彼は映画雑誌を胸の上に置き、堅く目を閉じていた。眉間みけんしわを寄せ、小鼻を膨らませている。見ると両足の親指と人差し指をしきりに擦り合わせている。わたしは胸に手を置き、もう一度大きく息を吐いた。わたしは男性がこういうことをするとき、決まって女性のヌード写真を使うものだと思っていた(ベン・スティラーのように女性下着の広告で代用するときもある)。映画や小説ではたいていそうだし、男性の性中枢は眼球の裏側に集中しているもんだとわたしは思っていた。


 でも、彼はなにも見ていない。まさか目蓋まぶたの裏側にプレイメイトのタトゥーがあるわけでもなし、彼は想像力だけでこの局面を乗り切ろうとしている。とことん自己完結的なひとらしい。


 わたしは何度も生唾を飲み込みながら、彼の手作業を観察し続けた。彼が登り詰めていくのが分かる。ものすごく無防備な顔。セックスの最中、動物は一番外敵から襲われやすい状態になるって読んだことがあるけど、まさしくそんな感じだ。ここまで私的な顔を見てしまうと、ずっと感じていた申し訳ない気持ちがさらに高まってくる。こういうときは、わたしも自分の私的な姿をさらけ出し、お互いの状況をシンメトリーに置くべきなんじゃないかって、そう思ってしまう。一方的な搾取のようで、どうにも心苦しい。かといって、わたしが男性が見ている前でマスターベーションすることが出来るかっていえば、それは合衆国大統領が一度も嘘をつかずに任期を終えることと同じくらい難しい。つまり不可能だってこと。


 ついに彼がスエットパンツを下ろしにかかった。一緒にペイズリー柄のトランクスも引き下げる。たぶん、この瞬間がわたしにとって一番のクライマックスだった。魚肉ソーセージから解放される瞬間。わたしは今度は自分の意志で、男性のその器官を見ようとしていた。


 姿を見せたそれは、エイリアンの幼生によく似ていた。というか、エイリアン自体が男性の性器をモチーフにしていたんだっけ? とにかく、そんな感じで、かの魚肉ソーセージとはかなり違って、それはどこかメタリックな印象さえあった。頭頂部は蛍光灯の光を反射していたし、思っていた以上に硬度がありそうだった。もう心臓がこれ以上無理! っていうぐらい激しく動いて、それにつられてわたしの身体も前後に揺れていた。尾てい骨のあたりに、そわそわと落ち着かない感触があって、それが骨盤の中全体に広がろうとしていた。


 不意に彼が目を開き、視線をあたりに泳がせた。そして、手を伸ばしベッド横に置かれていたティッシュボックスからティッシュを抜き取った。終わりが来ることが分かった。彼はここからやっと聞き取れるぐらいの小さな声で「ナルエさん…」と漏らしたあと、上唇を巻き上げ、低いうなり声を上げた。


 あ、と思った。そういことね。彼は、あのきつく閉じた目蓋の裏側で、誰か愛しい女性の顔を思い浮かべていたんだ。ナルエさん。ナルエってまるで「非A」みたい。A.E.ヴァン・ヴォークトの小説「非Aの世界」。これでナルエーノセカイって読むんだけど。我がフランクは、ナルエの世界で性的妄想を膨らませていたのね。


 なんだか彼のこの思いを知ってしまったことが、一番罪なことのようにわたしには思えた――

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