こちらに背を向け、コンピューターに向かっている。昨日ベッドの上に脱ぎ捨ててあったトレーナーとスエットパンツを身に着けている。白いTシャツの裾がだらしなくはみ出しているのを見て、わたしは思わず自分の腰に手をやった。大丈夫だ。


 この角度からだとコンピューターの画面までは見えないけど、彼はキーボードには一切手を触れていないみたいだ。よく見ると、頭にオープンエアタイプのヘッドフォンを掛けている。昨日畳の上にころがっていたあれだ。しばらく見ていると、彼がマウスに手を掛け、ワンクリックしてから立ち上がった。こちらに振り向き、ゆっくりとした足取りで歩いてくる。こころなしか頬が紅潮しているように見える。彼はそのまま視界の右に消えていった。ドアが開く音がして、それを閉める音。トイレなのだろう。


 コンピューターの画面に目をやると、そこ映っていたのはわたしの大好きなトッド・ルイーソの悲しげな顔(まあ、彼もポール・マクレーンと同じで、普通にしていてもどこか悲しそうに見えてしまうんだけど)。


 お隣さんはラップトップのコンピューターでDVD映画を観ていたのだ。ジョン・キューザックが主演の「ハイ・フィデリティ」。トッドはキューザックが経営する売れないレコードショップの気の弱い店員の役だ。浸食作用を受けた頭髪を2ミリぐらいにカットして、弱虫毛虫のはまり役を演じている。わたしはジャック・ブラックもジョン・キューザックも嫌いじゃないけど、この三人の中で誰を選ぶかと訊かれれば、やっぱりトッドを選んでしまうだろう。こういった嗜好というのは自分ではどうすることもできない。


 でもすごく嬉しくなった。隣人がわたしの好きな映画を好きだったってことが。だからって何が起きるわけでもないんだけど、嬉しいものは嬉しい。それに、彼は壁の薄いアパートに暮らすマナーというものをきちんと心得ている。隣室に気遣い、ヘッドフォンを使って音が漏れないようにしている。まあ、普通はここまでしないと思うけど、この普通でないところにぐっと来てしまう。


 彼はトイレから戻ってくるとDVDを終了させ、コンピューターの電源も落としてしまった。もう飽きたのだろうか? 彼はベッドの上にごろりと横になると傍らにあった映画雑誌を手に取った。こちらからは彼の足の裏がよく見える。しばらくすると彼は右の手をスエットパンツの中に入れ、自分の中心部を触り始めた。別に性的な意味合いはなく、無意識にもてあそんでいるといった感じ。けれど、見ているうちに、だんだんとその手の動きに熱がこもり始めてきた。隆起した布地の往復運動のピッチが上がっていく。彼は目を閉じ、唇を内側に巻き込むようにして顎に力を込めた。うわ、どうしよう! と思って、わたしは穴から目を離した。この先の展開を考えると、見続けていいものかどうか判断に迷う。胸が熱い。すごく変な気分になって唾がやたらと出てくる。映画ではこんな場面、何度も見ていた。でも、あれは演技だし、俳優たちは見せるためにそれをやっていた。だから、わたしも安心して見ることができた。でもいまは少しも安心じゃないし、後ろめたさもある。この精神的な足場の悪さと罪悪感が、おそろしいほどの興奮をわたしにもたらしている。心悸亢進しんきこうしんしすぎて息が苦しい。わたしは大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出すと再び穴に目を近づけた(この光景に目を背けることなど、初めから無理だったのだ)。

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