第三章 銘は林獅伯 ~第三節~


         ☆


牙門がもん”の総本山である梅花山荘ばいかさんそうは、多くの剣士たちが集う場でありながら、ある種、独特の香気に満ちている。それは、掌門である雪峰せつほうがうら若き美女であるということと無縁ではあるまい。

 雪峰は――ごく一部の者を除けば――男たちをそばに近づけることを嫌っており、身の回りの世話をするための女たち、それも美しい者ばかりを三〇人ほど、山荘に置いている。それが、剣の修業の場であるはずのこの小島に華やいだそよ風を生み出しているのだろう。

「…………」

 湖上に小舟を浮かべて釣り糸を垂れていた姜天童きょうてんどうは、浮きの動きになど目もくれず、もう四半刻もの間、赤い回廊を眺めていた。

 きょうも遠くから美しい琴の音が聞こえてくる。あの四阿あずまやで雪峰が琴を弾いているのだろう。雪峰の侍女たちが、ときおり何かを持って回廊を行ったり来たりしているのが、天童のところからもよく見えた。

 天童が梅花山荘の一員となって数日たつが、雪峰が実際に剣を手にして稽古しているところはまだ見たことがない。ほかの弟子たちが思い思いにおのれの技を磨き、修練している間も、雪峰はあの四阿で琴を弾いたり酒を飲んだりしているばかりで、誰に稽古をつけてやるでもなく、みずから鍛錬することもしていないようだった。

「暇なら弟子に稽古のひとつもつけてくれりゃあいいのに、優雅なもんだぜ。……ああして琴を弾いてるばっかで腕がなまったりしねェのかね?」

 溜息交じりにひとりごちた時、舟がかすかに揺れた。

「少なくとも、太公望たいこうぼうを気取っているおまえが吐いていい言葉ではないな」

「っと!?」

 船縁からすべり落ちそうになった竿を慌てて掴んだ天童は、陰鬱なその声にまたひとつ大きな溜息をついて振り返った。

「俺ァよ、ほかの連中みてェにちまちま稽古して強くなるような人間じゃねェんだよ。……てか、あんた、いつの間に来たんだ?」

「たった今だ」

 そう答えた王魁炎おうかいえんは、舟の舳先に危なげなく立っている。が、このあたりに浮かんでいる舟はこの一艘のみだった。だとすると、一番近い岸から一〇丈ほども漕ぎ出したこの小舟まで、この陰気な剣士はいかにしてやってきたというのか。

「……ふつうに」

 天童の胸中の疑問を読み取ったかのように、魁炎は呟いた。

「このくらいの距離であれば、我が師父ならふつうに行って戻ってくることなど造作もない」

「どうやってだよ!?」

「……私も師父ほどではないが、いつか肩を並べるほどにはなりたいと思って研鑽を積んでいる」

 そういって魁炎が指さしたのは、静かな湖面に浮かぶ小さな木片であった。よく見ると、それは煮炊きに使うような薪で、それが一丈ほどの間隔を置いて、水面でいくつか揺れている。

「あんたまさか――」

「ひとついっておくが、師父はあの侍女たちをとても可愛がっている」

「は?」

 湖面の薪を凝視していた天童は、唐突に話題が切り替わったことに気づいてはっと顔をあげた。

「あの娘らに不埒な真似をしようものならただではすまぬと心しておけ」

「……どうして俺にそんなこというんだよ?」

「回廊を行き来する侍女たちを物欲しげに見ていただろう? さすがのおまえも師父の寝所に忍ぶ度胸はあるまいが、しばしばいるのでな」

「な、何が?」

「師父の侍女に懸想する馬鹿者がだ」

「ちなみに――ちなみにだけどよ?」

 回廊のほうをちらちらと見やり、天童は尋ねた。

「もしあの女たちに手を出したとしたら――手を出したとしたら、どんなふうにただじゃすまねェんだ? やっぱアレか、顔に新しく穴が開いちまったりするのか? それとものどがぱっくりと――」

「私はそういう物覚えの悪い不埒者を三人ほど見たことがあるが、いずれも師父に撫でられていたな」

「な、撫でられる?」

「そうだ。……撫でられた」

 撫でられてどうなったのか――魁炎はいわなかったし、天童も聞かなかった。聞かずとも想像がついたからである。

「女の肌が恋しければ街に行け。金はかかるが、少なくとも自分の頭が真後ろを向くことはない」

「うへぇ……」

 想像していた通りの言葉に、天童は思わず顔をしかめた。

「……といっても、手もとが不如意では酒を飲むのもままなるまい」

 魁炎は小さな袋と一通の書状を差し出した。

「――おまえにお役目をやる」

「お役目だァ?」

「何をすればいいかはその書状に書いてある。袋のほうは路銀だ。あまったぶんは駄賃に取っておけ」

「おいおい、確かに俺はお師匠さまの弟子にはなったがよ、あんたの使い走りになった覚えはねェぜ?」

「そうか。……これは師父が私に差配は任せるとおっしゃった一件だが、嫌ならほかの者に任せよう」

「ちょちょちょ! ちょっと待て、お師匠さまのお遣いなら話は別だって!」

 天童は慌てて書状と袋をひったくった。

「……引き受けたからにはお役目を果たさずに戻ってくるなよ?」

「判ってるって。――その代わり、俺がお役に立てたらお師匠さまに稽古つけてもらえるよう、あんたからも頼んでくれよ?」

 さっそく書状を広げて読み始めた天童は、ふたたび小舟が揺れるのを感じて顔を上げたが、その時すでに魁炎の姿はどこにもない。ただ、あの水面に浮かぶ木っ端の周囲に、丸い波紋が音もなく広がっていくだけだった。

「……ほんとにあんなのを足場にして水の上を走れんのかよ? 人間じゃねェな、あのおっさんも――」

 感嘆の吐息をもらしてふたたび書状に目を落とした天童は、袋の中身を確かめて呟いた。

「顎州か……ま、いいだろ。まずはお師匠さまの覚えをめでたくしねェと」

 書状と袋を懐に押し込んだ天童は、小舟の上で立ち上がり、あの木っ端をじっと見つめた。

「……いや、やっぱ無理だろ」

 木っ端のほうへ跳躍しようと船縁に足をかけたところで正気に戻り、天童は素直にを掴んで舟を漕ぎ始めた。


          ☆


「――武昌ぶしょうまで行ってくれ?」

 翌日、獅白しはくたちが遅めの朝食を食べているところに現れたりゅう大人は、あいさつもそこそこに、獅白へ武昌までの護衛役を頼み込んできた。

「確かにきのう、どっかの誰かさんがそんなこといってたけどさあ……」

 平然と酒を飲んでいる月瑛げつえいをひと睨みし、獅伯は粥をすすった。

「――そもそも武昌までってそこそこ遠くない?」

「そうですね……石城せきじょうから武昌まで、街道沿いに行けば八〇〇里ほどですから、馬で行けば片道四日か五日、馬車だともう少しかかるでしょうし、船を使えば――」

「船はありえないって」

 文先生は頭の中であれこれ計算しているようだが、獅伯はすぐさまそれを制してかぶりを振った。

「――おれを連れていきたいってことは、またあの刺客に襲われることを想定してるんだよねえ? でもさあ、もし船で移動している時に、刺客がどうにかして乗り込んできたらどうするわけ?」

「それは――」

 文先生はあっと小さな声をあげて言葉に詰まった。

「そ、そうか……逃げ場がなくなりますね」

「そういうこと。確実におれがそいつを倒せればいいよ? でも、もしおれがやられたらどうする? ねえ大人、船から飛び降りて泳いで逃げる? 最近の水嵩の増してる長江をさ?」

「ごもっとも、最初から船で行くことは考えてはおりません」

 軽く手を挙げ、大人は深くうなずいた。なぜかその隣では、蘭芯らんしんが浮かない顔をしてうつむいている。また武昌に行こうとする父親を心配しているのか、それともゆうべのことがあって獅白と顔を合わせづらいのか、獅伯にはよく判らなかった。

「――りんどのがご承知くださるのであれば、馬車一台に馬を二〇騎つけ、前回以上の用心棒たちとともに送り出すつもりでおります」

「……送り出す?」

 大人のいいようがどこか他人ごとのように感じられて、月瑛がふと眉をひそめた。

「今回は私は石城に残り、蘭芯を名代として武昌に行かせようかと」

「この子だけを行かせるってのかい?」

 酒器を置き、月瑛は聞き返した。

「あの男が第一に狙っているのはおそらくこの私です。となれば、むしろ私が屋敷に残り、蘭芯のみを武昌へ向かわせるほうが、無事にたどり着く目があるのではないでしょうか?」

「それは――」

 いつもふてぶてしい彼女らしくもなく、月瑛は口ごもった。

「無論、そうでなかった場合に備えて、これまで以上の数の用心棒をつけ、さらには獅伯どのにもご同道願いたいというわけでして……」

「で、その間、屋敷に残ってるあんたの護衛には、そっちのおっかないおねえさんがつくってこと?」

「はい」

 大人の提案は、一聴すると理にかなっているように聞こえなくもない。が、広い屋敷の奥で月瑛をはじめ数十人からの用心棒に守られている大人と、獅伯を含めて二〇人ばかりの護衛がついているだけの蘭芯と、どちらが襲撃しやすいかと考えれば、それはいうまでもなく旅先にある少女のほうだろう。あの刺客の狙いが大人だとしても、だからといって蘭芯が狙われないとは断言できない。刺客の狙いは大人とその家族すべてかもしれないし、あるいは大人を釣る餌として、まず蘭芯を捕らえようとするかもしれないからである。

 ただ、万事抜け目のない商売人の劉大人が、その可能性をまったく考えていないとも思えない。おそらくそういうことも考え合わせた上で、大人にとって一番“利”が大きいのが、娘を名代として武昌に送るという策なのだろう。

「……まあ、おれはあんたに雇われてる立場だし、あんたがそうしろっていうならそうするけどさ」

 ぼそりとそう答えた獅伯の頭にも、もちろんそれなりの胸算用はある。これも月瑛が前にいっていたように、獅伯の剣の鞘に刻まれた名前や異国の文字について何か情報を集めるのであれば、石城よりはるかに多くの人が住む武昌で調べるほうがいい。少なくとも、この石城で只酒を飲みつつ三月たつのを待つよりは、何かしらの手がかりが見つかる公算は大きいだろう。

「そうですか、いや、ありがたい! 林どのになら娘を安心してお任せできます!」

「大人、そういうことなら、私も同行してかまわないでしょうか?」

「先生も武昌におもむかれると?」

「かならずとはいいきれませんが、武昌くらい大きな街でなら、もしかすると私の知己のひとりふたりはいるかもしれません」

「ほう?」

「私はどうにも世渡りが下手な人間ですが、そつなく出世の道を歩いている知り合いも幾人かはいるのですよ。もしそういう人間がいるのであれば、大人の嘆願の件、後押しできるかもしれませんし」

「先生にはここでの仕事をお手伝いいただきたかったのですが……なるほど、そのお言葉もごもっともです。林どのの素性を調べるにしても、先生であれば何くれとなくお手伝いできるでしょうし」

 しばし思案顔をしたあと、大きくうなずいた劉大人は、食事を続ける獅伯に、

「――林どののご助力が得られるとなれば、無駄に時をすごすこともありますまい。娘に持たせる嘆願書をすぐにでも用意いたしますので、明朝、夜明け前に出立ということでよろしいでしょうか?」

「おれは別にかまわないけど?」

「私も大丈夫です」

「そうですか、それではそのように取り計らいましょう」

 大人は拱手して一礼すると、さっそく嘆願書をしたためるといって自室に下がっていった。それを見送っていた月瑛は、

「……嘆願書といっしょに知州閣下に差し出す賄賂ってのはいくらくらいなのかねえ?」

「月瑛さん、ひょっとしてそれ、私に聞いているのですか?」

「判るのかい、先生?」

「そういう事情に明るければ、私も今頃は都でなにがしかの役職につけていたのかもしれませんが……さっきもいった通り、私は世渡りが下手な人間なのですよ」

「だと思った」

 酒器を置いて立ち上がった月瑛は、蘭芯を見下ろし、

「――あんたもいろいろと準備するものがあるんじゃないかい?」

「あ、はい……」

「夜明け前に出立なら、きょうは早めに晩飯をすませて床に入らなきゃあねえ。――そっちのにいさんも、きょうはそのつもりでいなよ?」

「おれよりも、すぐに酔い潰れるこっちの先生の心配をするんだな。……夜は酒抜きだ」

「私だってその辺は承知していますよ。……ですから、今のうちに飲んでおくことにします」

「…………」

 劉大人がいなくなるのを待っていたのか、文先生は空の碗に蓮の香酒をなみなみとそそぎ、うまそうに一気に干した。その現金さに、獅白と月瑛は顔を見合わせて苦笑していたが、結局、蘭芯は最後までにこりともしなかった。


          ☆


 自分の部屋へと急ぐ劉大人を、扉の前で史春が出迎えた。

「林さまはこころよくお引き受けくださいましたか?」

「ああ。こちらは問題ない。……それよりもそちらのほうだ。もう一度聞くが、乾徳は確かに引き受けたといったのだな?」

「は? ああ、はい、もちろんでございます。こうして私が無事に戻ってこれたのが何よりの証というやつで……」

 史春はいまさらのように安堵の笑みを浮かべてぺこぺこしている。

 賊に襲われて片足を引きずるようになったせいか、それとも生来の性格なのか、史春にはやや卑屈なところがある。ただ、史春が大人に忠義立てしてまめまめしく仕えているのも、そうした気質の裏返しといえるだろう。自分なりに世の中を渡っていこうという如才のなさもあるようで、劉大人が史春に何くれとなく重要な役目を割り振るのは、この男のそういう性格を見抜いているからでもあった。

 劉大人は自室に入ると、史春がすでに用意していた筆を手に取り、武昌にいる顎州の知事に宛てた書状を書き始めた。すったばかりの上等な墨の香りが鼻先をくすぐり、頭の中にある考えをすっきりとまとめ上げてくれるようだった。

「蘭芯たちには林どのをつけておけばまず間違いあるまい。例の剣士のほうは、うまく倒せるかどうかはともかく、乾徳がきちんとはたらいてくれれば足止めくらいはできようしな。となると、あとは乾徳たち以外の道中の賊どもと……用心棒どもか」

「ありえないとはいいきれないところが……」

 史春は弱々しく苦笑した。

 今回、蘭芯には顎州知事への書状のほかにも、いろいろと持たせるつもりでいる。そのほとんどは知事へ渡す袖の下で、その総額は決して小さくはない。それだけに、道中で賊に奪われないように警戒することは重要だが、同時に用心棒たちの変心にも気を配る必要がある。

「だが、林どのであればその心配もなかろう。林どのはとにかく腕利きだし、ああ見えてやたらと義理堅いからな。もしほかの用心棒たちが盗人に豹変しても、林どのであれば蘭芯と財貨を守り切ってくれるはずだ」

「確かに、林さまはそのような御仁でいらっしゃいますが……」

「私の名代はあくまで蘭芯だが、あれはいささか潔癖すぎるところがある。そのへんはおまえがうまく気を利かせて動いてやってくれ」

「判っております。万事お任せください」

 大量の錠銀を納めた漆塗りの木箱を難儀そうに卓の上に置き、史春は軽く嘆息して主人に頭を下げた。

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