(四)
(四)
上田家を辞してD駅に向かった。
キャンバスとイーゼルはそのまま置いておいていいということなので、帰り道は楽だった。
坂をくだりきって到着する駅前ロータリーは、その中心に噴水を構えている。見る角度によって形の違う水柱を噴出するそれは、一度描いてみたいと思っている風景の一つだ。
今日、久しぶりに眺めたそのお気に入りのぐるりをゆっくり一まわりすると、駅から放射状に延びる数本の坂道の一つを、再びあがる。
依頼人の家とわたしの部屋は同じ街にあったのだが、方向音痴の気がひどいわたしは万全を期し、D駅を起点として書かれたメッセージにしたがったのだった。ずいぶんと遠まわりのような感はあったが、運動不足解消にはいい。
デッサンだけで終わった今日の制作は、五時まで行われた。
その間、休憩中に二、三言言葉は交わしたものの、やはり彼女は一度もふり返らず、微かな横顔さえも窺うことはできなかった。医師もメイドも、これといって話しかけてはこなかった。
なぜ顔を見せないのか―――。
車椅子……なにか事故にあって、それで……。
つい顔を覗かせる疑問と想像が、木炭を持つ手の動きを鈍らせたが、
「わたしには関係のないこと」
と、そのつど心中で頭をふり、キャンバスに向かう目に力を込めた。
制作は今日と同じ時間帯で、毎週土曜に行われることとなった。わたしとしても大学の授業にかぶらないそのスケジュールはありがたかった。
長い外壁の中途にあるくぐり戸を抜けると、芝生敷きの広い庭を囲む五分咲きの桜が出迎えた。少しひんやりしてきたからか、中心に据えられているガーデンテーブルセットに住人の姿はない。
大きくはあるが、古色は隠せない二階建ての木造建物。その外階段をあがる。非常口としてつくられたのであろう、なんの意匠もほどこされていないそっけないドアを開け廊下に入ると、すぐにあるとびらを開く。知らず張っていた神経が途端に緩む。
シェアハウスとなっているこの家は、元々は一家で住んでいたのであろう。この規模からすると、使用人なども使っていたのでは……。それが時代の流れで、経済的に維持が困難になったか、もしくは高齢になった持ち主が、不自由なく快適にすごせる、高級老人ホームなどに移ったか―――。いずれにしろ、そうして手放した結果が、このような形になった……。この地域にはそんな家が結構多いと聞いたことがある。
だから当然、立派な玄関はある。しかしそれを使わないのは、階下に住むほかの住人と顔を合わすのがうっとうしい、ということもさることながら、どうしても嫌なのだ……あの階段が。
玄関に続くそれは結構な傾斜を持ち、誰が手入れをしているのか、黒光りする踏板をいつも保っている。
滑り落ちそうな恐怖感―――。
それだけではなく、なぜか下段にいくにしたがい、闇が濃くなっていくような……そしてどこかへ引き込まれていってしまうような……気もするから。
玄関からの光は差し込む。夜になればシーリングライトの柔らかな明りも、階段全体を照らす。だからその感じは、わたしの脳内がつくりだす幻覚……。それがわかっていても、どうしても足を踏みおろすことができない……。ゆえに外出時は、外階段と裏口を使っていた。
また幸い、二階にもバストイレが設えてあったので、階下へ降りる必要はなかった。元の持ち主が来客用につくったのだろう。洒落たデザインで気に入っている。
入居者がわたししかいない二階の静けさを味わいながら、ベッドに横たわった躰は、いつしか現実を離れていた。
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