第一章 血雨にけぶる ~第三節~


          ☆


 石城県せきじょうけんの県治が置かれている石城の街は、世情おだやかならざるこの時世にあって、驚くほどに平穏なところだった。数は少ないとはいえ、まがりなりにも当地を守る兵士たちがおり、城壁にはこぼれたところも少なく、そこに住む人々はまっとうな暮らしを送っているようだった。

「確かに――あー、うん。このあたりではまあましな部類に入る街だと、ええ、思います、はい」

 酒に酔ったぶん先生は、やたらと「あー」だの「うー」だの、会話の中に意味のないひと言を織り交ぜてくるようになった。酒が好きだというわりにはあまり強くはないようで、小さめの碗に三杯も飲んだところですでに顔を真っ赤にしている。

「もっとひどい街や村を……これでも私は、あー、何ですか、ええ、旅の途中でね、その……目にしてきましたから。――まあ、こんなことは、私以上に長く旅をしているりんどのには、いわ、いー、いわず……」

「いわずもがな」

「それです、ええ」

 馴れ馴れしげに獅伯しはくの肩を叩き、文先生はしゃっくりをした。

 大人たちを護衛して石城にやってきた獅伯は、そのまま大人の屋敷へと招待された。前もって文先生から、りゅう大人は石城県随一の富豪だと聞かされていた獅伯だったが、その羽振りのよさは獅伯が考えていたよりもはるかに豪勢なものだった。

 屋敷がやたらと広いのはいうまでもなく、敷地の中にはいくつもの庭園や池、離れや楼閣などがあり、そのすべてを案内してもらうだけでも一日では終わらないだろう。おまけに、大人は街の内外にも無数の別宅を持っているのだという。

「あるところにはあるんだなあ」

 開け放たれた朱塗りの扉の向こうに広がる夜の庭園を見やり、獅伯は上等な酒をあおった。大人が特別に作らせているという蓮の香りがする酒はよく冷えていて、雨上がりの蒸し暑さを忘れさせてくれる。そのさわやかな飲み口のせいで、ついつい飲みすぎてしまいそうだった。

「男同士で何を引っついてんのさ?」

 獅伯と文先生が横並びで飲んでいた卓に、あの月瑛げつえいとかいう女剣士がやってきた。

「男同士も何も、そもそも男しかいなくない、この部屋? 女はあんたしかいないように見えるけどね、おれには」

 ことさら声を抑えるでもなく獅伯がいうと、同じ部屋に居合わせた男たちの視線がいっせいにこちらに向いたのが判った。

 この離れでは、劉大人が集めた食客しょっかくたちが寝起きしているという。文先生もそのひとりだそうだが、聞けば先生以外は腕の立つ武術家で、つまりは劉大人があちこちからかき集めてきた用心棒たちらしい。

 剣呑な空気をまとったそんな男たちが、特に言葉を交わすでもなく、この広い部屋に集まって思い思いに酒を飲んでいるというのは、ある意味、異様な光景ともいえる。ここでは大人が供してくれるただ酒を飲む以外に、特にすることがないといえばないのかもしれないが、だとしてもやはりまっとうとは思えなかった。

 ざっと数えただけでも一〇人以上いる怖い目をした男たちを一瞥し、獅伯はさすがに声を低く抑えて呟いた。

「……こんなにたくさんの用心棒が必要になるってさ、いったいどういう商売をしてきたわけ、あの大人は?」

 こういう時世だからということとは無関係に、莫大な富を持つ者であれば、それを狙う不埒な輩に備えて屋敷に用心棒を置く、というのも判らなくはない。が、それにしても――と獅伯は思う。

「まあ、あんたもうすうす判ってるとは思うけどねえ」

 勝手に獅伯の隣の席に座り、月瑛は自分の碗に酒をそそいだ。

「あれは善人じゃないんだよ」

「大人が?」

「ほかに誰がいるってのさ? 一代で財をなす人間なんてのはねえ、よほどの才覚があるか、腹黒い人間か、そのどっちかに決まってるんだよ」

「あんた、大人の世話になってるくせにひどいいいぐさじゃない、それ? 何か証拠でもあってそういうこといってるわけ?」

「証拠なんかないよ。……ただね、あれが善人か悪人かでいったら、じゃああんたはどっちだと思う?」

「そりゃまあ……うん、善人じゃないよねえ」

 斬り殺された用心棒たちの亡骸や動けなくなった馬の始末など、もろもろ片づけてから顔を出すといっていた大人は、まだ現れる様子がない。だから獅伯も、さっきはいうにいえなかった本音を素直に吐き出していた。

「ほらね」

 月瑛は唇を吊り上げ、ふふんと笑った。

 獅伯も伊達に長く旅をしてきているわけではない。世事にはうとくても、それなりに多くの人間を見てきた。だから、理屈ではなく何となく肌で感じることもある。

 そんな獅伯の嗅覚にしたがえば、劉福民りゅうふくみんはあまりかかわるべき人間ではなかった。やはり根拠などなかったが、それでも獅伯は、劉大人が何かしら後ろめたいものをかかえて生きている人間だということを直感的に感じ取っていたのである。

「――そこまで判ってて、あんたはどうして雇われてるわけ?」

「気前がいいからさ」

 獅伯の問いに月瑛が即座に切り返す。

「金払いがいいから雇われてる。用心棒稼業にそれ以外の理由が必要かい? あんたはどうなのさ?」

「用心棒なんかやったことがないから判らないよ。興味もないし。それに、どうしてもっていうからこうして立ち寄ったけど、どうせあしたにはおさらばするんだ、大人が善人だろうと悪人だろうと別にどうでもいいよ」

 そもそもここで厄介になっている用心棒たちは、大人を狙っているのがあれほどの手練れだということを知っているのだろうか。獅伯が見るかぎり、この部屋にいる用心棒たちの中で、あの刺客とまともにやり合えそうなのは月瑛くらいしかいない。ほかの男たちの力が月瑛より数段落ちるということは、実際に剣を合わせなくとも判る。

「それをあの大人が許すかねえ?」

 獅伯の碗に酒をそそぎ、月瑛は薄く笑った。

「は? どういう意味?」

「さっき文先生から聞いたけど、あんた、例の痩せっぽちの剣士と互角に渡り合ったんだって?」

「やりたくてやったわけじゃないけど、ま、おれってそれなりに強いからね」

「どっちにしろ、あんたはここの用心棒どもよりはるかに使えるってことさ。私が大人の立場なら、是が非でもここへ引き留めておくけどねえ」

「何をいってんだか……おれにはここにとどまる理由なんかないよ」

「だからさ、大人が手を回して、そうなるように仕向けるかもしれないってことだよ」

「あー……それは私も感じましたねえ」

 ちびちびと酒をすすっていた文先生が、ふと思いついたように首を突っ込んできた。

「ここへ来る時に――えーと、あれですよ、ほら。わざわざ蘭芯らんしんさんを、獅伯さんの馬に乗せてったじゃないですか」

 いつの間にか文先生からの呼び方が、林どのから獅伯さんに代わっている。酔ったいきおいで勝手に距離を詰められている気がした。

「だってあれは、先生や大人が他人を乗せていくのは苦手だって――」

「あれは明らかに、その……口実ですよ。大人はいうほど馬のあつかいが下手じゃありませんし、えー、私だって、人並みにはあつかえます。もちろん獅伯さんほどではないですけどね。それでも、蘭芯さんを乗せていけないってほどじゃありません」

「じゃあどうしてあんなこといったわけ?」

「私が思うに……まあ、言葉は下世話ですが、大人としては、蘭芯さんと獅伯さんをくっつけようと目論んでるんじゃないんですか?」

「……はあ?」

「あんたを娘の婿にするとまで考えてるかどうかはともかく、差し当たって、蘭芯とあんたがくっつけば、あんたはあの子を置いてここを出ていきにくくなるじゃないか。あんた、そういう性格じゃないのかい?」

 月瑛がこちらの胸中を探るかのようなまなざしを向けてくる。獅伯は空にした碗を卓に置き、あからさまに眉をひそめた。

「……もしおれがそういう人間だったとして、仮にも父親が、自分の娘を使ってそんな真似する? おれならしないよ?」

「あんたはともかく大人はするだろうねえ」

「しますね」

 獅伯の疑問に、月瑛と文先生が同時にうなずく。さっきまでどこかにやついていた月瑛の顔から、いつの間にか笑みが消えていた。文先生のほうも、まるで一気に酔いが醒めたかのように、手にした碗をじっと冷たい目で見つめていた。

「――もともと劉福民はここの人間じゃあない。戦火を逃れるためとかいって、娘と店ではたらく連中を引き連れて、よその土地からここに移り住んできたんだよ。ほんの三年ほど前にね」

「そして、この三年の間に石城で一番の実力者になったそうです。もちろん大人の商売の才覚がすぐれていたってこともあるでしょう。……でも、本当の理由はほかにあるんですよ」

「……何だよ、やたらもったいつけるね、あんたら」

「これはこの屋敷ではたらく下女たちからこっそり聞いたことなんですけど……石城にやってきた大人は、当時の知県閣下にたっぷりと袖の下を渡すのと同時に、蘭芯さんを妾として差し出したらしいんです」

「……はぁ? いくつなのさ、あの子?」

「一七――だったかな? だから、その頃はせいぜい一四、五だったろうねえ」

「確かひとり娘っていってなかったっけ?」

「ああ。そのひとり娘をここの実力者にあてがって、うまいことこの街での地盤を作ったってことさ、あの大人はね」

 眉間に小さなしわを寄せ、月瑛は吐き捨てるように呟いた。父が娘の縁談を決めるのは今の世の中ではごく当たり前のことだし、良家や資産家であればなおのこと、そこで娘の意志が尊重されることなどほとんどない。が、剣を背負って自分の力だけで世の中を渡っている月瑛からすると、娘を――女を道具のようにあつかう劉大人のやり口は、他人ごととはいえあまり気分がいいものではないのだろう。

「……いや、ちょっと待ちなよ、ねえ?」

 なるほど――と月瑛に同意しかけて、獅伯ははたと気づいた。

「知県の妾に差し出された娘がどうしてこの屋敷にいるわけ? おまけに、それを今度はおれとくっつけようって――」

「出戻ったんですよ、蘭芯さんは」

「出戻り?」

「知県閣下が亡くなっちまったのさ。……輿入れのその日の夜に」

「は?」

「医者の見立てじゃ、心の臓が弱ってぽっくり逝っちまったって話だけどさ。本当のところがどうだったのかなんて、今となっちゃ知りようもないしねえ。――とにかく、あの子は輿入れの日に未亡人になって、喪が明けるのも待たずにすぐに実家へ出戻ってきたってわけ」

「…………」

「そういうわけだから、たとえあんたが蘭芯とくっついたって、さほど問題にはならないってことさ」

「いっとくけど、おれにはそんな気ないよ?」

「この場合、重要なのは獅伯さんの考えではなく、大人のお考えですよ」

「……冗談じゃない」

 獅伯は碗を放り出すと、床に置いてあった包みを引っ掴んで立ち上がった。

「おや、もうご出立かい?」

「おれにはやらなきゃいけないことがあるんだ。こんなところで足止めを食らうなんてごめんだよ」

 もともと身軽な旅である。壊れかけの傘は月瑛の一撃で完全に壊されてしまったし、今となっては小さな包みと瓢箪がひとつずつ、それに背中の剣しか荷物はない。

 派手にこぼしながら空の瓢箪に酒を詰め、獅伯は文先生にいった。

「大人には、急用を思い出して出立したって伝えといてくれ。謝礼はこの酒だけで充分だって」

「あー……ご自分で伝えるほうが早いと思いますよ?」

 獅伯の袖を軽く引き、文先生が庭のほうを指さした。見れば、提灯を持った下女を先に立てて、劉大人と蘭芯が曲水に沿ってこちらへやってくる。

「ほんのちょっとの差だったねえ。残念」

「んぐぐぐぐ……!」

 にやけ笑いを見せる月瑛に軽い怒りを覚え、獅伯は憤然と椅子に腰を下ろした。こういう時、本当に強引な男なら、たとえ大人が現れようともさっさと出立するのだろうが、あいにくと獅伯はそこまで傍若無人にふるまえないのである。

「どうもお待たせいたしました。ささ、獅伯どの」

 泥で汚れた衣を着替えて現れた劉大人は、池のほとりに建つ大きな四阿あずまやへと獅伯を招き入れた。かかげられた立派な額には“瑞香軒ずいこうけん”とある。

「いちいち仰々しいね、まったく……」

 灯篭の明かりに淡く照らし出された四阿の卓の上には、屋敷の女たちが運んでくる料理の皿がところせましと並べられていった。ほかの用心棒たちとは明らかに待遇が違うが、そこに文先生たちがいっていた大人の思惑が透けて見えるようで、どうにも居心地が悪い。

「大人さあ、おれはその――」

「さあ、どうぞ遠慮なくおかけください」

 獅伯の言葉を上から塗り潰すように、劉大人がそう繰り返す。仕方なく、獅伯が大人の正面の席に腰を下ろすと、蘭芯が何もいわずにその隣に立って酌を始めた。

「いや、おれは勝手に手酌で――」

「どうか遠慮やお気遣いは無用にお願いしますぞ、林どの。我ら親子、林どのがおらねば今頃は野辺に躯をさらしていたはずなのですから。――ああ、そうそう、肝心なことを忘れておりました。まずはこちらをどうぞ」

 劉大人は袖の中から紫色の錦の袋を取り出し、獅伯の目の前に置いた。どちゃりと金属同士がこすれ合う重めの音からして、おそらく中身は粒銀――命を救われたことに対する礼金のつもりなのだろう。そう見当をつけて獅伯が袋の口を開けて確認してみると、みっしりと詰まっていたのは銀ではなく金だった。

「……嬉しくないとはいわないけどさ、さすがに多すぎない、これ?」

「決して多いとは思いませんぞ。我ら親子の命の代価ですからな。せめてもの恩返しと思って、どうかご笑納ください」

「そういうことならもらっとくけどさあ」

 錦の袋を懐にしまい込み、獅伯はずけずけと尋ねた。

「――それはそうと、あの刺客はいったい何者なわけ? あんた、何をやらかしてあんなのに狙われてんの? 尋常の使い手じゃないでしょ、あれは」

「それが、実は私にも見当がつきませんで……」

「自分でも判らない? それってつまりあれ? 命を狙われる心当たりが多すぎるって意味?」

「はっはっは……」

 大人は小さく笑って明言を避けたが、さすがに今の質問には表情が引きつっているようにも見えた。

「おれには商売のことは判らないけどさ、人に恨まれて命まで狙われるなんてたいへんなんだね」

 皮肉交じりに酒をあおると、空になった酒器にすかさず蘭芯が酒をそそぎ、皿に肴を取り分けてくれる。自分のひとり娘にこうして客人の酒の相手をさせるというのは、やはり大人にそういう意図があってのことなのかもしれない。いずれにしろ、居心地がよくないことに変わりはなかった。

「――時に、林どのはどちらのお生まれでしょう?」

「秘密」

「は?」

「じゃあ四川てことでいいよ」

「それはどういう……」

「蒙古軍が攻めてきたんで四川から逃げてきたんだよ。家族はもういない。……それで察してくれない?」

「そ、そうでしたか。これは立ち入ったことを……」

 大人は額に浮いた汗を袖口でぬぐい、ぎこちなく笑った。

「では、どこかのご親戚か知人のところへでも向かう途次でしたか?」

「ってわけでもないんだけどね。特に頼れる知り合いもいないし、今はとりあえずあてもなくぶらついてる感じかなあ」

 そう答えてから、獅伯はすぐに自分の失敗に気づいた。軽い酔いのせいで口がすべりやすくなっていたとはいえ、馬鹿正直に答えてしまったのはまずかった。

「それでしたら林どの」

 さっそく劉大人が身を乗り出し、伏し拝むようにしていった。

「――特に急ぐ旅ではないとおっしゃるのなら、このまましばし我が家へご逗留いただくわけにはまいりませんか?」

「は? いや、まあ――」

 これも商売柄なのか、大人は人の言葉尻を掴むのがうまく、押しも強い。さっき受け取った懐の金がいまさらのように重く、まるで足枷のように感じられた。

「あのようなことがあったばかりで、私も娘も心細い思いをしております。ですが、もし林どのにここへお留まりいただければ、親子揃って心安らかにすごすことができるでしょう」

「いやでもさ、あてがないとはいったけど、おれの場合は旅をすること自体が修行というか――」

「そこをどうにか! 半年……いや、せめて三月! どうか我が家にご逗留いただけませんでしょうか? もちろんその間は何ひとつ不自由はさせませんし、ご出立に当たっては、またあらためて餞別など用意させていただきます。いかがでしょう、林どの? どうか我ら親子を救うと思って――」

 大人はやたらと親子という点を押し出してくる。正直、刺客に襲われて命を落とすのが大人だけだというのなら、獅伯もさほど胸は痛まなかっただろうが、蘭芯までが巻き添えになると思うと、すげなく突き放すのもはばかられる。特に、さっき月瑛たちから少女の過去を聞いてしまった今では、このまま捨て置くのも気が引けた。

 深い溜息をつきながら、獅伯がふと離れの一室を振り返ると、まるで四阿でのやり取りが聞こえていたかのように、月瑛と文先生がこちらを見て面白そうに笑っていた。

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