第二章 石城より ~第一節~
谷川のせせらぎに冬の木漏れ日が跳ね返り、鮮烈な輝きとなって
なけなしの路銀と昼飯の
「それじゃ先生、おれ、そろそろ行くよ」
「そうか……まあ、おめえの人生だしな。いまさら止めようとは思わねえよ」
獅伯の師匠は、川に向かって突き出した大岩の先のほうに腰を下ろしている。いつもこうして何刻も釣り糸を垂れているが、魚が釣れることは滅多にない。おそらく師匠の中では魚を釣ることが目的なのではなく、釣り糸を垂れながらなにがしかの思索にふけることこそが目的なのだろう。
「しかし、餞別のひとつもねえってのはさすがに薄情だな」
大きなあくびを噛み殺し、師匠は獅伯を振り返るでもなく、何度も小さくうなずきながらそういった。
「――なら、いくつか忠告だけはしといてやるか」
「は? 忠告?」
「おめえは図体こそ人並みにでかくなりやがったが、世の中のことをまだほとんど何も知らねえだろう?」
「そりゃまあ……教えてくれる親切な大人が周りにいなかったし」
「それだよ」
魚に餌を取られた釣竿を上げ、師匠は肩越しに弟子を振り返った。
「――まずもっておめえは目上の人間に対する態度がなってねえ。おまけに持って生まれた不遜さってぇか、ふてぶてしさってぇか……とにかく、人と話す時は充分に言葉を選べよ? でねえと無用のいさかいを生みかねねえからな」
「そうかな? おれは別に自分が不遜とは思わないけどなあ」
「世の中に出りゃあすぐに判る。ふつうの人間はもっと謙虚なもんだ。――まあ、謙虚でありゃあいいってわけでもねえが、少なくとも他人との軋轢は生みにくいだろうな」
「……先生のいうことはよく判らないけど、まあ、一応気をつけるよ」
「ったく……それともうひとつ」
「まだあるわけ?」
「むしろこっちのほうが重要だ。……くれぐれも女には気をつけろよ?」
「は……? 女?」
「いくら剣の腕が立とうが、そもそも男は女にゃ勝てねえようにできてんだよ。おめえが自分の本懐を遂げてえんだったら、できるかぎり女にゃ近づくな。……この意味は判るな?」
「まあ、何となくは」
「ほんとは判ってねえだろ? ……まあ、この世の中、口でいっても理解できねえことはままあるからな」
竿を片づけ、師匠は大岩の上から軽やかに飛び降りると、腰からぶら下げていた瓢箪を差し出した。
「いつかまた会おうとはいわねえ。せいぜい達者でやれ」
「はい」
たぷんと心地よい重みを感じさせる瓢箪を受け取り、獅伯は師匠に背を向けて歩き出した。
☆
歩き出した途端、川岸の丸い石に足を取られて転びそうになった――と感じた刹那、目が覚めた。
「…………」
もともと獅伯は眠りが浅い。かすかな物音や振動で目が覚めてしまう。この時、獅伯が目を覚ましたのは、下のほうで何かが動く気配を察したせいだった。
「……ああ、そうか」
部屋の中は暗く、窓から射し込む月明かりも弱々しい。夜明けまではまだ間があるのだろう。そこまで考えたところで、獅伯は自分が上等な布団にくるまって横たわっている理由を思い出した。
結局、獅伯は
ほかの用心棒たちが、“
「まさかなあ……」
獅伯は寝ている時と変わらない静かな呼吸を繰り返し、じっと耳を澄ました。
獅伯が寝ているこの部屋は、閉月楼の三階にある。獅伯が感じたのは、階下――一階の扉がそっと押し開かれ、また閉ざされるかすかな音であろう。
獅伯が真っ先に疑ったのが、大人の娘の
が、獅伯はすぐにそれを否定した。楼閣の一階に入り込んできた何者かは、明らかに武術のたしなみがある。箱入り娘の蘭芯に、ほとんど足音を立てずに動き回るような芸当ができるとは思えなかった。
となると、次に思いつくのは例の用心棒たちだった。
「勘弁してよ~、も~……」
かつて師匠は獅伯の性格を不遜と評したが、少なくとも用心棒たち相手には、そこまで無礼な態度を取った覚えはない。とはいえ、獅伯が謝礼として少なくない粒金を受け取ったことは、あそこで酒を飲んでいた者であればみんな知っている。もともと腕っ節には自信のある男たちが、それを狙って用心棒から盗人に鞍替えするということも、まるでないとはいいきれまい。
賊か盗人か、とにかく何者かが階段を上がってくる気配を察した獅伯は、わざと聞えよがしな寝息を立てながら寝返りを打ってみた。が、それで躊躇したのはほんの少しの間だけで、賊はとうとう獅伯が寝ている三階まで上がってきてしまった。
わずかな足音が窓辺のほうに移動していくのを感じ、獅伯はついに声をあげた。
「――はっきりいわれないと判らないわけ?」
「!」
ぎょっとしたように賊の動きが止まる。獅伯は静かに身を起こし、
「誰だか知らないけど、おれも眠いし、このままおとなしく引き下がるなら見なかったことにしてやってもいいんだけど?」
獅伯の視線の先にいたのは、目の部分だけをさらした全身黒ずくめの――おそらく男だった。腰に短めの
「おれが大人からもらった金を狙ってるんだったらやめといたほうがいいって。確かに小金じゃないけど、だからって命を懸けるほどの――」
獅伯のその言葉が終らぬうちに、賊がはじかれたように動き出した。ただし、獅伯がいる寝台のほうへではなく、剣と瓢箪、それに錦の袋が置かれた窓辺の卓のほうへ、一足飛びに踏み込んでいく。
「やめとけっていったよね、おれさあ!」
布団を跳ね上げ、獅伯はすでに掴んでいた
「ぐっ!?」
賊のこめかみのあたりに当たった枕が粉々に砕け散る。賊が苦痛の呻きをもらしたその隙に、獅伯は剣の柄から垂れた朱色の房を掴んで引き寄せた。
「……最後の忠告。今すぐ出てかないと、ホントに命を落とすはめになるよ?」
低い声で告げた獅伯だったが、その忠告があまり意味をなさないであろうことをうすうす感じてもいた。頭を振りながら体勢を立て直した賊が、殺意をみなぎらせて柳葉刀の柄を握り締めるのを見たからである。
「……おれは悪くないからね」
賊が刀を振り上げると同時に、獅伯は布団を放り投げた。
「む――がっ!?」
一瞬視界をふさがれた賊を、窓のほうへと無造作に蹴り飛ばす。派手な音とともに朱塗りの格子が砕け散った。
「――へえ、それなりに使えるみたいじゃん」
虚空に放り出された賊は、三階の高さから無様に落ちて絶命するようなこともなく、咄嗟に軒を掴んで屋根の上に移動したようだった。
賊を追って屋根に登った獅伯は、存外に強いしっとりとした夜風に目を細めた。夕刻まで未練がましく降っていた雨の名残で、閉月楼の瓦はまだ濡れている。傾斜もあり、足場としては決してよくはない。が、それをものともせず、獅伯は剣を背中に負って左右に視線を走らせた。
「仲間はなし、か……」
賊の仲間が待ち伏せしている可能性も考えないではなかったが、どうやらそれは思いすごしだったらしい。右手で刀を構えた賊は、肩で大きく息をしつつ、左手で脇腹を押さえている。獅伯が布団越しに蹴りつけた際に、肋骨にひびでも入ったのだろう。
「無傷でもおれに勝てないのにさ、その上あばらが折れたってのにまだやる気なわけ? 観念して得物を捨てなって」
今度こそ本当に最後の警告のつもりでそういったが、賊がおとなしく刀を捨てる気配はなかった。
「自分と相手と、どっちが強いか見極めるなんて、おれたち剣士が生きてく上では一番重要な才能なのに、あんたにはそれが欠けてるんだね。……じゃあ仕方ないか」
ぼそりと呟き、獅伯は走った。背中の剣を抜き放ち、まばたきひとつの間に賊の眼前へと踏み込んでいく。
「!」
すでに刀を構えていたはずの賊は、獅伯の速さにただ驚くばかりで、刃を合わせようという動きさえ見せられなかった。たとえ脇腹を痛めていなかったとしても、おそらく獅伯の動きには反応できなかったに違いない。
「が……!」
賊の右肘が血を噴く。獅伯としては命まで奪うつもりはなく、ただ刀を取り落とさせるだけでいいと思っていた。しかし、往生際の悪い賊は鮮血をまき散らしながら無茶苦茶に刀を振り回し、挙句、その拍子に瓦を踏み割って大きく身体をかしがせ、そのまま屋根から転げ落ちてしまった。
「あ……馬鹿!」
獅伯は慌てて軒先に身を乗り出して地上を見下ろした。
「うわ~……あんなお粗末な腕で欲かくから……」
池のほとりに倒れていた賊は、打ちどころが悪かったのか、もはやぴくりともしていない。
「あ~らら」
切っ先にこびりついた血をぬぐい、剣を鞘に納めて屋根から飛び降りた獅伯の背に、軽い笑いを含んだ女の声が飛んできた。
「――何だい? 何がどうなるとこんなことになっちまうのさ?」
「おれにも判んないよ」
首筋に手を当て、獅伯は溜息交じりにかぶりを振った。
「――そもそもおれ、こいつが何者かも知らないし」
「ふぅん? ……ああ、見覚えがあるねぇ」
提灯をかかげてやってきた
「屋敷で世話になってる用心棒のひとりだよ。わたしも名前までは知らないけどね」
「やっぱりそうか」
「寝込みを襲われたのかい? さては大人からもらった金が目当て……か」
「そんなところ」
「あの大人もねえ、金離れはいいんだけど、見栄を張りたがるというか、せめて金を積むならほかの人間のいないところでやればいいのにさ。これ見よがしに金を積むから、よからぬことを思いつく輩が出ちまう」
「そういえば」
ちょうどいい機会だと思った獅伯は、死体を見てもまったく動じるところのない月瑛に尋ねた。
「――あんた、どうして昼間はいなかったわけ?」
「あん?」
「あんた、お嬢さまの護衛として雇われたんでしょ? なのに昼間はどうしてお嬢さまに同行してなかったわけ?」
「あー……そこはまあ、ね?」
月瑛はどこかばつが悪そうに苦笑した。
「今回はその、行き先がねえ……」
「行き先?」
「今、この
「けど?」
「あいにく、こう見えてわたしは凶状持ちなのさ。そのせいで、武昌みたいな大きな街には行きづらくてねえ」
「何だ、盗みでもやったの? それともやっぱり人を斬ったとか?」
「師匠から破門されてるあんたにいわれたくないねえ。そのへんはあんただってご同様なんじゃないのかい?」
「そりゃそうか」
軽く嘆息し、獅伯は小さく身震いした。
ようやくさっきの騒ぎに気づいた用心棒たちが、明かりをかかげて庭に出てくる気配があったが、それはとりもなおさず、月瑛以外の用心棒たちの腕が二流だという証明でもあった。
「……おれは寝床に戻ってもうひと眠りするよ。あんたも戻ったら? どうせあんたはあの鈍い連中と違って、お嬢さまの部屋のそばで寝起きしてるんでしょ? あんまり離れてるのはよくないんじゃない?」
「ああ、判ってるよ」
月瑛はそういってきびすを返し、わらわらとやってきた用心棒たちに何か声をかけ、すぐに姿を消した。
閉月楼に戻ってふたたび布団にくるまった獅伯は、もしさっき気配を殺して踏み込んできたのがあの男ではなく、月瑛だったらどうなっていただろうかと、ふとそんなことを考えた。
☆
石城から少し北に向かった峠道の途中に、旅人相手にほそぼそとあきなっている酒家がある。そこに、いつの頃からか、碗酒を一杯だけ飲んでさっさと帰っていく奇妙な客が来るようになった。十日に一度、もしくは月に二度ほど、それも夜更けや朝一番の、ほかに客がいないような頃合いばかりを見計らって、いずこからかふらりとやってくるのである。
今夜もその客は、亭主の
「……陰気な野郎だな」
店の奥でじっと様子を窺っていた男は、客が帰るなり出てきて、空の碗とその隣に置かれた数枚の銅銭を一瞥すると、戸口のところへと移動した。
さっきの客がかかげた提灯の明かりが遠ざかっていくのがぼんやりと見える。峠道を登っていくということは、この山中のどこかに住まいがあるのか、あるいは峠の向こうの村にでも住んでいるのか――。
「でやしょ? たまに来る客なんですが、酒を一杯注文する以外にゃ何もしゃべりませんし、とにかくまあ変わったお人で……」
そんな変わり者でも、きちんと銭を払っていく以上は客には違いないし、ほかの常連たちに迷惑をかけているわけでもない。宜泉は飲み代を懐にしまい、碗を片づけると、卓の上を布巾で拭いた。
「月に二、三度来るっていってたな。住まいはどこだ?」
「知りませんよ。……ま、このあたりじゃないのは確かでしょうがね」
「ふぅん……」
男は店の戸口に寄りかかり、古い傷の入った顎を撫でていた。すでに提灯の明かりも見えなくなっている。
「何です? まさか旦那、今度はあんな痩せっぽちの男を狙ってるんですかい? あの客はどう間違ったって金なんか持ってませんぜ?」
椅子をひっくり返して卓の上に並べ、宜泉は苦笑した。どこか疲れたようなその笑みからは、ようやく店が閉められることへの安堵が窺える。
「どうせ狙うならもっと金を持っていそうな旅人を狙うさ」
「まあ、最近はめっきりそんな獲物にもお目にかからなくなりましたがねえ。
「俺が知るかよ。お頭なら何かご存じだろうが――まあいいや。今夜のところは顔を覚えただけでよしとしとくぜ」
したり顔でうなずいた男は、宜泉に小さな粒銀をひとつ投げ渡し、
「――さっきの野郎がまた店に現れたら、すぐに俺たちに知らせろ。いいな?」
「へ、へい」
粒銀を握り締めた手を胸に添え、宜泉は何度も頭を下げた。
「それと、新しい獲物の情報も忘れんなよ」
「判ってやすよ、へい」
男は乗ってきた馬の鞍に酒を満たした甕を左右ひとつずつくくりつけると、さっきの客とは逆に、峠道をゆっくりと下っていった。
「あれが例の刺客とやらだとすると……劉大人も、とんだ奴に見込まれたもんだ」
馬上で器用にあぐらをかき、男は顎の傷を何とはなしに撫でながら、ひとり小さく笑みをもらした。
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