第二話:海賊船の見習い水兵
白い湯気が芳しい香気をはこんだ。
四角い深皿のなかでは、赤と黄と白の色彩がふつふつと踊っている。
チーズと挽き肉、ベシャメルソース、そしてたっぷりのトマトケチャップで仕上げたラザニア。
ごくありふれた料理だが、人類が地球を離れてから果てしない歳月を経た現在では、その存在を知る者もすくない。
それも
「あの……これ、ほんとうに食べていいのか?」
ショウジはフォークを握りしめたまま、おそるおそるジュリエッタに問いかける。
あのあと――――
ロボットに混じってひととおり艦内への搬入作業を終えたショウジは、ジュリエッタに導かれるままアラドヴァルの士官食堂に案内された。
ジュリエッタに「なにか食べたいものはないか」と尋ねられ、とっさに「なんでも」と答えてから三分も経たぬうちに、自走式カートが作りたてのラザニアを運んできたという次第だった。
艦内を循環するさまざまな物質をいったん分子レベルに分解し、任意の飲食物に再形成するリサイクル・システムはたいていの軍艦に備わっているが、アラドヴァルのそれにはかなり広範なレパートリーがインプットされているらしい。
辺境生まれの少年は、生まれてはじめて目にした珍奇な料理に尻込みしつつも、あらがえない空腹感と必死に戦っている。
仕事のまえにジュリエッタから手渡された水分パウチとエネルギーバーだけだ。
エネルギーバーには成人男性の一食分に相当するカロリーがあるとはいえ、冬眠明けの十四歳の少年が腹を空かすのも無理からぬことであった。
「お好きに。人間は働いたぶん食べなければ生きていけないわ」
ジュリエッタが言い終わるまえに、ショウジは熱々のラザニアにかぶりついていた。
熱々の料理に悪戦苦闘する少年を眺めるジュリエッタのかたわらに、配膳を終えた自走式カートが音もなく接近すると、
「キャプテンはどうなさいます?」
筐体のどこかに内蔵されているらしいスピーカーから、落ち着いた女の声が流れた。
「私には紅茶をちょうだい」
「茶葉はアールグレイ。蒸らし時間は長め。砂糖は小さじ一杯。それに――――」
「
「
こころなしか得意気に言って、自走式カートは床を滑るように動き出した。
遠ざかっていくその姿を見送りながら、ショウジは感慨深げにため息をもらす。
「すごいなあ……」
「なんの話?」
「あのカートのことだよ。まるで本物の人間が入ってるみたいだ。カルケミシュΓにも
「……だ、そうよ。クロエ?」
ジュリエッタが言ったのと、ショウジのすぐ背後に誰かが立ったのは同時だった。
振り返ってみれば、ショウジとさほど歳の変わらない少女が立っている。
クラシカルな
制帽からは束ねた焦げ茶色の髪がぴょこんと飛び出している。
驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになった少年に、クロエは軽く会釈をする。
「お褒めにあずかり光栄です」
「に、人間!? キャプテン以外に
「いいえ」
のけぞったままのショウジに、クロエはきっぱりと言い切った。
「お初にお目にかかります――――私はアラドヴァル級
「えと、じゃあ、さっきのカートは……?」
「私の職掌は本艦の全領域におよびます。航法・操舵・火器管制・索敵・解析・会計・兵站・医療・保安・ダメージコントロール……」
堰を切ったみたいによどみなく言葉を連ねていくクロエを、ジュリエッタは片手で制止する。
「ようするに、この艦のすべてがクロエの身体みたいなもの――――とでも思っておけばいい。あなたが食べたラザニアを作ったのも、この紅茶を淹れたのも彼女よ」
ジュリエッタは自走式カートが運んできたティーカップに口をつける。
「いかがですか、キャプテン?」
「シナモンパウダーをもうひと振り。それ以外は完璧」
「次回からは善処します」
慇懃に謝したクロエの言葉には、しかし、どこか不満げな響きがある。
すくなくともショウジにはそのように聞こえたし、おそらくは錯覚ではないはずだった。
と、ショウジはなにかに気づいたようにジュリエッタに向き直る。
「じゃあ俺、この艦でなにをすれば……」
「仕事は自分で見つけなさい。たしかにあなたの乗艦は認めたけれど、私はあなたの上官でもなければ雇い主でもないわ」
「……」
「アラドヴァルの管理はクロエが完璧にやってくれている。あなたがなにもしなくても艦の運用にはなんの支障もない。そのかわり、この宇宙ではなにもしない人間は水の一滴も得られないというだけのこと」
ジュリエッタの言葉はどこまでも理性的だった。
戦闘艦は強力な武装と主機関を搭載する一方、物資の備蓄スペースや乗員の居住空間は犠牲になっているのが常なのだ。
たとえ年端もいかない少年ひとりであっても、働かない人間を乗せておく余裕はないということだ。
ショウジにとっては高圧的に命令されたほうがどれほど気が楽だったかしれない。
「……僭越ながら、口下手なキャプテンの言葉を翻訳させていただきます」
重苦しい沈黙を破ったのはクロエだった。
「キャプテン・ジュリエッタは床掃除でも資材整理でも艦内の見回りでも、とにかくなんでもいいから一生懸命やれとおっしゃっています」
「だけど、艦の仕事はクロエがぜんぶやっていると……」
「私が自分の仕事を完璧にこなすのは当然です。乗艦したての
坦々としたクロエの言葉に耳を傾けるうちに、ショウジの表情がぱっと明るくなった。
考えてもみれば当然だ。右も左も分からない少年に完璧な仕事を求めているはずはない。
「キャプテン!! 本当なのか!?」
ジュリエッタは無言で肯んずると、
美貌の女海賊がバツが悪いときにみせる、それはおきまりの仕草だった。
「今日のところはよく身体を休めなさい。……クロエ、彼を部屋まで案内してあげて」
自走式カートに導かれるまま、ショウジは食堂を出ていった。
その足音が遠のいたをたしかめて、ジュリエッタはクロエを薄目で見やる。
「あなたがそんなにおしゃべりだったとは知らなかったわ、クロエ」
「差し出がましい真似をして申し訳ありません。ついでに申し上げれば、私には優秀な翻訳機能のほかに深層心理分析プログラムも搭載されています。必要なときはいつなりとご下命を、キャプテン」
ジュリエッタは「当分は遠慮しておく」とだけ言って、飲みさしのティーカップを口に運ぶ。
とっくに飲みごろをすぎているミルクティーは、今日に限ってやけに味わい深く感じられたのだった。
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