第二章 1
充生はまったく飽きる様子もなく、ひたすらペンを動かし続けている。彼が描いているのは新しい模型の設計図だった。
真帆は感心しながら彼を見ていた。
たいした集中力ね。もう三時間も続けている。
本は終わりに近づいていた。古いSF小説。十年の宇宙探査から帰ってみたら、地球では百二十七年が過ぎていたという話。康生の蔵書には、この手の話がたくさんあった。目覚めたら百四十七年が過ぎていた男の話とか、装置を使って十万世紀の未来へ飛んでいく話とか(十万世紀? と彼女は一瞬自分の目を疑った。年じゃなく? なんて大袈裟な話なんでしょう)、あるいは、肖像画に描かれた女性に会うために、過去に遡るという話もあった。
今回の小説はとても難しくて、書いてあることの半分も理解できなかった。それでも、棚にある本はすべて読むつもりでいたので、彼女は忍耐強くページをめくり続けていた。
真帆は残りの枚数を確かめるように、ぱらぱらとページをめくった。まだ一気に読み切れるまでは行っていない。彼女はソファーの背もたれに上体を預け、静かに目を閉じた。
聞こえるのは充生のペン先が紙の上を走るカリカリという音。ときおりそれに彼の唇から漏れ出る破裂音が混じる。
五年か、と真帆は思った。
充生と一緒に暮らし始めてから、もう五年も経ったんだ。
彼は五年前とほとんど変わっていない。
わたしは――歳をとった。このあいだ白髪を一本見つけてしまったし(充生に気付かれる前に抜いておいた)、ウエストだって、あの頃よりも三センチは太くなった。
二十九歳。まもなく三十になる。
暮らしは、ほとんど変わらない。ただ、淡々と日々が過ぎていく。
充生の給料は五年前に比べればずいぶんとよくなった。でも、競争原理に取り残された彼の会社は慢性的な資金難に陥っていて、もう二年も賞与が支給されていない。社長はとても良いひとで、それが商売の上では一種のハンディとなっていた。社員は充生を含めて四人いたが、どれもが似たような人間たちだった。肘でこづかれ、爪先で押しやれ、気付いたらこの場所にいた、というようなひとたちばかり。過度に協調的で、草花のように穏やか。まるで絶滅寸前の類人猿みたい。彼らなら、と真帆は思った。このわたしでも容易にお金を騙し取れそう。誰からも噛み殺されずにここまで来ることができたのが不思議なくらい。森を旅する野ネズミの隊商ってところね。あのお人好しの社長が隊長なんだもん。小さな旗を立てて、えっちらおっちら、ここまで歩いてきたのね。最年少の充生がしんがりをつとめて、欲の張った獣たちの足下を縫うように進んでいる。
わたしたちは今のまま生活を望んでいる。内因的な変化はありえない。だから充生の会社が続く限り、いまのこの暮らしが変わることはないはず。
この五年間で大きなトピックといえば、充生の母親が家にやってきたことぐらいだろうか。二年ほど前のことになる。真帆はそのときのことをいまでも鮮明に憶えていた。
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