第二章 石城より ~第三節~
☆
予定外の来客と聞いた時から嫌な予感はしていた。
この屋敷を訪れる者は、商売の上で懇意にしている人間か、もしくは何か陳情したいことのある人間であり、つまりは
「あまり待たせないでもらいてェな」
大人が人払いをすませた部屋にやってくるなり、燃えるような赤毛のその客は不満げに鼻を鳴らした。わざとやっているのか、乾いた泥がこびりついた靴を朱塗りの卓の上に乗せ、椅子をぎしぎし揺らして茶をすすっている。
「――あとよぅ、こういう時は酒を出すもんだろ? 違うか?」
「礼儀を知らん客に出す酒はないな」
顔をしかめ、大人は庭に面した扉をすべて閉めた。この客はとにかく声が大きい。こうして密室を作ったとしても、内密の話には向かない男だった。
「年月は人を変えるよなぁ? まさかおめェがそんなおカタいことをいうとはよ」
叩きつけるように卓に碗を置き、男は続けた。
「……てことはアレか? 昔馴染みの俺たちとも、いっそ縁を切りたいっていいたいわけか? 違うか?」
「……わざわざ絡みに来たのか、
大人は頬傷の男――乾徳の正面に腰を下ろすと、低い声でいった。
「忙しいのはいいことだぜ。要はそれだけ儲かってるってことだからな。……ちったぁあやかりてェなあ、俺たちもよ?」
「……またか」
「またかっていい方ァねェだろ、
「間違えるな。私の名は
「蛮軒でも福民でもどっちでもいいやな。とにかく今は劉大人だ」
「…………」
大人は渋い顔で空の碗に茶をそそぎ、ひと息にあおってさらに渋い表情を作った。
「――にしても、まさか蒙古に追われて逃げてきた先で、昔馴染みのおめェと再会できるとは思わなかったぜ。これも天の配剤ってヤツかぁ?」
乾徳は椅子から立ち上がると、それこそ餓えた狼のように、広い部屋の中をうろうろと歩き出した。
「……薄情なおめェと違って、俺のほうはおめェとの昔のよしみを忘れてねェ。だからおめェのところの荷駄には手をつけねェようにしてるんだぜ?
「乾徳。いつまでもこのあたりで商売を続けることはできんぞ?」
「都から官軍引き連れてあらたな知県サマが来るってか? それとも、おめェが新しい知県になりてェんだっけか?」
「…………」
「どっちにしろ、ンなこたぁありえねえよ。もうあきらめろって」
「……何だと?」
「もうこの国はおしまいなんだよ」
乾徳は不躾に卓の縁に腰掛け、低い声でいった。
「昔のおめェならそのくらいすぐに察したはずだが……石城に引っ込んでお大尽とか呼ばれてるせいで鼻が鈍ったか? もともとろくでもねェ国だったが、いよいよおしまいなんだよ、この国はな」
「なぜそう思う?」
「なぜっておめェ、これまでは
「馬鹿な……」
「馬鹿? 馬鹿なのはおめェだぜ、いい加減気づけよ。いくら州府に手紙を出そうが陳情に向かおうがよ、こんな田舎街に兵隊を送り込む余裕なんてねェんだよ、今のこの国にはな」
「だが、蒙古の王が死んだという話もある。蒙古が後継者争いでもめている間に――」
「それでひと息つけるってか? そりゃ何年だ? 一年か、二年か? どっちみちそう長くはねェよ。でもって、そんな短い間にこの国を建て直すことなんざできっこねえ。そんなことができるようなら、そもそもここまで腐ってねえはずだ。……違うか?」
「…………」
大人は言葉に窮し、ただ乾徳を睨み返すことしかできなかった。そんな大人を見て、乾徳は獰猛な笑みをこぼした。
「――なんてなァ、どうでもいい話をしにきたワケじゃねェんだよ、俺はよ。なぁ、判るだろ?」
「……私にも我慢の限界というものがあるぞ?」
大人は袖の中から粒金がみっしり入った錦の袋を三つ取り出し、卓の上に置いた。不意の来客が乾徳ではないかと考えた時に、前もって用意しておいたものである。
「だったら俺たちとやり合うか? できねェよなあ? 今のおめェは石城の劉大人、昔のおめェとは違うんだ。……それとも、きょうまで積み上げてきたモンをすべて崩す覚悟があんのか? だったら俺が手伝ってやってもいいんだぜ?」
鷲掴みにした錦の袋を懐にねじ込み、乾徳はいった。
「おめえが昔、どんな人間だったか――石城の住民がそれを知ったら、おめェはもうここじゃ商売ができなくなるだろうなぁ。大店の劉大人も、かつての山賊、劉蛮軒に逆戻りだ」
「貴様……!」
「――ま、俺としちゃあそのほうが助かるんだがな。この国の行く末を考えりゃ、商売人より山賊のほうがはるかに目がある。商売でいくら金を稼いで貯め込んだところで、蒙古が来れば没収されておしまいなんだからな」
「……どういう意味だ?」
「考えてもみろよ。今のうちに兵隊かき集めて軍閥として独立しとけば、次に蒙古軍が攻めてきた時に、山塞ごと連中に寝返るって手もあるだろ? 俺のところの手下どもに、おめェが給金払って食わせてるこの街の兵士ども、合わせりゃそれなりの数だ。街の人間の中から腕っ節がつええ連中を見つくろってもいいやなァ。とにかく蒙古ってのは、実力さえあれば
「貴様……国を売る気か?」
「おいおい、悪党が真面目なこといってんじゃねェよ。玉座にふんぞり返ってんのが誰だろうと、ンなこと俺たちに関係ねェだろ。重要なのは俺たちが面白おかしく心おだやかに暮らしていけるかどうかさ。……違うか?」
「貴様を見ていると、悪党にも程度の差というものがあるのだということがよく判る」
「劉大人はご存じねェらしいな」
懐をぽんと叩いた乾徳は、卓から降りて扉に向かった。
「……そういうのは五十歩百歩っていうんだよ」
「帰る時は裏口から帰れ」
「へいへい」
もらうものさえもらえば用はないとでもいいたげに、乾徳はひらひらと手を振って出ていった。
劉大人は冷めきった茶をもうひとあおりし、よりいっそう渋い表情を浮かべた。
☆
遠くから琴の音が聞こえてくる。不調法な
「ありゃあ誰が弾いてるんだ?」
「師父だ」
「へえ……なかなか風流な御仁なんだな」
「…………」
朱塗りの欄干に縁取られた回廊を歩いていた魁炎は、はるかかなたにかすんで見える仏塔の影を見つめ、それから背後の男を肩越しに一瞥した。
きょうの男は魁炎よりもずっと若い。おそらく三〇の少し手前ほどだろう。おのれの腕に相当の自信があるのか、やたら鼻息が荒かった。これ見よがしに袖をまくって剥き出しにした両腕には無数の傷が走り、かさねてきた修羅場の多さを窺わせる。いかにも粗野な、剣士というより山賊といったほうがしっくりくる大柄な男だった。
「――あらためて申し置くが」
魁炎は静かにいった。
「おまえがこの山荘の一員として迎えられるかどうかは、おまえ自身の腕にかかっている。おまえの腕がそれに足るものだと師父が判断なされれば、おまえは晴れて“
「そのことでちょいと小耳にはさんだ噂があるんだが」
男は髭が生えた四角い顎をごりごりと撫で、にんまりと笑った。
「――入門のための腕試しってのは、そのお師匠サマがじきじきに相手をしてくださるわけかい?」
「師父、もしくは私のどちらかが相手をすることになっているが、そこは入門を希望する者が自由に選んでよい」
「んじゃよ、お師匠サマに勝ったら――この山荘をそっくりそのまま、配下の連中も全員もらえるって噂は本当かい?」
「配下ではないな。牙門派に集う者は、私も含めてそのすべてが師父の弟子というあつかいだ。……が、もしおまえが師父に勝てれば、師父はおまえに跡目をおゆずりになり、隠居なさるだろう。そういう意味では、その噂とやらもあながち間違いではないな」
「へへっ……そうかいそうかい、わざわざここまで来た甲斐があるぜ」
魁炎の言葉に、男は嬉しそうに揉み手をした。
「わざわざ師父にお時間を取っていただくのだ、おまえの腕には私も期待している」
回廊の突き当たり、湖面に向けて大きく張り出した八角の
「師父。お時間です」
「……は?」
魁炎の後ろで大男が唖然とするのが判った。
「し、師父って――あ!? 冗談だろ? こいつが、牙門派の――」
「……ずいぶんとまた不潔そうな男ね。魁炎、あなたのほうで適当に相手をするわけにはいかなかったの?」
数人の侍女たちをはべらせて琴を弾いていた魁炎の師は、氷を削り出したような白いその指を止め、上目遣いに男たちを見やった。
「申し訳ございません。この男がどうしても師父と立ち合わせてほしいと」
「……まあいいわ。最初にその取り決めを作ったのはわたしなのだし」
「お、おい、ちょっと待てよ!」
魁炎と美女のやり取りに、男が無遠慮に割り込んできた。
「本気でいってんのか? このねーちゃんが、ほんとに、その……牙門派の掌門? 冗談じゃなくて?」
「それなりに腕は立ちそうだけど、頭は悪そうね。勘も悪そう」
冷ややかにいい放った美女は、衣擦れの音ととも立ち上がり、侍女に何ごとかささやいた。
魁炎は男を振り返り、
「正真正銘、こちらのおかたが我らが師、“
「ふ、不都合ってこたぁねえがよ……」
赤い衣をまとい、黒い漆のような艶光る黒髪を背中に流した雪峰の艶姿は、武林という言葉にまとわりつく血なまぐささとはあまりに縁遠い。まだはたちを少しすぎたばかりにしか見えないこの美女が、魁炎たちの師匠だといわれて男が戸惑うのも――その力を垣間見てさえいない今なら――無理からぬことだろう。初めて相対した時は、魁炎ですら雪峰の力量を読み違えたほどなのである。
「これでいかがでしょう?」
侍女が四阿から手を伸ばし、数本の葦を手折って雪峰に差し出した。
「……これにするわ」
その中から、長さでいえば二尺を少し超えるほどだろうか、よくしなる一本を選んで手に取った雪峰は、それを揺らしながら、
「では始めましょう」
「……は?」
「おまえは入門を希望してここへ来たのよね? そして力だめしの相手にわたしを選んだ。……で? そこまで決まっていて、始めない理由が何かあるの?」
「い、いや、あんた、得物は――」
腰に下げていた剣の柄を握る男の目の前で、雪峰はふりふりと葦を揺らした。それを見ていた男の顔が、徐々に赤黒くなっていく。
「まさかてめえ……そんなもんで俺の相手をしようってんじゃねえだろうな……?」
「わたしがこれでいいといっているのよ。遠慮は必要ないわ。さあどうぞ」
「あのなあ――」
「ほら、遠慮せずにおまえからかかってきなさい。正午を告げる
男の言葉にかぶせて雪峰がそう説明した直後、男の身体が欄干を越えて吹っ飛んだ。雪峰と入れ違いに四阿の中へ移動していた魁炎には何が起きたかすべて見えていたが、おそらく当事者であるはずの男には理解できていなかっただろう。
「……あ?」
鞘から抜き放った剣を握ったまま、男は二丈ほども離れた湖水の中で尻もちをついていた。
「この島の周囲はどんなに深くてもせいぜい子供の腰ほどの水深しかないわ。たとえおまえが泳げなくても、おぼれる心配はないわね」
ゆったりとした動きで赤い袖で口もとを隠し、雪峰は艶冶な笑みを浮かべた。だが、確かにこの美女こそが、迅雷の速さで抜き打ちの一撃を繰り出した男を、それすら上回る速さで――しかも葦一本で――逆に打ち据え、欄干を越えて派手に弾き飛ばしたのである。
「てめっ……つ!?」
慌てて立ち上がった男は、眉間にしわを刻んで胸を押さえた。
「ばっ……!」
見れば、男の胸板にはまるで何かで引っかかれたような赤いみみず腫れが斜めに一条、くっきりと走っていた。それがつまりは、雪峰の振るう“葦の剣”の威力であり、雪峰の実力の一端なのであろう。無論、もしそれが葦ではなく同じ長さの刃物であれば、男はすでに絶命している。
欄干の上にふわりと飛び乗り、雪峰は袖をかざして空を見上げた。
「鐘が鳴り始めたわね。あの鐘が鳴り終わるまでわたしから逃げ続けるというのもひとつの手だけど、おまえはどうするの?」
「くっ……!」
男は戸惑いと苦痛の表情を消し去り、すぐさま剣を構え直した。
「いくら速かろうが――」
たとえどのような速さで繰り出されようとも葦は葦、鉄でできた剣に触れれば即座に斬り飛ばされる。つまり、雪峰は剣を受け止めることはできない――おそらく男はそう考えたのだろう。水飛沫を蹴立てて走った男は、欄干に乗った雪峰の足首を水平に薙ぎ払おうとした。
だが、雪峰はわずかに身をかがめ、その細い葦でもって男の繰り出した剣を跳ね返した。
「!?」
剣をはじかれて体勢を崩した男の首筋に、ふたたび雪峰の葦が打ち込まれる。
「ぐ――」
がくりと膝を屈した男は、それでも次の一撃に備えて剣をかかげた。しかし、そんな男の努力を嘲笑うかのように、よくしなる葦は男の剥き出しになった肌に次々にみみず腫れを増やしていく。湖から上がることもできず、男は肌を打たれるたびに苦悶の呻きをもらして水の中でのたうち回った。
「ちょ――も、まっ、まいった! 俺の負けだ! いや、お、俺の負けです!」
長い余韻を残して遠い鐘の音が途絶えた頃、男はついに浅瀬におのが剣を突き立て、その脇に正座して頭を下げた。
「葦じゃ俺の剣を受け止めようがねえと思ったが、そもそもかすりもしやしねえ! 今の俺と先生の間には天地ほどの差があると判りました!」
「そのことに気づくのがもう少し早ければ、おまえも痛い思いをせずにすんだのにね。ああ見えて魁炎はなかなかにやさしい男だから、もし彼を相手に選んでいれば、それなりに手加減してくれたでしょうに」
細い欄干の上に膝をかかえてしゃがみ込んでいた雪峰は、くすりと笑って葦を湖に投げ捨てた。大人びた妖艶さをただよわせながら、それでいて、雪峰のふるまいには気まぐれな少女を思わせるものがある。それはさながら、捉えどころのない彼女の剣技そのものであった。
「――まあいいわ。鐘が鳴り終えてもおまえは気を失っていなかった。その我慢強さと頑丈さはなかなかよ。入門を認めてあげる」
「はっ……」
あちこち血をにじませた男は、包拳して深くこうべを垂れた。
「あとはあなたに任せていいわね、魁炎?」
「はい」
四阿に戻った雪峰は、もはや男のことなど一顧だにせず、ふたたび琴を弾き始めた。
「ついてこい」
ずぶ濡れで湖から上がってきた男に声をかけ、魁炎は歩き出した。
「――そういえば、おまえの名は何といったかな?」
「ひでえな……覚えてねえのかよ」
男の声はどこかかすれていて、最初の威勢のよさはどこにもない。完膚なきまでに実力差を見せつけられたことで、さすがに気落ちしているようだった。
「流れによっては、あの場でおまえが死ぬこともありえたからな。いつも生きて入門を果たした者の名前だけ覚えるようにしている」
「俺は
「腕だめしでは死人は出ない。が、しばしば腕だめしにかこつけて師父を亡き者にし、後釜に座ろうとする浅薄な奴もいる。つい半年ほど前にもひとりいた。おまえと同じくらいの強さだったが」
「ど、どうなったんだ、そいつは?」
顔ににじんだ血をぬぐい、天童がかさねて尋ねる。
「頭に新しい穴がふたつほどできた」
「……は?」
「その日、師父は箸を使って相手をなさっておられたからな」
魁炎は天童を振り返り、自分のこめかみを二本の指でつついて見せた。
「――腕だめしが終わったあと、もしおまえが隙をついて師父を害しようとしていたら、おそらくおまえはのどでも裂かれて死んでいただろう」
「あ、葦で?」
「師父にそれが不可能だと思うか?」
「――――」
天童は自分の首を押さえ、無言で顔をしかめた。
「――ともあれ、おまえは入門を許された。これからは牙門派の剣士として研鑽を積み、さらなる強さを目指すことだ」
「俺はもともとそのつもりでここへ来てるけどよ」
大きく深呼吸し、天童は四阿のほうを振り返った。
「その……あれかい? お師匠サマには、何というか――いるのかな?」
「ひとたび入門した者には、師父は滅多にお声をかけてはくださらない。じかに稽古をつけていただけるのはほんのひと握りの高弟たちだけだ」
「つ、つまり……?」
「おまえが今よりも強くなり、名前を憶えていただけるほどになれば、そのような不躾なことを尋ねる機会がめぐってくるかもしれない。――まあ、そのあとどうなるかは判らんが」
武林にひしめく多くの流派とは違い、この牙門派では、入門した順番や年齢とは無関係に、強い者ほど序列が高い。掌門である雪峰を筆頭に、その片腕と目されている魁炎以下、すべての弟子たちが明確に強さの順に並んでいる。武林の黴臭い伝統を破壊し、すべての頂点に立とうとうそぶく雪峰の野望が、そこに端的に表れていた。
「そういうことなら……ますますやる気が出てきたぜ!」
意気消沈していたはずの天童は、自分の頬を両手ではたいて気合を入れた。切り替えが早く、あっけらかんとした豪放な男である。雪峰ほどの高みにいたれるかどうかはともかく、強くなるのは間違いないだろう。
そんな天童を見て、魁炎は小さく笑った。
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