第四章 武昌へ ~第二節~
☆
何とか薄曇りで踏みとどまっていた空が泣き始めたのは、一行が
曇天からしとしとと降り続ける霖雨の中、用心棒たちは笠をかぶり、しっかりと手綱を取ってぬかるむ道を進んでいく。勾配はゆるやかとはいえ、峠越えの道は幅もせまく、無理に先を急げば切り立った斜面を転げ落ちるはめにもなりかねない。
「このぶんでは、日暮れまでに峠を越えるのは無理そうですね。こうしてただ馬車に揺られているだけの私が、馬の歩みの遅さに文句をつけるのは筋違いでしょうが……」
窓から灰色の風景を一瞥し、
馬車の中では特にやることもないから、おのずとこの道中では、博学な文先生があれこれと
ただ、そのせいで、文先生は少ししゃべり疲れているのかもしれない。
「さっきの酒家で一杯やれればよかったんだけどねえ」
「店が開いてなかったんだから仕方ありませんよ」
獅伯の言葉に、文先生はふたたび溜息をついて肩を落とした。
「…………」
いったい何を考えているのか、蘭芯は無言のまま、雨にけぶる山の稜線をじっと見つめている。冷ややかな風とともに吹き込む雨粒が顔を濡らしても、まるで気にしていないようだった。
「お嬢さま、このままではお風邪を召します」
ただひとりついてきている侍女が、ぼーっとしている娘の袖を引いた。
「そうですね、そちら側は雨が吹き込んできますから、えー……」
「あんた今、おれと場所を変わればいいっていおうとしたろ?」
「え? いやぁ、私は別に……」
「申し訳ありません」
馬車の手綱を取っていた
「――雨足も弱まる気配がありませんし、日没までにはまだ間がありますが、きょうはもう休むことにしましょう」
「いいんですか、史春さん?」
「そのぶん、あしたの出立を早めにすれば仔細ないと思います。たとえ到着が遅れるとしても、無事にたどり着くことのほうが大切ですから」
「早めに休むのはいいけど、こんなところに宿なんてある? きのうは都合よく近くの村で泊めてもらえたけどさあ」
麓ならともかく、この山中に手頃な民家があるとは思えない。泊まれる場所を捜すより、熊や虎の
「この峠をもう少し登ったところに小さな山寺がございまして、そこで軒先をお借りできればと思っているんですが……」
「ああ、あてがないわけじゃないのか。まあ、おれは野宿でもぜんぜんかまわないんだけどさ」
「いや、私たち男はともかく、蘭芯さんや侍女のみなさんにそれは……」
「判ってるって」
大きく嘆息した獅伯は、ふと眉をひそめて馬車から身を乗り出した。
「どうしました、獅伯さん?」
「今ちょっと思っちゃったんだよね。もしおれが山賊なら、このへんで襲撃するかな~って」
ぬかるんだ峠道の右手は人が登るには厳しい岩がちの山肌になっていて、左側はこれも人が駆け下りることのできそうにない斜面、そして二台の馬車がすれ違えないほどに道幅がせまい。馬車の前後を用心棒たちが守っているとはいえ、それを上回る数の手勢で挟撃されれば、こちらに勝ち目はない。
「ぶっ、物騒なこといわないでくださいよ、獅伯さん! 蘭芯さんが怖がるじゃないですか!」
「怖がってるのはあんただろ?」
獅伯は雨に濡れた顔をぬぐい、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……まあ、もし本当にそんなことになったら、おれはお嬢さんだけかかえてさっさと逃げるし、あんたが心配する必要はないって」
「わ、私はどうなるんですか!」
「大丈夫だよ。山賊なんてのはさ、金目のものを置いて逃げればそれしか見えなくなるもんなんだよ。わざわざ貧乏書生を追いかけてきたりしないって」
実際、山賊たちがこの一行を狙うとすれば、一番の獲物は馬車に積んである財貨であり、二番目は美しい蘭芯だろう。よほどのことがなければ、逃げる文先生を追いかけたりはしない。
それよりも警戒すべきなのは、蘭芯をかかえて逃げる獅伯さえ平然と追いかけてきそうなあの刺客の男である。前回は向こうが退いてくれたが、今回もそうなるとはかぎらないし、それに蘭芯をかばいながら戦うことになれば、さすがに分が悪い。
「ああ、見えてきましたよ」
史春の声に、獅伯はふたたび身を乗り出した。
ぬかるんだ峠道が少し行ったところで二手に分かれていて、山の斜面に張りつくようにして、ほとんど崩れかけの石段が頂上のほうへ伸びている。石段のところに基礎だけ残っているのは山門の残骸なのかもしれない。
さらに勾配のきつい石段を見上げ、獅伯は眉間にしわを寄せた。
「……これ、馬も馬車もぜ~ったい上がれないと思うんだけど?」
「ここにつないでおくしかないですね。……どのみち、誰かに夜通し見張りに立ってもらわなければなりませんし、盗まれることはないでしょう」
馬車を停め、史春が苦笑交じりにうなずく。
「でもさ、ここホントに住んでる人いるわけ~?」
馬車を下りて傘をさした獅伯は、石段を登りながら疑わしげなまなざしを上へ向けた。石組の隙間からは雑草が生え、ところどころ崩れかけている。かなり長い間、ろくな手入れをされていないようだった。
「ふつう、人がふだんから上ったり下りたりしてたらこんなに雑草生えなくない?」
「いわれてみれば……」
史春と用心棒たちは、馬車に積んであった
「お嬢さま、足元に気をつけてください」
侍女の手を借りて石段を登る蘭芯を見ていた獅伯は、ひと足先に登っていった文先生の落胆の声を聞いて視線を転じた。
「あー……」
「どした、先生?」
「いや、これはちょっと……」
「……へえ」
石段を登りきった獅伯は、文先生のいわんとするところを察して小さく笑った。
史春がきょうの宿にしたいといっていた山寺は、明らかに廃墟になりかけていた。すでに住人がいなくなって長いようで、南北の
「……考えてみれば、ご近所に賊の多い山寺で修業したがる坊さんはいないよなあ」
多少の雨漏りはあるものの、奥のほうの主殿はまだそこまで壊れてはいない。雨風をしのいでひと晩すごすくらいなら何とかなるだろう。獅伯がそう告げると、史春はしばらく考え込んだあと、
「……仕方ありませんね。では、お嬢さまと侍女たちには、奥の主殿の雨漏りがしていないところで休んでいただいて――」
「用心棒のみなさんには手前の主殿で我慢してもらうしかないけど、おれ、それ伝えるの嫌だからね?」
「林さまにそのようなことまでお願いするつもりはございませんよ」
雨に濡れた顔をぬぐい、史春はまた苦笑した。気性の荒い用心棒たちに、雨漏りのひどい場所で夜を明かせと告げるのは、いかに金を払って雇っている側でもためらわれるものがあるだろう。
史春は侍女たちに主殿を軽く掃除するよう命じると、右足を引きずって用心棒たちのほうへと歩いていった。
「――なあ先生」
蘭芯とふたり、主殿の掃除がすむまで軒先に立ってぼんやりしていた文先生に、獅伯は瓢箪を勧めながら尋ねた。
「この先の道中もこんな調子なのか? つまり、こんな道ばっかりなのかってことだけど」
「いえ、さすがに峠越えが何度も続くということはありませんよ」
瓢箪の酒をひと口あおった文先生は、軽く身震いして首を振った。
「――大きな街道を避けていくことには変わりませんけど、この峠さえ越えてしまえば、あとは特に難所はありません。川を渡るのにも橋がある場所を選ぶ予定だと聞いていますし……」
「そうか」
「何です? 何か気になることでも?」
呟きにも似た獅伯の相槌に、文先生が怪訝そうに聞き返す。隣の蘭芯も、やはり不安そうな表情で獅伯を見ていた。
「さっきもいったけど、このへんの幅のない峠道じゃ、前後を押さえられたらそれでもう逃げ道がなくなるだろ? 頭数の多い賊たちはもちろんだけど、例の剣士だって、やろうと思えば道をふさぐくらいの手はいくらでもある」
「確かにそうですね」
「ってことは、まず最初の山場はこの峠を無事に越えられるかどうかだ」
「そもそも大丈夫なんですかね、ここで夜を明かすとか……」
軒先から絶えずしたたり落ちる雨粒を見上げ、文先生はふたたび瓢箪に口をつけようとした。が、それを横からひょいと奪い返し、獅伯がいう。
「賊が襲ってくるぶんにはまあ大丈夫だと思うけどね」
山門の前には一行が乗ってきた馬と馬車が置いてある。そこに夜通し交代で見張りを立てるでのあれば、たとえ賊が押し寄せてきてもすぐにそれと判るだろう。
「それに、きょうみたいに雨が降ってぬちゃぬちゃぬかるんだ斜面を、得物を持って手がふさがったままで登ってくるのはけっこう大変だからね。そうなると、賊だってあの石段を通ってここまで上がってこなきゃならない」
「ははぁ……つまり石段の上で獅伯さんが守っていれば、賊たちもなかなか攻め込めないというわけですね?」
「守りやすいのは事実だね。……ただ、夜襲をかけてくるのがあの剣士となると、少し厄介だけどさ」
たとえば獅伯なら、ふつうなら登りにくいはずのぬかるんだ斜面を、雨音と夜陰にまぎれてひそかに登ってくることもできる。同じような芸当があの剣士にできないと考えるのは危険だった。
こめかみのあたりに走る断続的な疼痛をごまかすため、酒をひと口含んで飲み下した獅伯は、蘭芯が親指の爪を噛むようにして、じっとうつむいていることに気づいた。
「どうかした、お嬢さん?」
「あ、いえ……あの、剣士のことなのですが」
そう答えてから、蘭芯が次の言葉を絞り出すまでに、かなりの間が開いた。
「……あの人は、なぜ父をつけ狙うのでしょう?」
「そうですねえ……大人は心当たりがないとおっしゃってましたが」
「いや、だからあれは逆に心当たりが多すぎるって意味じゃん?」
「もちろん私もそう思いますが……これは前にもいいいましたけど、あの剣士の執念には尋常ならざるものがあるように見受けられます。つまりあの剣士は誰かに雇われたわけではなくて、彼自身に、何かしら大人との間に因縁があるのではないかと私には思えるんですよ」
「……あるな、それ」
文先生の推測に獅伯はうなずいた。
「商売人の大人が、あれだけの剣士から恨みを買うような理由……か」
たとえばこれが、かつて大人があの剣士に追い剥ぎに遭ったために、今も剣士に対して深い恨みを抱き続けている――というような話ならまだ判る。しかし、逆に剣士のほうが大人を恨み続けるとなると、その理由がすぐには思い浮かばない。
「あ! 例えばですね、あの剣士が大切にしていた先祖伝来の宝剣みたいなものを、大人が借金の形に持っていってしまった――とか、そういうのはどうでしょう?」
はっと手を打ち、文先生がいった。
「……ないな、それ」
「え!? 駄目ですか?」
「だってさ、もしホントにそんな理由で恨まれてるなら、大人だってさっさと剣を返すだろ。いくら高価なものだろうと、剣一本で自分の命があやうくなるんじゃ割に合わないじゃん。利にさとい大人にそれが判らないはずもないしさ」
「……そうでした。大人が本当にあの剣士の恨みを買っているのだとすれば、少なくともその原因は、金銭では解決できないことですよね」
「たぶんね」
男たちは瓢箪の酒を交互に回し飲みしながら、やむ気配のない雨の音を聞き続けていた。
一方、少女はじっとうつむき、目の前の水溜まりにできる無数の波紋を無言で見つめていた。
☆
日中よりも雨足はやや弱くなっている。が、代わりに雷が鳴り始めていた。
空が鳴る音にしろ雨音にしろ、夜陰に乗じて忍ぶ上では悪くない。ことに、出し抜かなければならない相手が腕の立つ剣士であれば、自分の気配や足音をごまかしてくれる雷鳴は歓迎すべきものだった。
「…………」
粗末な笠で雨をしのぎつつ、
数日前、嘉生が何度か立ち寄ったことのある酒家に、胡乱な男たちが集まっていた。酒を飲みながら物騒なことを話し合っていたようだったので、男たちが帰っていったあと、酒家の亭主を締め上げて詳しく聞き出したところ、男たちは
それを知った嘉生は逡巡した。
一度に二〇人からの用心棒が屋敷を離れるのであれば、劉大人を斬るまたとない好機といえる。無論、屋敷にはまだ用心棒たちが残っているだろうが、それでも、あの若い剣士が一行とともに出かけているというのは大きい。
しかし、嘉生は屋敷に向かうことなく、こうして一行のあとをひそかに追いかけるほうを選んだ。それは、劉大人に対する復讐よりも優先しなければならないことだったのである。
嘉生が身をひそめているのは、武昌へ向かう一行が一夜の宿とした荒れ寺のある、小高い峰の斜面に立つ古い松の木の上だった。山門前で馬の番をしていた用心棒たちは、嘉生が木の枝から枝へと飛び移ってここまで来たことに気づいていない。あの程度の腕前なら、二〇人が四〇人だったとしてもさほどの脅威にはなるまい。
嘉生のような芸当ができないのであれば、この上にある荒れ寺へ向かうには、細く長い石段を登っていくしかない。寺の北側にはちょっとした竹林があるようだが、その裏手は切り立った絶壁になっていた。ほかに逃げ道がない反面、石段さえ押さえておけば守るに堅い地形といえる。
素人でもすぐにそれと判るはずなのに、なぜ賊たちが一行を襲撃するのにあえてここを選んだのか、嘉生にはよく判らない。そうした不利をないものにできるほどの大所帯で攻め寄せるつもりなのかもしれないが、いずれにしても、そのへんは嘉生にはどうでもいいことだった。
嘉生にとって重要なのは、一行の用心棒たちと賊どもとが激突し、場が混乱してくれることだった。そのほうが漁夫の利を得やすいからである。
「……?」
かすかに身震いし、小さく咳き込んでいた嘉生は、わずかに笠を押し上げて目を凝らした。
誰かが石段を上がってくる。見張りの交代のために、山門前の用心棒たちが上がってきたのかと思ったが、嘉生のその読みははずれた。
「どういうことだ……?」
石段を上がってくるのはひとりふたりではなかった。抜き身の剣や刀を手にした男たちが、ぞろぞろと列をなして石段を上がっていく。月も星もないこの闇夜では、その数ははっきりとは判らないが、少なめに見積もっても二〇人以上はいるだろう。
「まさか――?」
武昌へ向かう一行の用心棒たちが、すべて合わせても二〇人ほどである。そこから考えても見張り役の人数はせいぜい四、五人――だとすれば、石段を上がってきたこの集団が見張りであるはずがない。
しかし、この男たちが万槐崗の賊だと考えれば納得がいく。肝心の見張りがまったく騒がなかったことは気になるが、現にこうして荒れ寺に向かっている以上、男たちは賊なのだと考えるほうが自然だった。
嘉生はいったん男たちをやりすごすと、背中の剣の柄に右手を添え、枝から枝へと器用に跳躍した。
おそらく石段を登りきったところにも見張りはいるだろう。あれだけの人数で正面から登っていけば、じきに見つかって今度こそ騒ぎになるに違いない。そして、そこから両陣営が入り乱れる戦いが始まる。
嘉生の勝機はその混戦の中にこそある――それを求めれさらに跳躍しようとした瞬間、嘉生は胸の奥から込み上げてきた熱いものを激しい咳とともに吐き出し、枝を踏みはずして泥の上に転がった。
「ぐっ……ぶふ、ぅ……」
思わず口もとを押さえた手が、泥ではないものにぬめっていた。
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