を入れて黙らせると、史春は獅伯に斬りかかった。

「用心棒や山賊どもでは、さすがに林さまの相手は務まらないようで……」

「……確かに、あんたのほうが歯応えがあるな」

 出鼻をくじかれて手傷を負ったということもあるが、獅伯は明らかに史春に押されている。史春の腕前はこれまで獅伯が倒してきた賊たちより一枚上手といっていい。

「ぐっ……!」

 両手で剣を握ろうとしたが、激痛のために左腕が上がらない。獅伯はどうにか右手一本で剣を振るい、史春の攻めをしのごうとした。

「今のうちにお聞きしておきたいのですが……林さまは、本当はどなたから剣を習ったのです? 門派は?」

「それがあんたに何の関係があるんだ?」

「私には関係ございませんが、まあ、一応」

「何だそれ?」

 腹立ちまぎれに吐き捨て、獅伯は史春の刀を押し返した。

 本当に腹が立つ。これまでずっと周りの人間をたばかってきた史春のやりように――ではない。蘭芯を傷つけかねないやり方で不意を突き、獅伯に手傷を負わせたことでもない。獅伯自身の甘さに腹が立つのである。

 もっと獅伯が慎重で注意深ければ、最初に会った時点で、史春がわざと足を引きずっていると見抜けたかもしれない。そうすれば史春の正体をいぶかしんだだろうし、警戒をおこたることもなかっただろう。結局、今のこの事態を招いたのは、獅伯の考えの甘さ、危機感の薄さだった。

 しかも、自分の甘さで自分だけが命を落とすなら自業自得と割り切れるが、蘭芯を守ると請け負っておいてのこの体たらくである。それが余計に自分に対する怒りを助長させていた。

「くそっ――」

 じりじりと自分が押されているのが判る。鎖骨からの出血はまだ続いていて、獅伯の衣を赤く染めつつあった。片手で剣を振るい続けることから来る疲労よりも、その出血こそが、獅伯の動きをいつもより重いものにしている。

「私も剣士のはしくれですし、お役目さえなければ、正々堂々と戦ってみたかった気もしますが……」

 史春が大きく振りかぶりながら、さらに深く踏み込んできた。史春の技量であれば、邪魔な竹を切り飛ばしつつ、満足に左腕が動かない獅伯の首すら一撃で落とせるかもしれない。

「!」

 右腕一本では史春の斬撃を受け止められないと即座に判断した獅伯は、左の手首から先を上に向けると、指弾を撃つ要領で指先にまでしたたった血のしずくを飛ばした。

「――!?」

 目を狙った鮮血の弾丸に、史春が素早く反応して身を反らした。

「ぬ、抜け目のない……!」

 わずかに史春の踏み込みを甘くさせることで、獅伯は今の一撃に剣を飛ばされることもなく、急所からその刃を逸らすことができた。が、それで完全にいきおいを殺せたわけではない。頸動脈のあたりに吸い込まれるはずだった柳葉刀は、獅伯の剣にはじかれて軌道を変え、獅伯の胸に浅い傷を刻んで駆け抜けていった。

「いっ……てえ――」

 あらたな出血に、一瞬、獅伯の気が遠くなる。足元がふらつき、どうにか身体をささえるために太い竹に寄りかかろうとしたが、獅伯の背後にはもう何もなかった。

「……え?」

 自分でも気づかないうちに絶壁の縁まで追い詰められていた獅伯は、そのまま足をすべらせ、闇の底へと仰向けに落ちていった。

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