第三章 銘は林獅伯 ~第二節~


        ☆


 宵っ張りの用心棒たちも、そろそろあしたに備えて寝床に入ろうかという夜更けに、史春ししゅんは内密の話があるといわれて主人に呼び出された。わざわざこんな時間に、それも余人を交えずにということであれば、おそらく単なる仕事の話ではない。史春がここではたらくようになって二年近くになるが、そのくらいのことはもう見当がつくようになっていた。

「折り入って頼みたいことがある」

 部屋にふたりきりだというのに、りゅう大人はことさら声をひそめてそう切り出すと、卓の上に錦の袋を五つ並べた。どちゃりという音からして、中身は粒金だろう。きのう大人が獅伯しはくに渡していたものよりも大きな袋が五つ――である。

「一〇〇両ある」

 上目遣いに史春を見やり、大人は続けた。

「――これを万槐崗ばんかいこうまで届けてもらいたい」

「ばっ……ば、万槐崗、でございますか!?」

 予想外の言葉に、史春は思わず大きな声をあげかけ、慌てて自分の口もとを押さえた。

「だ、旦那さま……万槐崗とおっしゃいますと、まさか、その――」

「日頃のおまえのはたらきぶりを見て頼んでいるのだ。ほかの者には任せられぬ」

「そうおっしゃっていただけるのはまことにありがたいことですが……」

 万槐崗というのは、石城せきじょうからそう遠くないところにあるちょっとした山である。その頂上には大きな寺があり、万槐崗の名前も、麓からその寺まで続く参道を、無数のえんじゅの木々が縁取っていることに由来していた。

 もっとも、今ではその槐の葉陰の下を通って山寺に参拝しようという者はいない。

「あそこにある寺は、今はもう荒れ果て、山賊どもの根城になっているとのもっぱらの噂……そ、そのようなところにこんな大金を届けよとは、い、いったいどのようなわけで……?」

「おまえが相手だからありていにいうが……万槐崗の頭目の楊乾徳ようけんとくは、実は私の古い馴染みなのだ」

「さっ、山賊の頭目と、旦那さまが!?」

「私と乾徳は同郷の生まれで年も近くてな。かれこれ二〇年ほども前になるか……私たちはともに兵役に取られて北方に出征したのだが、上官の無能さのせいで死にかけ、部隊は散り散りとなって乾徳とも生き別れとなったのだ」

「は、はあ……」

「その後、私は南へと戻り、自分は死んだものと一念発起して行商から始めて、ようやく今の地位を築いたわけだが……まさか今になって乾徳が、しかも賊となって現れるとは思いもしなかった」

 卓の上で両手を組み、親指をせわしなく動かしながら、大人は額に汗をにじませて呟いた。

「しかしまあ……乾徳も根はそう悪い男ではない。山賊に身を落としたのもこの時世に追い詰められてのことだろう。だから私は、乾徳を説得して帰順させられないかと考えている」

「帰順……でございますか?」

「うむ。できれば彼らとてお国には逆らいたくはないはずだ。なら、この街を守る兵士としてもう一度まっとうな暮らしに戻らせてやりたい。古来、いったんは賊となったものが改心して官軍となった例はいくらでもあることだし、な……」

「それは……よいお話とは存じますが、果たしてお聞き届けくださるでしょうか?」

「聞かせる。乾徳は私の弟分だったのだ。――ただ、な」

「はい?」

「帰順させる前に、乾徳たちにひとつ仕事を頼みたいと思っている」

「仕事……?」

「例の男を捜し出し、始末してもらおうというのだ」

「あ、あの刺客の男を……ですか? ですがそれは、りんさまを用心棒にお迎えして、それで――」

「それはそれ、これはこれだ」

 史春の言葉をさえぎり、大人は錦の袋をずいと押し出した。

「――帰順うんぬんについては、いずれ時機を見て私みずからが乾徳に切り出そうと思う。とりあえずおまえはそのことには触れずにいてくれ」

「つまり……これを謝礼として、乾徳さまに例の剣士の始末をお願いしてくるだけでよろしいので?」

「そういうことだ。さすがにおまえは呑み込みが早いな。――正直なところ、乾徳たちが正式な官軍になってしまってからでは、このような私事を頼むわけにもいかぬからな。要はその前にひとはたらきしてもらおうということだ」

 そういう抜け目のなさはさすがといえるが、山賊たちの根城に使いとして送り込まれる史春としては、手放しで喜べるようなことでもない。

 しかし、当の大人は史春が断るなどとは微塵も思っていないようで、突き出た腹を撫でさすりつつ、気休めにもならないことをいっている。

「――なぁに、私の名前を出せば乾徳も悪いようにはせんだろう。それに、いかにあの薄気味の悪い男が腕利きでも、乾徳たちは一〇〇人からの大所帯らしいからな。さすがにかなうまいよ」

「はぁ……」

 溜息にも似た相槌を打ち、史春は錦の袋を大きな布でひとつにまとめた。

「――それでは旦那さま、せめてここで一番足の速い馬をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「うん?」

「万が一命を狙われた時に、私のこの足では逃げようがございませんので……」

「それは杞憂というものだが……まあいいだろう。おまえの好きにするがいい」

「ありがとうございます」

 これだけの量の金ともなると、さすがにずしりと重い。一〇〇両や二〇〇両の金で店の屋台骨が傾くことはありえないが、にしても大人は、史春がこの金を持って逐電するとは考えていないのだろうか。

「くれぐれも頼んだぞ、史春」

「お任せください、旦那さま」

 期待せずに待っていてください、とはさすがにいえず、史春はどうにかぎこちない笑みを作り、その夜のうちにひっそりと屋敷をあとにした。


         ☆


 日中、獅伯がぶん先生たちといっしょに街をぶらついている間に、昨夜の物騒な“夜這い”で壊れた窓は完璧に修理されていた。

 もっとも、今夜はゆうべのように雨も降っておらず、代わりに蒸すような夜気のおかげで寝苦しく、せっかく直してもらった窓も開け放ったまま、獅伯は寝床の中でまんじりともせずに寝返りを繰り返していた。

「…………」

 大きく嘆息し、獅伯は布団を剝いで身を起こした。

「こういう夜は文先生がうらやましいな」

 今夜も文先生はしたたかに酔い潰れていた。あのぶんならおそらくあしたの朝までぐっすりだろう。

 ちょっと厨房にでも忍び込んで酒でもいただいてこようか――そんなことを考えて寝台から下りようとした獅伯は、閉月楼へいげつろうの一階の扉が静かに押し開かれる音を聞きつけ、動きを止めた。

「……あれ?」

 ゆうべに続いて今夜もまた誰かが忍び込んできたのだと察した獅伯は、寝台のかたわらに立てかけておいた剣を手に取ろうとして、しかしすぐに首をかしげた。

 ことさら耳を澄まさずとも聞こえてくる階下からの足音は、今宵の不審者に武術の心得がないことを物語っていた。もし武術のたしなみがあるのなら――ゆうべの賊がそうしていたように――多少なりとも足音を消して階段を上がってこようとするはずだが、そんな様子はまったく感じられない。階段をかすかにきしませて上がってくるのは明らかに素人だった。

「……獅白さま、もうお休みでしょうか?」

 ほのかな明かりとともに三階に顔を覗かせたのは、簪を抜いて髪を下ろした蘭芯らんしんだった。

「あんた……どうしたのさ、こんな時間に?」

 大人が娘に命じて夜這いをかけさせたのではないかという考えが頭の隅をよぎる。というより、父親からの指示があろうとなかろうと、若い娘が夜更けに夫以外の男の部屋へ訪ねてくるなど、本来ならあってはならないことだろう。

 化粧っ気のない顔をうつ向かせ、じっと唇を噛んでいた蘭芯は、やがて意を決したようにいった。

「獅白さまに、折り入ってお話ししたいことがございます」

「おれに? てか、それって昼間じゃ駄目なわけ?」

「できればその……余人を交えず、獅白さまにだけお聞きいただきたいと」

「おれにだけ、ねえ……」

 獅伯は寝台の上であぐらをかき、天井を見上げてしばらく思案した。

「……まあ、何やら深刻そうな話みたいだし、聞くだけなら聞くよ?」

「あ……ありがとうございます」

 蘭芯はふかぶかと頭を下げると、椅子を引き寄せ、そっと腰を下ろした。

「で?」

「夕刻のお話では、獅白さまには、昔の記憶がないと――」

「ああ、うん。いったね」

「そのことなのですが……わたしもなのです」

「は?」

「ある時期を境に、それ以前の記憶がないのです。……わたしも」

「えっ?」

 少女の目的が夜這いではないと知ってほっとしていたのも束の間、獅伯は蘭芯が切り出してきた話題に目を丸くした。

「つまり――あんたも昔、頭を強くぶつけたとか……そういうアレ?」

「いえ、わたしは熱の病だそうで……」

「だそうでって、何か他人ごとっぽくない?」

「目を覚ました時にはすべてを忘れていましたので……周囲の人間から聞いたところでは、数日にわたって高熱にうなされていたそうで、それが原因ではないかと」

「ああ、そういうことか。……それ、いつぐらいの話?」

「五年ほど前……まだこの石城にやってくる前のことです」

「ふぅん、頭ぶつけなくてもそういうことってあるんだ」

 腕を枕にごろんと仰向けに寝転がり、獅伯は目を細めた。

「さいわい、わたしには父や家僕たちがおりましたので、自分の名前を忘れても大事にはなりませんでしたけど……でも、何かが違う気がするのです」

「違うって?」

「獅伯さまのおっしゃる小骨のようなものと申しますか――とにかく気になるのです」

 見ると、軽く握られた蘭芯の手が小さく震えていた。

「病にかかる前のわたしがどんな少女だったのか、わたしはもう、周囲の人間たちの話でしか知りません。ですが、そこに違和感を覚えるのです。何よりこの五年、たびたびわたしは夢を見るのです。あの……赤い夢を」

「赤い夢?」

 じっと天井を睨みつけていた獅伯は、その言葉に身を起こした。

「――夢って?」

「記憶を失ってから、わたしはたびたび同じ夢を見るようになりました。その夢は漠然としていて、何を意味しているのかはわたしも判りません。ただ、一面が赤いのです。ひたすらに赤い……そしてそれが、炎か、さもなければ血の赤さなのではないかと、わたしには思えるのです」

「そりゃまた――」

 物騒な夢である。ただ、蘭芯がそれを炎や血による赤さなのだと直感する理由が、獅白には気になっていた。

「特に根拠はありません」

 獅白の問いに蘭芯はかぶりを振った。

「でも、どうしてもその考えが頭から離れないのです。そして、わたしが記憶を失った本当の理由も、そこにあるのではないかと――」

「は? それじゃあんたは、記憶を失ったのは熱病のせいじゃないって思ってんの?」

「…………」

「それって要するに、あんたの父親とか周りの人間があんたに嘘ついてるって意味なんだけど、それ理解してるわけ?」

「父がどういう人間か、獅白さまにももうお判りなのではないかと思います」

 直言を避け、蘭芯はそう答えた。何とも切なそうな、苦しげな表情だった。

「おそらく父はわたしに何か隠している……その考えがどうしてもぬぐえません」

「じゃあじかに聞いてみたら?」

「父には何度かそれとなく問いただしたことがございます。ですが、わたし自身が父の説明に納得できないのです。ほかの者に尋ねようにも、当時はたらいていた家僕たちはひとりも残っておりませんし……」

「ひとりも?」

「あ、はい。石城へ移ってくる時に暇を出してしまったからと――」

「つまり、当時のことを知っているのは大人だけってことか」

「そうなります」

 小さくうなずいた蘭芯は、やにわに椅子を離れると、獅白の寝台の前でひざまずいた。

「獅伯さま!」

「うわ!? な、何さ、急に!?」

「獅伯さまは、失った記憶を取り戻すために旅を続けていらっしゃるとおっしゃいました。それを思い出さないことには先に進めないと――」

「え? ああ、まあ、うん、いったねえ、そんなようなこと」

「わたしもそのように思います。わたしは本当に熱の病で記憶を失ったのか……もしそうでないのだとすれば、いったい何があったのか。それを確かめたいと思うわたしが確かにここにおります。でも――その一方で、それを恐れているわたしもいるのです」

 蘭芯は目に涙を浮かべ、じっと獅伯を見上げている。彼女が持ってきた提灯が卓の上で淡い光を放ち、少女の白い横顔をほのかに照らし出していた。

「かつてわたしは、何かとても恐ろしいことを経験したのだと思います。でも、なぜかそのことをすべて忘れてしまっている……ときおり見る炎の海とも血の海ともつかないあの忌まわしい真っ赤な夢は、わたしが忘れてしまった記憶の欠片か何かのように思えるのです」

「なるほどねえ……で? あんたはどうしたいわけ?」

「わたしも、あの夢の暗示するところを知りたいとは思います。でも、わたしが過去の記憶を忘れたのは、それが忘れるべきものだったからではないのでしょうか? ですから、それを思い出してしまった時、とてつもなく恐ろしいことになるのではないかという不安がぬぐいきれないのです」

「だから?」

「え? あ、だからわたしは、その……どうすべきなのかと」

「どうすべきかってさ、それ、おれに聞くようなこと?」

「――――」

 獅白の答えに蘭芯は絶句した。にべもない獅白の言葉に毒気を抜かれたのか、ついさっきまで涙ぐんでいたことも忘れたかのように、目を見開いてじっと獅伯を見つめている。

 そのまなざしに居心地の悪さを感じながらも、獅伯は大仰に肩をすくめて続けた。

「あんたさ、そのへんの判断が自分にとって大きな意味を持つって直感してるわけだよね? なのに、どうしたらいいかっておれに聞くの、おかしくない?」

「え……で、でも……」

「確かにおれとあんたは同じかもしれない。昔のことを覚えてないってことではね。けど、おれが過去を取り戻そうとしてるのはあくまでおれがそうしたいからであって、あんたにとってもそれが最善てわけじゃないじゃん?」

「では、このままにしておいたほうがいいと――」

「いや、だからさあ、それっておれに聞くようなことじゃなくない? っていってるの理解できない? それじゃあんた、おれが飛び降りろっていったらそこの窓から飛び降りるわけ?」

「そっ……そ、それとこれとは話が違います!」

 蘭芯は眉間にしわを寄せ、半泣きでいい返した。万事に控えめな彼女にしては珍しい反応で、それが獅伯にはどうにもおかしかった。

「なっ、なぜお笑いになるのです!?」

「笑ってないよ」

「お、お笑いになりました!」

「あんたの見間違いでしょ。暗いし」

「…………」

「とにかくさあ」

 ついつい噴き出しそうになるのを大袈裟な溜息でごまかし、獅伯は頭をかいた。

「――そういう大事なことは自分で決断すべきじゃない? もしおれの意見に流されて決断して、その結果あんたが後悔することになったとしても、おれ、責任取れないわけだしさ」

「責任だなんて……そのようなつもりは……」

「あんたにそのつもりがなくても、こっちは重大な責任を押しつけられてるのと同じわけ。……ていうか、そもそもあんたが過去の記憶を取り戻す方法なんてあるの? ないならここでの話、ぜ~んぶ無意味だけど」

「そ、それは……父に聞く以外には……」

「いや、だってあんた、大人が何か隠してるんじゃないかって思ってるんでしょ? もしそれが本当なら、あらためて聞いたって真実を教えてくれるわけなくない?」

「…………」

 蘭芯はふたたびうつむき、口を閉ざした。

 少し冷たすぎたかもしれないと思いつつ、獅伯は大口を開けてあくびをすると、

「……まあ、もしかしたら大人も、いつか気が変わって真実を教えてくれるかもしれないし、とりあえずは気長に待ったら?」

「それしか……ないのでしょうか?」

「もちろん、あんたが自分の過去を知りたいってホントに思ってるなら、まあ、そのくらいしか手はないよねえ」

「……判りました」

 長い袖でそっと目もとをぬぐうと、蘭芯は楚々として立ち上がり、獅伯に対して慇懃に頭を下げた。

「つい声を荒げてしまい、先ほどは失礼いたしました」

「いやいや、気にしなくていいって。そもそもさ、こんな時間にこっそり訪ねてきた時点で礼儀も何もないじゃん?」

「……獅伯さまは意地悪です」

 鼻の頭を少しだけ赤くした蘭芯は、はにかむような笑みとともにもう一度会釈し、提灯を持って階段を下りていった。

 その足音が充分に遠ざかるのを待って、獅伯はいった。

「――あんた、ちゃんとあの子を部屋まで送ってけよ?」

「あら、気づいてた?」

 開け放たれていた窓から、さかさまの月瑛げつえいがひょいと顔を出した。

「盗み聞きはよくないだろ」

「わたしはただ、あの子がこんな夜更けにこっそり部屋を出てったもんだから、本人に気づかれないようにつかず離れず護衛してただけなんだけどねえ」

「だったらちゃんと送ってけって。おれのところに夜這いにきた帰りに何かあったとかそんなことになったら、それを口実に、死ぬまで大人にこき使われかねないし」

「判ってるよ。……にしても、あの子もあんたと同じく、昔のことを忘れちまってたなんてねえ。存外にお似合いなんじゃない?」

「護衛護衛」

「判ってるって」

 月瑛は小さく鼻を鳴らし、すぐに姿を消した。

「まったく……」

 かすかな月瑛の気配が遠ざかっていったのを確認し、獅伯は寝台に横になった。

「夜這いじゃなかったのはよかったけど……どうしてああいう面倒なことを会って間もない人間に打ち明けるかね?」

 蘭芯との間に奇妙な縁を感じはするが、ただそれだけだった。あまりここの親子に深入りするのはよくない。

「あと三か月、か――」

 大人との約束の期日が来る頃には、さすがに江南の夏の暑さも鳴りをひそめ、夜風も冷ややかになっているだろう。

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