第1章 <悪夢の前夜>

11月7日 <アルベルトの混乱>

 その日、帝国ナンバー2と言われたアドルフ・アルベルト帝国元帥は、その権威に満ちた肩書に似合わず、宮中はクロスガーデンの薄暗いうすぐらい自室の窓から外を眺めていた。

 窓の外に広がるのは、帝都という巨大都市の夜景が広がり、数年前まで続いてた内戦の悲惨さをすっかり忘れたように、ビルは煌々こうこうと輝き、行き交う車の騒音は、静かな宮中にも帝都にこだまする。

 この部屋から、市民らがどのような表情をしているか。

 そんなことはわからない。

 だが、優に想像することもできるだろう。憂鬱ゆううつそうな表情を浮かべ帰路につくのか、飲み会で盛り上がっているのか、笑いの絶えない家族だんらんを過ごしているのか、甘酸っぱい恋愛を楽しんでいるのか……。

 

 だが、それらはアルベルトにとってどうでもよかった。

 今日一日、その瞬間から彼はずっと、何時間も一人掛けのソファーに座り、外を眺め黄昏たそがれていたのだ。彼の親しい側近が、呆然自失ぼうぜんじしつとなった彼を心配して、コーヒーやら軽食を置いて行ってくれたのだが、それらに手を付けようとせず、彼はそれを一切無視して、ただ外を眺めていた。心を失ったように彼は絶望ぜつぼうしていたのだ。


「殿下……」


 時折、そう一言かすれた声で呟くつぶやくたび、彼のひとみからは無数の涙がこぼれ落ちる。

 その悲痛な一言、それは誰よりも敬愛していた殿下が死んでいくという事実。


「あぁ……」


 いまも、彼の瞳の先には優しい笑みを浮かべた殿下がいる。

 親子のような身長の差があり、今までならばアルベルトが見下ろすような形だった。しかし、椅子に座れば殿下と同じ目線となり、殿下の可愛らしい顔から発せられる表情がよく見える。

 本当に目の前にいるような錯覚。手を伸ばせば、触れてしまいそうな距離で、アルベルトはゆっくりと殿下の方へ手を伸ばそうとし、

 

 ドクン!

 心臓が大きく跳ねはね、息ができなくなるほど胸が締めしめ付けらるアルベルト。苦しさからほんの一瞬、殿下から顔をそむけたアルベルトは、それでもなお殿下の方へ手を伸ばそうと顔を上げ……

 現れた、血まみれになった殿下を見てしまった。

 白い髪は赤黒い液体で汚され、左胸に開いたわずか数ミリの穴からドロッとした赤い液体が、まるで滝のように流れ続け、何より可愛らしい表情を浮かばせていた顔は、血の気が引いたように青白く、かっぴらいた眼から流れるのは血涙。


「……っ!」


 時間が経つにつれて、殿下の顔面から肌が削げ落ちてゆき、おでことあごには白く硬そうな骨がむき出しとなる。

 ポタ、ポタ……

 と、絨毯の上にできた赤色の水たまりには、いまも血が滴り落ちていた。

 ポタ、ポタ……


「あぁ……あぁ!」


 それこそまさに、殺された瞬間の殿下の姿であった。

 いや、違う。これから訪れるだろう未来の姿。の殿下の姿がそこには存在した。

 驚きと、そしてトラウマ交じりの恐怖が襲い掛かるおそいかかるアルベルトに、殿下の死体は、くるみ割り人形か金魚のように口をパクパクさせ、血で赤黒くなった手を伸ばしてくる。


「やめてくれ……やめてくれ……!」


 慌てて目をつむり、その非現実な悪夢を打ち消そうと首を振るアルベルト。

 かつての軍神とも、英雄とも呼ばれた勇ましいいさましい男の姿はそこにはなく、ただ部屋のすみで首を振って独り言をつぶやく哀れあわれな人間が一人いるだけ。

 彼はこうして事件発生からの6時間ほどを過ごしてきた。

 過去の思いでと、襲い掛かってくる事件の瞬間。そして永遠と続く無念と後悔こうかい

 銃を構えた男にあと数秒早く気が付いていればという後悔は、次第にしだい彼の心をむしばんで発狂させていくような、そんな錯覚に陥らせてくれる。

 事件後の記憶は、アルベルトになかった。

 呆然自失となり、気が付けば彼はこの場所で、一人寂しく外を眺めていただけの機械に成り果て、だからといって他に何かする気力は無かった。


「……アル、大丈夫ですか……?」

「……私が大丈夫なように見えるのか、ウィングストン……」


 気が付けば、アルベルトの自室にもう一人、小太りの男が立っていた。

 ウィングストン・スティルアート。アルベルトの古くからの友人にして、空軍のエースパイロットと軍医を務めた男は、不安げな表情を浮かべていた。


「いえ、全く見えませんね……。疲れ切っているように……」

「ハハハ……そうか……そうだろうな」


 感情のない乾いた笑いを浮かべ


「……なぁ、ウィングストン」


 アルベルトは不意にウィングストンに問いかけた。


「なんですか?」

「殿下は……殿下は死んでしまうのか?」

「……どういうことですか?」

「不思議なんだよ……私の目の前に、殿下の姿が……死んだ姿があるんだ……」

「……なぜ、貴方のような方が、そんな恐ろしいことを口にするのです?」

「わかっている……わかっているんだ……そんなのありえない。殿下はまだ生きている、今懸命に耐えていることなんてわかってるのに……」


 悲壮感に包まれた様子のアルベルトは、まるで零れ落ちるように、ポツリポツリと呟いた。


「私の目の前で……殿下は死んでいくんだ……」

「アル……貴方が辛いのは十分わかります。でも忠臣として、何より殿下のそばにいた貴方が、そんな末恐ろしい考えを持ってはいけません……」

「だったら教えてくれウィングストン……! これは私の夢……妄想なのか……? それとも未来予知なのか……? まさか……!」


 そして自分自身で恐ろしい考えがよぎってしまったアルベルトは、顔面蒼白の状態でウィングストンに詰め寄った。


「まさか、もう死んでしまったのか!?」

「そんなわけないでしょう! 殿下は生きています、貴方が見ている殿下は妄想です。意識はまだ回復していませんが、間違いなく生きています。」

「じゃぁこれは何なんだ!? 私の目に映る、これは一体なんだというんだ?!」


 窓の方、何もない虚空の彼方に向かって声を荒げ指をさすアルベルト。


「アル、貴方は気が動転しているんです。仕事のストレスに加えて今回の事件ですから……僕にはあそこにいらっしゃる殿下は、元気そうで、普段通りのお方にしか見えませんよ……?」

「普段通りだと……? お前には、あれが普段通りだというのか!? 血にまみれた姿を……骨がむき出しの姿を、普段通りだといえるのか!?」

「……えぇ、帝国を導く素晴らしい姿です……」


 アルベルトを落ち着かせようとした、ウィングストンのウソは逆効果だったのかもしれない。

 アルベルトはさらに声を荒げ、しまいにはウィングストンにつかみかかってきた。


「お前は狂っている!! あのようなお姿になられた殿下が、普段通りだと言えるのか!?」

「アル!」


 さすがにこれ以上はマズいと思ったのか、ウィングストンはアルベルトの話を遮るように口を開いた。


「……落ち着いて、僕の話を聴いてください。殿下は生きています、賢明に生きようとしています。貴方の役割は、ここで無駄な議論をすることではなく、殿下の無事と、帰って来られた時の準備ではありませんか?」

「……無理だ、私には出来ない……」

「なぜです?」


 ウィングストンの質問に、アルベルトは数十秒答えようとはしなかった。

 静寂が寝室を支配する間、ウィングストンはアルベルトの体面にあるソファーに腰かけ、アルベルトが自ら口を開くのを辛抱強く待っている。


「……私は、もはや殿下の側近としての資格はない……」


 かつての、勇猛果敢なときの彼を見てきたウィングストンは、アルベルトの非常に弱気な発言に内心驚いていた。


「……私は殿下を守ると約束した。この身をかけて、守り抜くと……」

「……」

「陛下にも頼まれた……。グランドクロス駅で……陛下は私にそう託したんだよ……でも、私は結局守れなかった。約束はおろか、殿下すら……」

「……」

「何もできなかった。あの時、私は呆然と……何が起ころうとしていたのかとっさに判断できなかった。……その結果が、これだ……」

「そんなことは……」

「無い……そう言えるのかウィングストン……? とっさに判断できてれば、私が盾となることだって出来たはずだ……。犯人を取り逃がし、殿下を重体状態にさせ、そんな男が、側近として居座ったところで、殿下が喜ばれると思うか……?」


 思い過ぎだ。

 ウィングストンは、そう告げたかったのを押し殺し、静かに彼の話を聴いていた。

 だが、あまりにも殿下一辺倒で、ここまで取り乱した様子のアルベルトを見たことがなかったウィングストンは不安で仕方がなかった。

 ウィングストンから見たアルベルトというのは、冷静沈着……常に落ち着き払い、冷静に処理していく。

 その冷静さは、かつての危機を乗り越えるのにいかんなく発揮されていたのに……


「……アル、もう今日は休みませんか? 貴方は事件によって動揺しています、貴方自身を守るためにも、休みましょう」

「しかし……殿下が生命の危機にある今、私のような奴が休むことは、許されるのか……? そんなわけないだろう……」

「許される以前に、貴方が倒れたり、壊れてしまえば、逆に殿下に心配をかけさせるのですよ。それに、今、この国を守れるのは貴方しかいませんから……」


 本音を言えば、そこだった。

 アルベルトというこの男は、今こそ弱弱しい姿であるが、帝国陸軍という巨大組織の総司令官トップであり、副官である彼がここで倒れれば、帝国の危機が悪化するだろう。

 彼は、優秀だ。

 彼ならば、殿下のいないこの国を守り抜くことができるだろう。

 派閥や闘争、これらをコントロールし、抑え込める信頼できる人物がアルベルトなのである。


「……ウィングストン……その認識は間違いだ……」

「えっ?」


 かき消されそうな声を絞り出して、アルベルトは驚きの表情を浮かべたウィングストンに告げた。


「……もう、帝国は終わりなんだ……」

「そ、そんなことは……!」

「ない、そう言えるのか……? 殿下がいない今、この国が崩壊するのは避けられない……時間の問題だ……」

「アル……! 貴方、いったい何を言っているのか分かっているんですか!?」


 普段のアルベルトからは絶対に聞かないような言葉の数々。


「私には……それを止めるのはもう無理だ、手遅れなんだ……私には……私たちにはチャンスなんていつでもあったのに……自らそのチャンスを踏みにじった……わかるだろ……?」

「……」

「これは……殿下が私に課した罰なんだよ。因果応報いんがおうほう……すべては私たち自身が招いた結末なんだよ……。私が、殿下を守れなかったのも……帝国の終焉しゅうえんするのも……結局は、自分たちのせいだったんだ……!」

「……アル、これ以上は、医師としてもあまり見過ごせません、アル。これは友人からではなく、主治医としての命令です。休んでください、よく寝て、体と心を整え落ち着かせてください。これ以上の話は明日にしましょう?」


 ウィングストンは、アルベルトをなだめ休むように説得する。

 しばらくの間は、アルベルトはまるで聞こえていないように、独り言をつぶやいていたが、次第に落ち着きを取り戻したのだろうか。前かがみになりながらも、ウィングストンにボソッと呟いた。


「……ウィングストン。しばらく、一人にさせてくれんか……?」

「それは……大丈夫なんですか……?」

「……何がだ? 私はただ一人になりたいだけだ……邪推はしないでくれ……」

「そう、ですか……わかりました……では、何かありましたら、すぐに読んでくださいね」


 そういうと、ウィングストンは立ち上がり寝室から退出していった。

 広めの部屋、外の夜景からの光のおかげでまだ薄暗い室内には、精神をすり減らしているアルベルトと言う男がただ一人いるだけ。

 彼の根底にある帝国と、殿下への絶対的な忠誠心が動揺し、揺らぎつつある今、彼にできること、そしてしなければならないことはたくさんある。

 もしもの日を想像しながら、その悍ましいおぞましい結果に恐怖のあまり震えそうになるが、それでも彼は静かに立ち上がり、バスルームへと消えていった……。

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