第二章 石城より ~第二節~


         ☆


 明け方は濃い朝霧が立っていたという話だが、獅伯しはくが起きてきた時にはすでにそれも散り、きょう一日の晴天を約束するかのようなまばゆい太陽が昇っていた。

「やあ、獅伯さん。ゆうべひと悶着あったようですね」

 獅伯が離れの広間にやってくると、ぶん先生が碗を片手に呑気に手を振っていた。きのうあれだけべろべろになっていたくせに、きょうも朝から飲む気でいるらしい。獅伯もかなりの量を飲むほうだが、酒好きということでいえば、おそらく文先生のほうが上だろう。獅伯は別段、酒が好きで飲んでいるわけではないからである。

「あんた、あれだけ飲んで二日酔いにならないわけ?」

「これが不思議と悪酔いだけはしないのですよ。ときどき私は李白りはくの生まれ変わりなのではないかとすら――」

「それはいいすぎだろ」

 文先生の隣に腰を下ろした獅伯は、あきれ半分で小さく笑いながら、さりげなく周囲の様子を窺った。

 きのうと同じく、広間には多くの用心棒たちがたむろし、思い思いに酒を飲んでいたが、彼らが獅伯に向けるまなざしは、きのうとは少し違っているようだった。

「きのうの彼らは獅伯さんのことを、大人が気まぐれで連れてきた、どこの馬の骨とも判らない若造とでも見ていたのでしょう」

 獅伯の胸中を読み取ったかのように、文先生が小さな声で呟いた。

「――だからきのうの彼らは、獅伯さんを値踏みしながらも、まだどこかであなどっていたのだと思いますよ。悪くいえばなめていたといいましょうか」

「だろうね」

「ですが、彼らはすでにゆうべの一件を知っていますからね。不心得な“同僚”によって、獅伯さんの腕がかなりのものだということを、否応なく思い知らされたわけです。おのずと見方も変わるでしょう」

「だといいけど」

 大皿に盛られていた豚肉の醤油煮をつまんでいた獅伯は、緑あざやかに輝くような庭を通ってやってくるりゅう大人に気づくと、箸を置いて立ち上がった。

「おお、これはこれはりんどの」

 向こうでも獅伯に気づいたのか、劉大人は小走りに駆け寄ってくると、獅伯の手を取って深く何度も頭を下げた。

「このたびの不始末、何といって詫びればよいか……すべては私の不徳のいたすところです。本当に申し訳ございませんでした!」

 獅伯に口をはさませることなく、大人はその場に膝をついて詫びた。ゆうべの件は、欲に駆られた用心棒のひとりが悪心を起こしてしでかしたことであって、そういう意味では特に大人に落ち度はない。が、まだぬかるんでいる地面にみずから膝を屈した大人は、そういう人間を屋敷に置いていたこと自体を詫びていた。

「林どののお怒りはごもっとも、すべてこの私の咎でございます。ですが、ここは何とぞお怒りを鎮め、どうか、どうか……我ら親子をお見捨てなきよう――」

「…………」

 一見すると誠実なこの大人の謝罪も、おそらくはすべて計算し尽くしたものなのだろう――と、獅伯は思う。獅伯に何もいわせず一方的にあやまり続ける大人の謝意を受け入れなければ、獅伯がいかにも狭量な男に見えてしまう。

「あのさ、大人」

 握られたままの手に力を込め、ひょいと大人を立ち上がらせた獅伯は、

「……さすがに二度目はないからね?」

「は……あ、はい! も、もちろんでございます! 二度とゆうべのようなことがないよう――」

「それじゃ帰ってくるまでに窓の修理よろしく」

「え? り、林どの、どちらへ……?」

「きのうは城門を抜けてここへ直行だったしさ、ちょっと街をぶらついてくるよ。そのくらいいいでしょ?」

「そ、それは……私もきょうは屋敷を出る予定はございませんし、月瑛どのもおられますから、散歩程度であればかまいませんが……」

「んじゃ、日暮れまでには戻るよ」

「ああ、ちょっと、獅伯さん、それなら私もごいっしょさせてくださいよ」

 あくびを連発しながら酒を飲んでいた文先生が、獅伯が出かけると聞いて慌てて立ち上がった。

「といったって、おれはただ飲み歩くだけのつもりなんだけど?」

「おい、史春ししゅん!」

 獅伯と文先生のやり取りを見ていた大人は、後ろに控えていた家僕を呼びつけ、

「きょうは店の仕事はいいから、おまえはおふたりを案内してさしあげなさい。……いいか、絶対におふたりに財布を出させたりせんようにな?」

「承知いたしました」

 文先生よりいくつか年嵩に見える家僕は、劉大人から錦の小袋を受け取ると、それを懐に納めて獅伯たちに向き直った。

「それでは林さま、文先生、まいりましょう」

「史春さんが案内してくれるなら安心だ。さあ獅伯さん、行きましょう行きましょう」

「判ったからそう引っ張るなって」

 どうせこの書生は、獅伯をだしにして朝からうまい酒を飲むことしか考えていないのだろう。とはいえ獅伯としても、見知らぬ土地でひとりちびちびと酒を飲むよりは、話し相手になれる人間がいてくれたほうがいい。それに、なかなか博識な文先生には、いくつか尋ねたいこともあった。

「月瑛さんがあとで知ったら歯噛みするでしょうねえ」

「そういやふだん何してんの、あの人? お嬢さんの護衛っていってたけど」

「特に用事がなければ、月瑛さんはいつも蘭芯さんにつきっきりですね」

「そりゃあお気の毒に」

 皮肉っぽく唇の端を吊り上げた獅伯は、手にしていた剣を背負い、胸の前で紐を結んだ。

 いかにも江南の街らしく、石城内には長江の支流から引いてきたとおぼしい運河が縦横に走っており、人の移動や物流に大いに役立っているようだった。この街をひとつの生き物にたとえるのであれば、運河はいわば生きた血の流れであり、それがこの石城に活力をもたらしているといえるのかもしれない。

「――けどさあ、こんな時間から飲めるところなんてあるわけ?」

「この街では夜明け前からはたらいている者も多いのです。この時間はそうした人間がひと仕事終える頃合いですからね。それを見込んで朝から開いている店も少なくないというわけです」

「ふぅん」

 劉大人の屋敷をあとにし、特に行き先も決めずにのんびり歩いていた獅伯は、肩越しにふと史春を振り返って眉をひそめた。

「――あれ? もしかして足悪い?」

「ああ、これですか? 子供の頃、匪賊の矢を膝に受けまして……ですが、日々の暮らしには支障はございません。むしろこのおかげで、面倒な力仕事から逃れられているような次第でして」

 屈託なく笑う史春は、ほんのわずかだが、右足を引きずるようにして歩いている。確かに杖が必要になるほど不自由には見えないし、歩みそのものは決して遅くない。

「――それより文先生、まずはあちらの“交春楼こうしゅんろう”でいかがでしょう?」

「ああ、いいですね」

 史春おすすめの酒家は運河沿いにある二階建ての店で、おそらく都の酒楼とくらべればはるかに慎ましやかなのだろうが、それでも瀟洒しょうしゃで小綺麗な造りだった。こういう店がやっていけるという事実が、石城の平穏さを物語っている気がする。

「ここは私も贔屓にしておりましてね、わざわざ私のために、いつも二階の席を取っておいてくれているのですよ」

 その言葉通り、店に入るなり下ばたらきの小僧がやってきて、文先生を二階へと案内していく。

「先生! 私はおふたりのお邪魔にならないよう、下でゆっくりとやらせていただきますから!」

 史春のそんな声を背中に聞きながら、獅伯は先生のあとについて二階に上がった。

 四方の窓が開け放たれた二階は明るく風通しがよく、ことに窓際の席からは、通りをはさんだ先にある運河を見下ろすことができる。大小の舟が悠然と行き交うさまは長江の流れをそのまま小さくしたような感じで、ここにもまた、石城という街の活気あふれる横顔が垣間見えた。

「――さあ獅伯さん、まずは一杯」

 文先生は運ばれてきた酒をさっそく薄手の碗にそそぎ、獅伯に勧めた。

「人に勧めるぶんにはいいけど、あんたはあんまり飲まないでよ? あんたをかついで帰るとかごめんだからさあ」

 碗を傾け、そそがれた酒をひと息にあおる。よく冷えた酒がのどをすべり落ち、身体の奥底のほうで小さな火に変わっていくのが感じられた。

 ただ、獅伯が文先生のように酔うことは決してない。獅伯にとっての酒は、断続的に襲ってくる頭痛をまぎらわすためのものであって、心地よく酔うためのものではないのである。

「いやいや、そんな殺生な……もし私が潰れた時は、屋敷から誰かを呼んでもらいますからいいのですよ」

「あんたまさか、いつもそんな調子で人に迷惑をかけてるわけ?」

「そのくらいは勘弁してくださいよ。私だってはたらく時ははたらいておりますし」

「あんた居候でしょ?」

「前にもお話ししましたが、今この石城には正式な知県がおりませんからね。おまけに州府とも連絡がつかないものですから、やむをえず、劉大人が知県の代行のようなことをしているのですよ。それを時たま、私もお手伝いしているというわけで……」

「へえ。あんた、そういうの得意なんだ」

「まあ、数少ない取り柄と申しますか――」

「あ! もしかしてあんた、科挙にしくじって故郷に戻れなくなったとか?」

「ははは……」

 獅伯の問いに、文先生は答えを濁してただ小さく笑っただけだった。

 が、獅伯はその考えが当たらずも遠からずだと考えている。でなければ、文先生のように聡明で博識な若者が、この物騒なご時世に故郷を離れて旅をしているわけがない。おそらく故郷の親戚たちの期待を一身に受け、都に出て科挙に挑んだはいいが及第できず、実家に戻るに戻れずにいる――そんなところだろう。そういう書生が時たまいると聞いたことがある。

 とはいえ、事情があるのは獅伯もご同様である。それ以上の詮索はせず、獅伯は卓の上に並べられた料理に箸を伸ばした。

「――けどさあ、あんたみたいな書生がこうして悠々自適に酒を飲んですごす代価に、あんな物騒な殺し屋に命を狙われるってのは割に合わなくない?」

「いやいや、さすがに私も、実際に死を覚悟したというのはきのうが初めてですよ」

 茹でた蟹の身をほじくるようにして食べながら、文先生は苦笑した。

「ですが、こうなると州府に嘆願に行くのも命懸けです。少なくとも劉大人がじかにおもむくというのはやめたほうがいいでしょうね」

「その、嘆願てのはどうしてもしなきゃいけないわけ? ちゃんとこの街はふつうにみんな暮らしていけてるように見えるけど?」

「それがそうもいかないのですよ。現状、街を守る廂軍の兵士たちに出している給金は劉大人が出しているのです。この状態が長く続くと、さすがに大人の商売にも影響が出てくるでしょうし、私もただ酒を飲んでいられなくなります」

「んじゃあ払わなきゃいいじゃん――とはいえないか」

「ええ。兵士たちがここを離れずにいるのは給金が出ているからです。もし支払いがとどこおれば、彼らはさっさとここを離れてしまうでしょう。それだけならまだいいほうで、ことによっては武器を持ったまま山賊に鞍替えしかねませんし」

「だよね~」

 天子を守る中央の軍――禁軍に対し、地方の各州が独自に集めて編成した廂軍は、軍隊の質という意味においては禁軍よりも数段落ちるという。頭数を揃えることを最優先して集められたがゆえに、ごろつきやたちの悪い連中が多く交じっており、何かあれば賊に早変わりしかねない。

「――そうでなくても最近は、けっこう所帯の大きい賊がこの近くに根城を構えたようですからね。この石城なんか、守りがなければ真っ先に餌食にされかねませんよ」

「そりゃたいへんだ。西からは蒙古も攻めてくるし、踏んだり蹴ったりだな」

「他人ごとみたいなことをいわないでください。――ああ、でも、当分は蒙古軍の侵攻はないのではないでしょうか」

「は?」

「四川のほうで猛威を振るっていた蒙古軍は、皇帝モンケ・ハーンみずからが指揮していたのですが、その皇帝陛下が陣没してしまいましたからね。しばらくの間は、跡目争いでこの国を攻めるどころではないでしょう」

「……あんた、どうしてそんなこと知ってんの?」

「都にいた頃の知り合いと、稀にですが、今も手紙のやり取りをしているのです。ふらふらしている私と違って、きちんと宮仕えをしている友人からの情報ですから、まず間違いないと思いますよ」

「へえ」

 獅伯にとっては、蒙古というのは北方からやってきた荒っぽい騎馬民族という程度の認識で、彼らもまた皇帝を戴いているという話も、その皇帝がモンケ某という名前だということも、きょう初めて聞いたくらいだった。ただ、それは決して獅伯がことさら世間知らずだということではない。程度の差こそあれ、この国に住む大部分の人々は、北辺を脅かす蒙古という存在に対し、そのくらいの知識しか持っていないのである。

 香ばしく炒めた兎の肉を頬張り、獅伯はふと眉をひそめた。

「――そもそも蒙古ってのはどのくらい大きい国なわけ? この国の倍くらい?」

「獅伯さんは、この国が、昔は今よりずっと広かったということはご存じですか?」

「え? そうなの?」

「今から二〇〇年以上も前、このそうの国は、やはり北方からやってきた遊牧民族王朝のりょうに攻められ、淮河より北の国土を奪われてしまったのですよ。そしてその遼は、これもまた別のきんという遊牧民の国に滅ぼされ、さらにその金を滅ぼしたのが蒙古です」

「つまり――蒙古ってとっても強い?」

「強いでしょうね。高麗こうらい吐蕃とばん大越だいえつ西夏せいか――この宋の周りにはそうしたたくさんの国々がありましたが、今はもうすべて蒙古に吞み込まれてしまっています。蒙古帝国の国土は今の宋の一〇倍……もしかしたらもっと広いかもしれません。兵力でいうならおそらくそれ以上の差があるでしょう」

「そりゃあまた――」

 そこから何と続ければいいか判らず、獅伯は言葉を吞み込んで料理を堪能することに集中した。

「皇帝のモンケが陣没していったんは退却したとはいえ、次の皇帝がこのまま我が国を放っておくとは思えません。近いうちに、蒙古はまたやってくるでしょう。本当なら、今は蒙古の次の襲来に備えて兵をやしない、守りを固めるべき時期なのです。……しかるに現実はどうです? そこかしこに賊たちが跋扈し、国を守るどころか人々の暮らしを脅かしている。刃を向ける相手が違うとは思いませんか?」

「ん~……学のないおれにはよく判らないけどさ、国が亡びる時ってそういうもんじゃないの?」

「獅伯さんはそれでもいいかもしれませんよ。あなたほど強ければ――あー、自分の腕一本で、どこででも生きていけるでしょうし」

 たんと音高く碗を置き、文先生は獅伯を上目遣いに睨んだ。早くも酔いが回り始めているようで、目の周りが赤くなってきている。

「しかしですねえ、その、えー、大半の人間というのは……あれだ、あれです、あなたのように、強くはないのですよ」

「だろうね。おれは格別に強いから」

「そういう……いわば、ふつうの人間にとっては、祖国の滅亡というのは、あー……」

「先生、真面目な話がしたいなら素面の時にしなって」

 そういいながら、獅伯は文先生の碗にあらたに酒をそそいだ。のほほんとしているように見えるこの書生も、その胸の奥に、今の時代に対する鬱勃とした思いをかかえているのかもしれない。期せずしてそれを垣間見た獅伯は、かたわらに立てかけたおのが愛剣の鞘を見つめた。

 文先生がいうように、たとえこの国が蒙古に敗れ、異民族に支配されようとも、それで獅伯の生き方が大きく変わるとは思えない。宋の皇帝が蒙古の皇帝に取って代わられようが、獅伯はこれまでと同じように旅を続けるだろう。そんなわがままを押し通せるのは、やはり文先生がいうように、獅伯にそれだけの強さがあるからだった。

「……あんたには少し聞きたいことがあったんだけどな」

「ふぁ?」

「いいよ。酔いが醒めてからでなきゃ聞いても仕方ないし」

「それはどうも……あー、これです、これ。これをね、獅伯さんにも、えー、召し上がっていただこうと――」

「だったらひとりでかかえ込まないでくれる?」

 鵞鳥がちょうの肉で作った照り焼きを文先生から奪い返し、獅伯は苦笑した。

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