第一章 血雨にけぶる ~第一節~

 降り続ける雨のせいで、暗い空と遠くの山の濃い緑が、紙に垂らした墨のようににじみ、その境界線を曖昧なものにしている。すでに南天をすぎているであろう太陽は厚い雲の向こうに隠れて見えない。

 きょうは朝からずっとこんな空模様だった。江南の春とはいえ、こうも雨が続けば冷えもする。獅伯しはくはわずかに身震いし、腰に下げていた瓢箪に手を伸ばして、そしてもうそれが空であることを思い出した。

 もう何刻もの間、そぼ降る雨の帳の下、獅伯は川の流れに寄り添う土手の上の道を歩いている。水嵩の増した流れの上を、西へ東へと無数の小舟が行き交っているところを見ると、さほど遠くないところに街か何かがあるのかもしれない。

「……かなり来たはずなんだけどな」

 少し前、四川しせんのほうから蒙古軍が攻め寄せてきた。蒙古というのはこの宋の国の北にある騎馬民族の国だと聞いた覚えがあるが、それがなぜ北からではなく西から攻めてくるのか、獅伯にはよく判らない。

 いずれにしろ、西から蒙古軍が攻めてきたのは事実だった。その戦の趨勢までは獅伯の知るところではないが、獅伯がこうして東に向かっているのも、少しでも戦火から離れるためである。

 江陵をすぎるあたりまでは、荷車に家財道具を積んで逃げる人々もそれなりに多く見られたが、きのうあたりからそうした難民の姿もとんと見なくなっていた。蒙古軍が来るなら大きな街道を選ぶだろうという獅伯なりの判断で、少し前から長江の支流沿いの裏道を選んで東へ向かうようにしたからかもしれない。

 ただ、そのせいで、自分が今どのあたりにいるのか見当がつかなくなっていた。単純に歩いた距離だけで考えるなら、とっくに揚州ようしゅうに入っていてもおかしくはないのだが、地図の一枚も持っていない獅伯には確かめようもない。

「おいおい……」

 いよいよ雨のいきおいが増してきた空を破れ傘越しに一瞥し、獅伯は路傍をいろどる柳の木の下にしゃがみ込んだ。

「あ~……ホント空じゃん」

 瓢箪をひっくり返し、てのひらに垂れてきた酒の雫をなめすすって、獅伯はぼやき交じりに呟いた。

「……誰か通りかかってくれよ~、も~」

 都合よく近場の村の人間でも通りかかってくれれば、一夜の宿にありつくこともできるかもしれない。このあいにくの空模様ではそれも難しそうだが、食うものも食わずに一日中歩き続け、疲労困憊しきった今の獅伯には、もはや立ち上がることすら面倒だった。

「――おっ?」

 腰を上げる気力もなく、背中を丸めてぼんやりと雨音を聞いていた獅伯は、そこにかすかな馬蹄の音が交じり始めたことに気づいた。

 西のほうから、無数の馬が近づいてくる。それも二頭や三頭ではない。おそらく一〇頭ほどはいるだろう。獅伯は膝に手を当ててどうにか立ち上がると、道の真ん中に立って目を凝らしてみた。

「…………」

 どうやら一団の先頭を走ってくるのは二頭立ての馬車のようだった。それも、貴人が乗るような仕立ての馬車で、それが泥水を跳ね飛ばして疾駆してくる光景は異様にも感じられた。

 さらにその馬車の周囲には、数組の人馬がつきしたがっていた。馬上にいるのは笠をかぶった男たちで、なぜかいずれも右手に剣を抜き、左手で手綱をあやつっている。

「うわ……もしかして野盗?」

 一瞬、賊たちが馬車を追いかけているのかとも思ったが、よく見てみると、馬上の男たちはしきりに後ろを振り返っている。どうやらこの馬車も男たちも、何かから逃げるために奔走しているようだった。

「ったく……」

 獅伯は首をすくめ、こそこそと土手の斜面を下っていった。土手の緑は背が高くしげっており、少しかがめば身を隠すこともたやすい。傘をたたんで息をひそめ、獅伯は馬車の一団をやりすごすことにした。

「面倒ごとは勘弁してほしいよ、ホントさあ……」

 舌打ちしながら土手の上の様子を窺っていた獅伯の視線の前で、轍に車輪でも取られたのか、走ってきた馬車が横倒しになり、斜面をすべり落ちてきた。

「――うわ!? いってるそばからそれはないんじゃないの、ねえ!?」

 そのいきおいで投げ出された御者が目の前に転がってきたのを見て、獅伯は咄嗟に飛びのいた。

「……もしもし?」

 青臭い草むらに倒れた御者は首があり得ない角度で曲がっていたが、それ以前に絶命していたであろうことは、その背中に突き立った矢を見れば明らかだった。

「こりゃまた……野盗にしてはいい腕してるんじゃない?」

 ものいわぬ死者に軽く手を合わせ、獅伯はふたたび草むらに身を隠した。

「いたたたたた……」

 獅伯がじっと様子を窺っていると、横倒しになった馬車から、ひょろりと背の高い男が這い出てきた。

りゅう大人、お嬢さん! 大丈夫ですか?」

「ううむ……な、何とか――」

 書生風ののっぽの手を借りて、恰幅のいい中年男が出てきた。さっき大人と呼ばれていたが、着ているものといい、乗っていた馬車といい、かなりの素封家らしい。

 その男ふたりに続いて出てきたのは、艶やかな衣に身を包んだ若い娘だった。その顔には怯えと狼狽の色が見える。

「大人! ご無事ですか⁉」

 少し遅れて、あの抜身の剣を持った男たちが馬ごと土手を駆け下ってきた。

「お急ぎください! 追いつかれます!」

「いや……これはちょっと無理ですよ」

 自分の尻をさすりながら馬を調べていた書生が、深刻そうな声で告げた。

「この馬、どうも脚が折れて自力ではもう立てそうにないです。馬車を引き起こしたところで、馬がこのありさまでは――」

「お、おい!」

 男のひとりが上ずった声をあげた。それにつられるように、一行の視線が土手の上へと向かう。獅伯もつられてそちらを見やった。

「ひっ……!」

 劉大人が、死ぬ寸前の鶏のような短い悲鳴をあげた。

「――――」

 青黒い雨雲を背負って、弓を構えた男が馬にまたがっていた。御者を一矢で射殺したのは、まず間違いなくあの男だろう。

 それを見て、劉大人が叫んだ。

「おっ、おまえたち! はやっ、はっ、早くあの男を――っ!」

 大人の声がかかるや否や、目を見開いていた周りの男たちがはじかれたように動き出した。おそらく大人に雇われた用心棒なのだろう、男たちは手綱を打ち鳴らし、忽然と現れた刺客に向かって馬を走らせた。

「がっ!?」

 彼らの馬が土手を登りきる前に、用心棒のひとりが胸に矢を受けて落馬した。これも一矢で絶命している。

「うわ~……」

 刺客の弓の腕前に獅伯が感嘆している間に、ほかの用心棒たちは土手を駆け上がって刺客との間合いを詰めていた。ひとり倒されたとはいえ、数でいえば一対六――用心棒たちのほうが圧倒的に有利に見える。それに、ここまで近づかれてしまえば悠長に矢をつがえている暇はない。

 しかし、明らかに不利なはずの刺客は、うろたえることなく即座に弓を投げ捨て、右手を背中に伸ばした。

「――――」

 かすかな金属音を響かせて抜き放たれた剣を見て、獅伯は目を細めた。

 次の瞬間、刺客は鐙を蹴って跳躍し、目の前の用心棒たちに襲いかかった。あの書生以上にほっそりとした瘦身からは想像もつかない速さは、まるで刃を呑んだ颶風のごとく――刺客が駆け抜けると同時に、用心棒たちが血を噴いて落馬していく。

「ぐっ、ふ――」

「ぎゃあ!」

 正直、あの刺客と用心棒たちとでは実力が違いすぎる。それなりに場数は踏んでいるようだが、それもあの刺客とはくらべものにならないだろう。

「どど、どっ――」

 馬車の陰から用心棒たちの戦いぶりを見ていた劉大人が、口をぱくぱくさせながら書生を振り返り、何かいおうとした。

 その時、書生のさらに後ろの草むらにひそんでいた獅伯と目が合った。

「そっ……そ、そこのお人!」

「……は?」

「そ、そこの御仁! 見れば剣のたしなみがあるご様子――」

「え? おれ? いやいやいや、おれはそんな、剣なんて――」

 獅伯は腰を浮かせ、懇願する劉大人の言葉を慌てて否定した。

「ご、ご謙遜をなさいますな! その、せ、背中に負っていらっしゃるそれ! なかなかの業物とお見受けいたしましたが!?」

「えっ? あ、これは、その……!」

 いまさらのように背中の剣を胸にかかえ込み、獅伯は困ったように口ごもった。

 確かに獅伯は剣が使える。それなりの腕だと自負もしている。が、だからといって誰かと斬り合いがしたいわけではない。むしろこういう面倒なこととは距離を置きたい人間なのである。

 だが、草むらをかき分けてやってきた劉大人は、煮えきらない態度の獅伯にすがりつき、伏し拝まんばかりに繰り返した。

「お、お願いします! このままでは私ども親子、揃ってあの賊の凶刃にかかることとなってしまいます! どうか、どうか……!」

「ちょ、放してよ、おっさん! 無関係な人間を巻き込むのはよくないって――」

 そもそも、この劉大人とあの刺客の間にどんな因縁があるにせよ、それは獅伯とは何らかかわりもないことだった。たまたまこの修羅場に出くわしただけの自分が、命を懸けてあんな手練れの刺客と戦う義理も理由もない。

 いっそ大人の手を振り切って、乗り手を失った用心棒たちの馬をいただいて逃げてしまおうか――獅伯の脳裏にそんな打算めいた考えが浮かんだその時、大人の後ろで、手をついて頭を下げている娘の姿が目に入った。

 劉大人が私ども親子といっていた以上、彼女は大人の娘なのだろう。見苦しくすがりつく父親の非礼を詫びているのか、それとも父と同じように助けを求めているつもりなのか、小柄な身体を震わせ、何もいわずにただ頭を下げ続けている少女のその姿に、獅伯は言葉を失った。

「け、剣士どの……」

 草むらに伏せて身を隠していた書生が、低く押し殺した声で獅伯にいった。

「――劉大人は、この石城県せきじょうけんでは知らぬ者のない素封家そほうかです。恩を売っておいて損はありませんよ? 見たところ、どうやらあなたも路銀に困っておられるようですし……い、いかがです?」

「いかがですって……そういうあんたはどうしてちゃっかり隠れてるのさ?」

「そこは、あー……その、どうかお察しください。私、筆より重いものが持てないのですよ。そんな私が出ていってどうなる問題でもないでしょう? ……ねえ?」

「いばるなよ」

 真顔でいってのける書生がおかしくて、思わず噴き出してしまう。それで毒気が抜かれたように感じた獅伯は、大仰に肩をすくめて傘を投げ捨てた。

「まったく……」

「……よせ」

 低いしわがれ声でいい放った刺客の周囲には、七人の用心棒が転がっていた。劉大人たちとの短いやり取りの間に、残っていた用心棒たちもすでに倒されていたのである。それでいて自身はかすり傷ひとつ負っていない痩せぎすの刺客は、死者の衣で無造作に剣の血の曇りをぬぐうと、もう一度繰り返した。

「よせ。……何のかかわりもないだろう?」

「かかわりのない人間なら見逃してくれるわけ? 人殺しのわりには寛大なんだね」

 獅伯は真っ先に殺された御者を見やり、それから自分の背後に移動した劉大人――と、その娘を一瞥した。

 金で雇われ、刺客に刃を向けた用心棒であれば、百歩ゆずって返り討ちに遭うのも仕方ないだろう。用心棒とはそうした稼業である。

 しかし、あの少女が命を狙われて当然とは思えない。両者の事情は知らないが、獅伯はそう直感した。

「あの大人を助ければ、たんまりと礼金がもらえるらしいんだよね。だけどあんたはよせという。……だったらあんたが代わりに、大人からもらえるはずの礼金をおれにくれるわけ?」

「……金で命は買えんぞ?」

「うん、知ってる。意外に安いのにね」

「…………」

 刺客はもう何もいわなかった。

「!」

 風に吹かれれば倒れてしまいそうな痩身が、残像を引きずって一気に獅伯の目の前へと迫ってくる。刺客の剣先が青草を散らして半月を描き、低い位置から鋭く跳ね上がってきた。

 軽く飛びのいてそれをかわした獅伯は、すぐさまこちらから踏み込み、鞘の先端で刺客のみぞおちを突こうとした。

「……癪に障る餓鬼だ」

 ぼそりともらし、刺客は獅伯の突きを柄頭ではじいて逸らした。

「我らの因縁も知らぬくせに――」

「そういう話は聞かないほうが気が楽なんだよね、こっちとしてはさ」

 刺客の剣は速く鋭い。が、重さはなかった。ちょっとした鍔迫り合いだけで、驚くほどあっさり刺客の身体が押し返されたのを見て、獅伯は違和感を覚えた。

「あんた……?」

「…………」

 いったん大きく飛びすさった刺客は、ひとつ深く息を吸うと、指笛を鳴らして自分の馬を呼び寄せた。

「……二度と首を突っ込むな。それがおまえのためだ」

「そりゃどうも。礼金をもらったらさっさとおさらばするつもりだよ」

「……そうしろ。次はない」

 背中の鞘に器用に剣を納めた刺客は、愛馬に飛び乗ると、もと来たほうへと走り去っていった。

「けっ、剣士どの! お、追ってください! 追いかけてとどめを!」

 獅伯が首をこきこき鳴らして刺客が去るのをじっと見送っていると、それまで草むらに隠れていた劉大人が出てきて、刺客を追うようにせっついてきた。

「この機を逃さず、後顧の憂いを――」

「えー? 嫌だよ。何でそこまでしなきゃなんないんだよ?」

 刺客の姿が見えなくなってから、獅伯はようやく張り詰めさせていた緊張の糸をゆるめると、剣を背負って大人を振り返った。

「――よく判んないけど、あっちが退散してくれるっていうならそれでいいだろ? ヘタに追いかけてって斬り殺されたらどうすんの? あんたがおれの墓を建てて葬式出してくれるわけ?」

「そ、それは――」

「まあ、葬式出してくれるとてもお断りだけどさ。墓なんか建ててもらったって、死んじまったら意味ないだろ、なあ?」

「で、ですが――」

「あのさ、あんたの用心棒、みんなやられてるじゃん?」

 いまだに濃い血臭を立ち昇らせる無数の死体を指さし、獅伯は雨に濡れそぼった前髪をかき上げた。

「――七人がかりでも止められなかった相手をさ、おれはひとりでどうにか追い返したよね、たまたま巻き込まれただけのおれがさ? あんた、どこのお大尽か知らないけど、そこまでしてもらっといてまだ足りないとかいうわけ?」

 獅伯は大人に向き直ると、たっぷりと肉がついた顎のあたりをひたひたと無遠慮にはたいた。

「……少なくとも、あんたの首はまだ胴体とつながってるよね? これって誰のおかげかな? なあなあ?」

「そっ、それは、も、もちろん、剣士どのの、その……」

「まあまあ、そのあたりにしておきましょうよ」

 最初のいきおいを失って語尾を消え入らせる劉大人に代わって、あの書生が獅伯の傘を差し出し、声をかけてきた。

「大人は長らくあの刺客に命を狙われているのですよ。大人を守って用心棒が命を落としたのもこれが初めてじゃありません。つまり……判りませんか?」

「判んないねえ」

「ですから、それだけ追い詰められていらっしゃるということなのですよ」

「さ、左様! つい取り乱して失礼なことを申し上げてしまいました。どうかお許しいただきたい」

 大人は拱手し、何度も頭を下げて獅伯に詫びた。ここまで下手に出られては、獅伯もこれ以上嫌味をいうわけにもいかない。胸の奥でわだかまっているもやもやしたものを溜息といっしょに吐き出すと、獅伯は用心棒たちが乗っていた馬にまたがり、

「……まあいいや。どのみちもう関係ないしさ。謝礼代わりといっちゃ何だけど、この馬もらっちゃってもいいよね?」

「ちょ、ちょっと! お、お待ちください、剣士どの!」

 獅伯がさっさと立ち去ろうとすると、劉大人は慌てて手綱を掴んで引き留めた。

「私どもの命を救っていただいたというのに、そのお礼が駄馬一頭とはいくら何でも安すぎます! 剣士どののおはたらき、まさに並みの用心棒の七人ぶん――いや、それ以上でございましょう! この上は、ぜひとも我が屋敷にお越しください! 今回のおはたらきに見合うだけの礼金を差し上げますので!」

「いや――」

 正直いえば金は欲しい。このお大尽が用心棒たちにどれだけの手当てを出していたのかは知らないが、その七人ぶんともなればかなりの額になるだろう。いつも路銀、もっというなら道中の酒代のことで頭を悩ませている獅伯にとっては、これはまたとない申し出だった。

 しかしその一方で、獅伯の勘がやめろとささやいてもいた。この大人についていくということは、さっきの刺客とふたたび縁がつながりかねないということでもある。たとえ大金を積まれても、あんな相手と戦うのは二度とごめんだった。

「剣士どの」

 逡巡する獅伯に、またあの書生がいった。

「――とりあえずなんですが、私たちをお屋敷まで送っていってくださるわけにはいきませんかね? 残っているのは大人とお嬢さん、それにこの私の三人だけなのですよ。……ねえ?」

「ねえ? っていわれてもねえ」

 思うに、あの刺客が意外にあっさりと剣を納めて退いていったのは、獅伯という予想だにしなかった相手がいたからだろう。もしあの刺客がまだこの近くにひそんでいたら、確かにこの三人だけではあっという間に殺されてしまうに違いない。

「……それに大人は手広く商売をしてらっしゃいますから、いくらでも上等な酒が飲めるのですよ?」

 獅伯が腰から下げている空の瓢箪をつつき、書生がつけ足す。ひょろっとしていて何とも頼りなさそうだが、この男、存外に目端が利くらしい。

 獅伯はそこでまたちらりと少女のほうを見やった。

 こうしてあらためて見てみると、劉大人と血がつながっているとは思えない美しい娘だった。化粧は淡く控えめだったが、それがこの思慮深そうな少女にはよく似合っている。いかにも屋敷の奥で大事に育てられてきた箱入り娘といった感じの、肌の白いなよやかな少女だった。

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