第四章 武昌へ ~第一節~

 まだ薄暗い早朝、りゅう大人の屋敷の門前には、棕櫚しゅろの屋根がついた真新しい馬車が二台と十数頭の馬、それに腰に剣を帯びた男たちが集まり、旅立ちの準備に追われていた。

「おっ、お待たせいたしました!」

 さすがにあれだけいわれていたせいか、あるいは屋敷の誰かが起こしてくれたのか、何だかんだで前日の夜も酒に飲まれていたぶん先生は、出立の時間までにはどうにか身支度をすませて獅伯しはくたちの前に現れた。

「……おい」

「いや、獅伯さんのおっしゃりたいことはよく判っているのです、これでも!」

 不機嫌そうな獅伯の顔を見るなり、文先生は先手を打ってきた。

「――ですが、人にはどうしても体調のすぐれない日というのもあるのですよ。私の場合、ちょうどそれがきょうだったということで」

「いいわけはいいからさっさと乗りなよ」

「いたっ!?」

 月瑛げつえいに尻を軽く蹴飛ばされ、文先生は慌てて馬車に乗り込んだ。

 武昌ぶしょうに向かう蘭芯らんしんたちの一行は、二台の馬車と馬に乗った用心棒一八騎を数えるなかなかの大所帯だった。鄂州がくしゅうの知事に届けなければならない財貨と蘭芯を守るためには必要な備えだが、逆に目ざとい賊たちの注意を惹いてしまう可能性もなくはない。

 獅伯は剣を背負って嘆息した。

「この街の近くには山賊がいるんでしょ? だったらさっさと出発してその縄張りから出たほうがいい」

「そうですな。……りんどの、蘭芯のこと、くれぐれもお願いいたしますぞ?」

「ま、最悪の場合、お嬢さんだけでも馬に乗せて逃げ帰ってくるつもりだよ」

「え!? ちょ、ちょっと、獅伯さん? それはひどくありませんか!? 私はどうなるんでぐすっ!?」

「いいから静かにしてなよ、あんたは」

 獅伯のやる気のなさそうな言葉を聞きつけ、文先生が後ろの馬車の窓から顔を覗かせたが、月瑛に小突かれてすぐにおとなしくなった。

「それでは旦那さま、行ってまいります」

 史春ししゅんが大人にあいさつして軽く手を振ると、馬車の前後に用心棒たちを配した一行がゆっくりと移動を始めた。史春が手綱を取る一台目の馬車には、獅白と文先生、それに蘭芯と侍女がひとり乗っている。残りの侍女たちは、知州への贈り物といっしょに二台目の馬車の客となっていた。

「……あんた、いいのか?」

 父親にろくに顔も見せない蘭芯に、獅伯は小声で尋ねた。

「別に永の別れというわけでもありませんし」

 言葉少なに答えた乱心の顔は少しこわばっている。父に顔を見せなかったことに何か深い理由があるような気がしたが、獅伯はそれ以上は尋ねなかった。

 夜が明けきる前のこの刻限でも、すでに外に出てはたらき始めている者がいないわけではない。獲れたばかりの魚を運河伝いに運んできた漁師たちや朝市の準備に忙しい商人たち、それに近隣から集まってきた農夫たち――。

 しかしさいわいなことに、彼らは自分のすべきことに忙しく、取り立ててこの一行に注意を向けている様子はなかった。

「……まあ、ここで目立たずに出立できても、すぐに界隈の山賊たちに嗅ぎつけられちゃうんだろうけどさ」

「怖いことをいわないでくださいよ、獅伯さん」

 文先生が心底嫌そうに眉をひそめる。むしろ蘭芯よりも文先生のほうが賊の影に怯えているようだった。

「そんなに怖いなら屋敷に残ってもいいんだけど? ……てか、そもそもあんたが自分からついていくっていい出したんじゃん?」

「それはそうですが……」

 別に文先生を脅かすつもりはないが、武昌へ向かう上では避けられることではない。獅伯は劉大人から預かった地図を取り出して広げ、文先生に尋ねた。

「今回は前回とは別の道を通るって聞いたけど、前はどのへんで襲われたんだ?」

「そうですね……たぶん、このあたりではないかと」

 川沿いの道を文先生が指ししめす。

「それで今回は、わざわざ山越えてく道を選んだわけか……」

 それなりに人手の多い山賊たちが相手では、どちらの道を選んだところで、じきにこちらの動きは掴まれてしまうだろう。ただ、たったひとりで大人をつけ狙っている刺客になら、今度の旅程はまだ知られていないかもしれない。

「あの刺客の目はごまかせても、賊に見つかってしまってはあまり意味がないのではありませんか?」

「どっちにしても先生は馬車の中で震えてるだけだろ? あんたにまで戦えとはいわないから安心しなって」

「ですが――」

「おれからしたら、例の刺客よりは山賊たちのほうがよっぽどましなんだよね」

「そ、そういうものですか?」

「山賊とか江賊ってさ、要は金目のものを奪って面白おかしく暮らしたいって連中なわけじゃん? つまり、そいつらにとって一番大事なのは自分の命なんだよ。だから、命が危ないって思ったらさっさと逃げ出す。……けど、あの刺客はそういう手合いじゃないからさ」

「た、確かにあの男からは、大人に対するなみなみならぬ復讐心というか、執念を感じましたが……」

「だろ? ふつうの損得勘定で動かないぶん、ああいう男は厄介なんだよ」

 相手が――このいい方も妙な話だが――まっとうな山賊であれば、たとえ道中で襲われたとしても、獅伯が二、三人ほど斬って捨てれば、残りの連中は恐れをなして退いていくだろう。少なくとも、襲撃してきた全員を倒すまで戦わなければならないようなことにはなるまい。

 が、あの刺客の目的が大人への復讐であれば、それを果たすためならおそらく自分の命すらかえりみないだろう。金品目当ての山賊と違って、命惜しさに退いてくれるとはかぎらない。

「ですが、もしあの刺客に協力者がいないのであれば、たったひとりでそこまで広く網を張っていられるとは思えませんし、今回はうまく裏をかいて武昌にたどり着けるかもしれませんね」

 警戒すべきは山賊だけ――まるで自分自身を安堵させるかのように、文先生は何度もうなずきながら呟いている。無言でじっとふたりの話に聞き入っていた蘭芯も、どこかほっとした様子だった。

 だが、獅伯は彼らほど楽観的に構えていたわけではない。たとえあの刺客にひとりの協力者もいなかったとしても、一行の動きを迅速に把握する手段がないわけではないからである。

「……そうなった時がホントに危ないんだけどな。出先だし」

「はい? 何です、獅伯さん? 何かいいました?」

「いや、別に」

 ひとまず初日のきょうは、さほど警戒する必要もないだろう。気をつけるべきは、この先に待つ峠越え――何かあっても逃げ出しにくい、助けを呼びにくい場所での襲撃だった。


          ☆


 その日、李宜泉りぎせんはいつもより早めに店を閉めた。もともと客は少なかったし、最近は山賊たちの跳梁を恐れてか、日が少し西に傾けば、もうこの峠を越えようとする者はほとんどいない。たとえやってくる客がいるとしても、それこそ例の一杯しか飲まない陰気な男くらいだろう。

 あの客がまたやってくる前に急いで店を閉めた宜泉は、明かりが外にもれないように念入りに戸締りをすると、なかなか客には出さない上等な酒を甕ごと運んできた。

「――それでお頭、その獲物は本当にこの峠を通るので?」

「ああ、間違いねえ」

 椅子にふんぞり返った万槐崗ばんかいこう一党の頭目、楊乾徳ようけんとくは、宜泉につがせた酒を一気にあおり、気分よさげにうなずいた。

「ここをもう少し登ってったところに、もう誰も住んでねえ荒れ寺があるだろう? 何ごともなけりゃ、連中はあすの日暮れにゃそこで休むことになってる。ついさっき、俺らも実際にそこを見て回ってきたところでな」

「そ、そこまでもう掴めてるんで?」

「まあ、いろいろと伝手があるんだよ」

 あらたな大仕事の打ち合わせのため、この酒家に人目を忍んでやってきたのは、乾徳と彼が恃みとする腕っ節の強い男たちだった。ここで情報集めや獲物を捜しているだけの宜泉は、万槐崗一党の中では下っ端も下っ端、こういう時でなければじかに乾徳と言葉を交わす機会すらない。

「……とにかく、俺らは前もって先回りしといて、その寝込みを襲う。金目のモンを相当かかえ込んでる一行だから、腕利きの用心棒もついてるらしいが、そっちも問題ねえ。そのための手も打ってあるしな」

「な、なるほど……」

 山賊の一味とはいえ、小男の宜泉は荒っぽいことにはまるで無縁で、だから実際にどこかに押し込んだりする際に駆り出されることはないし、仕事について詳しく聞かされることもまずない。この時も、それ以上の詳しい話を聞こうとは思わなかった。

 乾徳はさらに数杯、酒をあおったあと、宜泉にいった。

「この仕事は絶対にしくじれねェ。宜泉、おめえは獲物がここを通りすぎたあと、余計な連中が峠を登ってこねえように目を光らせとけ。もし誰かが峠越えをしようとしたら、店に引っ張り込んで一服盛って眠らせろ」

「へ、へい……」

 懐のあたたかそうな旅人に一服盛って身ぐるみ剥ぐくらいのことなら、宜泉もこれまでに何度もやったことがある。だが、今回のように大掛かりな仕事の片棒をかつぐのは初めてだった。その緊張のせいで、てのひらにじっとりと汗がにじんでくる。

「――そういえば」

 健徳の隣で酒を飲んでいた男が、顎の傷を指先で撫でつつ、宜泉に尋ねた。

「例の妙な客、一杯飲んで帰るだけの陰気な野郎だがよ、あいつ最近はどうしてる?」

「ああ……あの客なら、先日、旦那がここへいらした日以来、顔を見せてませんや。ですが、あいつが何か?」

「いや、何でもない」

 男はちらりと乾徳を一瞥し、意味ありげにうなずいた。

 そのあと、乾徳たちはすべての甕が空になるまで酒を飲み、翌日の仕込みのために用意してあった肉もすべて食い尽くしてから、万槐崗へ引き上げていった。

「やれやれ……」

 ひとりになった宜泉は、あらためて店内の片づけにかかった。

 万槐崗の一員とはいえ、危ない橋を渡ることのない宜泉は、さほどの分け前をもらっているわけではない。こうして乾徳の金で用意した酒家を任せてもらっていることもあり、ここでの稼ぎが宜泉の取り分ということになっている。

 しかし、今夜のように万槐崗の兄貴分たちがやってきてさんざん飲み食いしても、飲み代を置いていってくれることはまずなかった。要するに、身内に飲ませれば飲ませるほど、宜泉の懐は厳しくなるのである。

「ったく、これならふつうにはたらいたほうがよっぽど暮らしが楽になりそうな気がするぜ。……といって、いまさら手を切るってのも難しいしなあ」

 乾徳や兄貴分たちに対する不満がぼやきとなって口からこぼれ出てくる。宜泉は汚れた皿や酒器を洗うため、店を出て裏手の井戸に向かった。

 その時、背後で誰かが小さく咳き込むのが聞こえた。

「? ――っ!?」

 思わず振り返ろうとした宜泉の視界が大きく揺れ、皿が砕け散った。

「ぐ……!」

 気づいた時には、宜泉は何者かに腕をひねり上げられ、うつぶせに押さえつけられていた。

「死にたくなければ騒ぐな」

「……っ!」

 宜泉の背中に馬乗りになった何者かが、低くしわがれた声で警告を発した。同時に、うなじのあたりにひたりと冷たいものが押し当てられる。

「亭主……おまえ、万槐崗の賊どもの仲間だったのか?」

「え……? だ、誰だよ、あんた!?」

「ついさっき、店の中で何か話し合っていたな? 何を話していた? 詳しく聞かせてもらおう」

「そっ、それは――」

 どうにかごまかそうとする宜泉のうなじから冷たい感触が消え、代わりにその鼻先へと、星明かりを跳ね返す白刃が突き立てられた。

「ひ!」

「……聞かせてもらおう」

 これ以上の抗弁を許さないといいたげに、背中の男はそう繰り返してから小さく咳き込んだ。


          ☆


 臨安から鄂州、武昌へ多くの人間や物資をすみやかに運ぶには、やはり大型の船を使うのがもっとも効率がいい。

 しかし、呂文徳りょぶんとくが自身の軍勢を西に差し向けた際に選んだのは、水路ではなく陸路であった。それは、陸路を行くことで黒灰軍こくはいぐんの威容を誇示し、戦乱に疲弊し、動揺した民衆を慰撫するためであったが、もっと世知辛いことをいってしまえば、文徳の軍勢を一度に運べるだけの数の軍船が、臨安りんあん近辺で用意できなかったからでもある。

「知っているか、世傑せいけつ?」

 長江沿いの道を隊伍をなして進む軍勢の中ほどで、文徳はふと思い出したようにかたわらの世傑に尋ねた。

「何をでしょう?」

「宰相どののご自慢の船の話だ」

「船……ですか? いえ、存じませんが」

「宰相どのが最近作らせたという船がな、舷側にたくさんの外輪がついた取り回しのよさげな、おまけに一度に三〇〇人も乗せられるという大きな船なのだ」

「それはまた……それだけの兵を運べるのであれば、蒙古との戦いで大いに役に立ちそうですね」

「と思うだろう? ところがな」

 長江沿いの街道にはしっとりとした風が吹いている。兜を脱いで小脇にかかえた文徳は、額ににじんだ汗をぬぐった。

「――あの野郎、その船は陛下がご遊覧あそばされるためにしつらえたものだから、軍になど回せんとほざきおった」

「遊覧? いったいどちらへ?」

「俺が知るか。少なくとも西ではなかろうがな。乗せる三〇〇人も、楽士や芸妓たちといったところか」

 今をさかのぼること六五〇年、稀代の暴君として知られる隋の煬帝ようだいは、長江、淮河わいが、黄河をつないで杭州こうしゅうから天津てんしんまで通ずる大運河を建設し、そこに巨大な龍船を浮かべて奢侈にふけったというが、国土の北半分を騎馬民族に奪われて久しい今のこの国では、大運河で船遊びなどできようはずもない。せいぜい臨安近くの西湖せいこに浮かべて楽しむくらいが関の山だろう。

「そのためだけにそのような船を建造したわけですか」

「天下太平の世であればそれもかまわんのだが、長江を濠として蒙古を防がねばならん今、一隻でも多くの軍船が欲しいというのに、賈似道かじどうめ、ああだこうだと屁理屈を並べてこちらの要望は聞きもせん。そんなぜいたくな船を作る金があるなら、まずは新しい軍船だろうに――」

 豪放磊落な文徳は、皇帝の寵姫だった姉の七光りで今の地位を得た賈似道を嫌っている。国の政務を回す能力は高く評価しているものの、しょせん賈似道には戦いの本質というものが見えていない。この国難の時に骨董集めに没頭したり、広大な庭園の造営に入れ込んだり、そういうことを平気でできてしまう男に、軍事に口出ししてもらいたくないというのが、酒の席の愚痴でたびたび聞く文徳の本音だった。

「ですが、宰相閣下ご自身は、呂将軍の手腕を高く評価なさっておいででしょう?」

「ああ、おまえは有能だと言葉でいうだけなら只だからな。心の中で俺のことを煙たく思っていても、それを顔に出さないしたたかさはあの男の特技のひとつだろう」

 逆に、文徳はそういう表と裏の顔を使い分けることができない。腹芸のひとつも使えない文徳では、賈似道に自身の要求を押し通すことは難しいだろう。

 その時、世傑はふとあの男のことを思い出した。

「どうした?」

「先日、出立の前に将軍に面会を求めてやってきた書生がいたことを覚えておいでですか?」

「ああ……りく某とかいう男か」

「あの書生はのちのち役に立ってくれそうな気がします。宮中に巣食う、宰相どののような奸物たちと渡り合うためにはそれにふさわしい人材が必要でしょう。将軍がそうした駆け引きを一から覚えるよりは、すべてを一任できる人間を部下に迎えたほうがよろしいかと」

「やれやれ……」

 ぼりぼりと頭をかき、文徳は兜をかぶり直した。

「何といったかな? あの男がいっていた――」

石城せきじょうです。石城県の知県が不在だという話でした」

 世傑は鄂州一帯の地図を取り出し、文徳に馬を寄せた。

「――石城は武昌の南東五、六〇〇里ほどのところにございます。ここからならそう遠くはありません」

「ふむ……ちょいと寄り道をすることになるな」

 文徳が率いている軍のすべてを石城に差し向けるとなると、武昌への到着がかなり遅れることになる。期日通りに着任できなければ、それこそ賈似道に何をいわれるか判ったものではない。

「――一〇〇〇騎ほどで行ってくれるか、世傑?」

 世傑には文徳のいわんとするところがすぐに判った。文徳は本隊を率いて予定通りに武昌に向かい、世傑には騎馬の精兵を率いて石城に向かえというのだろう。呂文徳が鍛えた黒灰軍の騎馬兵が一〇〇〇騎もあれば、田舎でいい気になっている山賊どもを蹴散らすことなどたやすい。

「どのみち州内の賊どもは遅かれ早かれ根こそぎ潰し、俺の軍に組み込むつもりだからな。そのついでにあの書生に恩を売っておけば、いつか何かの形で帰ってくるかもしれんし」

「判りました」

 今の時世、それなりの質の兵士を増やすのに一番手っ取り早いのは、山賊盗賊といったならず者たちを力でねじ伏せ、軍に組み込むことである。文徳と反目している賈似道が宰相として宮中に重きをなしている現在、中央に頼らず軍備を増強する手段があるのなら、それを使わない手はない。

 世傑は文徳から騎兵一〇〇〇を借り受けると、石城を目指して進軍を開始した。

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