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これが彼の超私的な瞬間を見た1回目。フランクの穴発見から2日目。このアパートで暮らし始めてから5日目の出来事。それからもうすでに2週間が過ぎている。
そのあいだにずいぶんといろんなことが分かった。
佐伯(彼の部屋にあった青いジャージーの胸にこう書かれてあった。高校の体操着らしい)くんはやっぱりわたしと同じ大学の2年生だった。彼とは学年も学科も違っていたけど、授業の何コマかは重なっていた。中教室で行われる心理学の授業では、ナルエさんも目撃した。彼らは並んで座っていた。わたしはその斜め後ろ。別に狙って座ったわけではなく、気付いたら斜め前に彼らがいたのだ。これ幸いと、出席カードに記入するフルネームを見ようと思ったんだけど、矯正視力1.0のわたしでは、彼女の5.5ポイント活字みたいなちんまりした文字を正確に読み取ることはできなかった。名字は不明。名前は、奈留絵か奈留枝だと思う。とりあえず奈留Aさんと呼ぶことにする。
二人は同じクラスみたいだった。「担任の権田先生がこのあいだ――」って彼女が言ってるのが聞こえたから、多分そうだと思う。「カワタくんが数学概論と哲学をまた履修してるんだって」とも言っていたから、あんまり真面目でない(あるいは脳の血行のよくない)男子学生が共通の友人にいるらしい。それ以外にも、マユコだのミツサワくんだの、いくつかの名前が登場したから、彼らはひとつのグループをつくっているらしい。心理学の先生はあんまり厳しくなくて、代返が横行している授業だったから、本人が出席しているところを見ると、かなり真面目な学生だということが分かる。わたしは代返してもらえるような友人はいなかったし、代返をたのんでくるような友人もまだいなかった。「まだ」というのは、いくぶん希望を含んだ表現だけど、まあ、先は何が起きるか分からないのが人生だと思う。このわたしがキャンパスクイーンになることだって、可能性としては0じゃないんだから。
驚いたことに佐伯くんは同級生である奈留Aさんに敬語を使っていた。彼女は慣れているのか、気にもせず会話を続けている。彼女に尊大なところはなく(というより、すごくいいひと。彼を気遣っているのが感じられるし、言葉も柔らかい)、彼もとくにへりくだっているわけじゃないのに、それでも佐伯くんが下級生のように見える。
佐伯くんは奈留Aさんが気付いていないだろうと思って、授業中に5回ほど彼女の横顔を盗み見た。でも、断言してもいいけど、彼女は気付いてる。気付いているのに、気付かれたくないと思っている彼のために、気付かない振りをしている。
うわっ、とわたしは思った。こういうのってちょっと切ない。だって、こうやって後ろから見ているだけで、彼女が佐伯くんに恋していないことは、はっきりと分かってしまうから。彼女は優しいし、佐伯くんに好意だって感じている。でも、恋はしない。彼女が好きになるのは非佐伯くん的男性だ。もっと野性的で、いささか自己中心的なところがあるくらいの男。わたしには分かる。だいたいそうなのだ。誰と誰が
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