(七)
(七)
「この時期は外に出るの、嫌になっちゃうわね」
「まったく」
筆をとめず答えた。後ろ姿のその向うは、しとしととした雨で煙っており、空は時折、遠くで雷鳴も聞かせるようになっていた。
「でも、そんな中きてもらってて、なんだか申し訳ないわ」
「そんなことないわよ。仕事だっていっても、楽しいから」
「……ほんと?」
「……ほんと」
探るような問いに、笑みを含んで返した。
「よかった」
ほっとしたようにいった彼女は、サイドテーブルに置いてある陶器のポットから、自分のティーカップに紅茶をそそいだ。
今ではすっかり友だち口調になっていた彼女だったが、今日に限ってどことなく硬さのようなものをそれに感じるのは、付き添いがいないことの不安からか……。
「ご主人のご用で、これから出かけることとなりまして……」
今日、到着した早々のわたしにそう告げたメイドは、医師のほうも急用ができ、今日は失礼するらしい、ともつけ添えた。
「でも、日数も増やしてもらっちゃって……。大学のほう、大丈夫?」
「え……」
パレットに落としかけた筆が、無意識にとまった。
「だって受講時間が足りなくて留年なんてことになっちゃったら、それこそ悪いわ」
「……大丈夫よ」
混ぜ合わせた絵の具が、想定していない濁った色を見せた。
「ミルさん、今、何年生だったっけ?」
「……四年」
「だったら就職活動とか、大丈夫?」
「え……ええ」
「そういえば、なんていう大学? 今まで訊いてなかったけど」
「え……ああ。……あの、K駅で降りて……」
とそれだけで、「あ、あそこだったの~」と、彼女は納得したようだった。
キャンバスに戻った視線は、焦点を合わせることが難しくなっていた。
K駅―――その風景を脳裡に浮かべようとしてみた。が、そこには窓の外以上の霞がかかっていて……。
「どこらへん?」
その言葉で我に返った。どのくらい迷走していたのだろうか……。
「え?」
「だから、ミルさんのお家よ。……うちと同じ街なんでしょ」
「え、ああ……」
「ここから近いのかしら?」
いたって穏やかな問いかけが、なぜか脳天を突き刺すような痛みを誘った。その刺激が、この洋館からの帰路を、今度は明確にフラッシュバックさせた。
大きな門を出て左へくだる坂道……。銀杏の木が両サイドに連なるそれをいく……。
左に真っ赤なポスト……それをすぎると、やがて洒落たカフェのレンガ造りのテラス……すぐ右に、植木に隠れがちになっている個別学習塾の看板……さらにくだって、左側に美容院のガラス張りのドア……そして目前にD駅の駅舎。
映像はその前の噴水を一周し、そしてわたしの部屋に向かって再び坂をあがる。
その道には同じく両サイドに銀杏の木が連なり、すぐ右側に美容院のガラスのドアが見えて……そして左に、掲げられた学習塾の看板が……さらに視界に入ってきたのは、レンガ造りの……。
脳内の映写を強制終了した。続けて頭の中では、
「嘘よ、そんなはずない」
という強い口調が反復された。
と、
「ミルさん」
彼女の呼びかけで、意識は戻された。
「え……」
「明り……つけないと見えないんじゃない」
「あ……そうね」
すっかり暗くなっていた室内のドアへ、どことなく疲労感を持った躰を向かわせた。ドア横のスイッチを押すと、暖かみのあるシャンデリアの明りが空間を一変させた。
椅子に戻ってキャンバスに向かう。
後ろ姿の彼女のバックには、窓外の芝生敷きの広い庭と真っ白なガーデンテーブルセット、そして桜の木々……見たままの景色が描き込まれている。ただ、舞う桜の花弁だけは、春を印象付けるため、イメージとして乗せていた。―――が、
「嘘よ、そんなはずない」
その台詞がさっきよりも強い調子で頭を駆けめぐった。
芝生の庭……白いテーブル……桜……。
自室の出窓から覗く景色と……同じ。……どうして今まで気づかなかった……。
嘘よ! そんなはずない!
庭に視線を移した。しかし、室内が映り込んだ大きな窓は、外の景色を消し去っている。
ふと違和感が走った。窓に映る室内など、今まで見た記憶は……。
そうか、日が陰る前には、メイドが必ずカーテンを閉めていたから……。
ということは……。
待て! という脳の命令に背き、視線はすでに動いていた。窓の中心に向かって。
うっ……!
うめきが喉に貼りついた。
室内の景色と同じように、はっきりと窓に映った彼女の顔……その目がわたしを見つめていた。
そんな……。
息までもが出口を見失っていた。
車椅子が微かなきしみをあげ、ゆっくりと回転し始めた。
そんな……。
眼球を含めたわたしの躰すべて、金縛りに遭っていた。
きしみ音がやんだ。
キャンバスを挟み、しっかりあげられた彼女の顔と、わたしははじめて対面した。
「うそーっ!」
無意識に出た絶叫で束縛を解かれた躰は、気づくとドアの外にあった。
そのまま廊下を走った。
部屋に帰りたい……。居心地のいい自分だけの空間にこもりたい……。
そんな意識が、玄関脇にある黒光りする階段を躊躇なく駆けあがらせた。
どうしてここを……という疑問が脳裡をかすめたが、躰は無視した。
二階へあがり廊下を走る。突きあたりに外へ出るドア。見慣れた光景。
そしてその手前にあるとびらを開いて中へ飛び込んだ。
イーゼルに載った描きかけの絵が雷光で浮かびあがった。“あの子”のことを思いだしたときから描き始めた肖像画。彼女の、高校生のときのままの姿の……。
間をおかず轟いた雷鳴に頭を抱える。
応接室の窓に映った顔は……自分のものだった。
そんなことあるはずがない……。あるとすれば……それは妹の顔。顔も体型も年齢も、まったく同じだった、一卵性双生児の妹の……。
でもどうして……。
妹はあのとき……。
抱えた膝に、再び顔をうずめた。
制服姿の彼女は、胸の前で大きく☓印をつくった。好きだった同級生に、わたしのかわりに告白してあげた、といったあとのことだった。
「だってお姉ちゃん奥手だから~」
困ったような顔をつくった彼女から、驚愕の目はしばらく離せなかった。
「でもしょうがないよ。大丈夫、人生長いんだから、もっといい人見つけられるって」
その気軽な言葉に、怒りの火がついた。
この想いは、胸に秘めて卒業していこうと思っていたのに……。
性格だけが正反対の妹が、引っ込み思案のわたしのことを思ってというのは真実だろう。でも……あまりにも勝手すぎる。
顔形は同じでも、違う人間であることには変わりない。だからわたし自身が告白していたなら、もしかして……といった仮定も憤激を手伝った。
目の前を走る自分と同じ制服は、階段へ向かった。その背中から、口を閉じて笑うような声が聞こえた気がした。それによって一層激した感情は、躰の動きを思うように制御できないようにさせ……。
段差を降りようとした彼女の肩をつかむつもりだった。が……。
次の瞬間目に飛び込んできたのは、長い黒髪を乱し、階下に横たわる妹の姿だった。ピクリとも動く気配はなかった。
誰かの叫び声が響いた。女性の……あれは……そう、
妹を殺してしまったと決めつけた脳は、同時に自身の過去をも抹殺し、かわりに、都合のいい新たな世界を用意した。
それは―――これは不可抗力。自分だけがすべて悪いわけではない。元はといえばあの子が……。との、やはり都合のいい自己弁護、自己防衛が、頭内を支配したゆえからのことだと思う。
以来、わたしの居場所はこの部屋が中心となった。
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