19
その夜、充生が寝付いたあとも彼女は眠れずにいた。自分の寝室を抜け出し(結婚したあとも、ふたりはそれぞれの部屋で眠っていた。環境を変えないこと。それがふたりの望むことだった)、廊下を歩いてリビングに入る。淡いオレンジの照明だけにして、彼女はソファーに腰を下ろした。手には康生の眼鏡があった。度が変わってつくり直す前に掛けていたものだ。オクタゴン。正八角形のフレーム。つくり替えるたびに、この形を選ぶんだと彼は言っていた。
歳を取ったら、きっと正八角形の老眼鏡をつくったんでしょうね。
彼女は康生の眼鏡を掛けてみた。視力はよいほうだったので、レンズ越しの世界は大きく歪んでいた。
康生さん――
あなたとは一緒になれなかったけど、わたし、充生さんと結婚したわ。あなたのたったひとりの息子。ねえ、こうなることは決まっていたのかしら?
ふいに涙が込み上げてきて、彼女は大きく息を吐いた。少しだけ目が潤んだので、彼女は眼鏡を外し下睫毛を指先で拭った。
眼鏡って不便ね、と彼女は思った。涙を拭うのだって簡単にはできないの。こんな分厚いレンズを通して、わたしはどんなふうに見えていたのかしら。
彼女は鼻で長く息を吐き、首を大きく反らした。髪がソファーの背もたれを滑り落ちる音が微かに聞こえた。視野の隅に白い家が見える。マルタ島。康生がつくった紙粘土のミニチュア。彼女は身体を反転させ、ソファーの上に膝立ちした。島は少しだけ埃を被っている(いくら掃除をしても、この部屋の埃をすべて無くすことはできない)。彼女はふっと息を吹きかけ、家々の稜線を指でなぞった。ふと思いつき、手をのばしてゼンマイの螺子を巻く。螺子は思いのほか大きな音を立てた。
真帆はあたりを見回し幾つかの球を見つけ、それを町の背後の受け皿に流し込んだ。レバーを引き上げる。
三分間、と彼女は思った。
たった三分の短い賑わい。
でも、ひとの一生だってこんなものかもしれない。星だってそう。この宇宙にだって(どんな形にせよ)終わりは来るのだから。始まってしまったら、終わることも引き受けなくてはいけない。それが決まり。悲しいけれど。
「眠れないの?」
声に振り返ると充生がダイニングとの境に立っていた。水色のストライプのパジャマを着ている。コットン製。いつのまにかずいぶんと袖や裾が短くなっている。
「うん、ちょっと興奮したかな」
「特別な日だもんね」
「ええ」
彼は歩いてくると、真帆と同じようにソファーの上で膝立になった。
「マルタ島」
「うん」
「懐かしいな。これはぼくが十三のときに父さんがつくったんだ」
「十三……」
「母さんが出て行ったすぐあと。あのときは寂しかった」
「うん」
「父さんも寂しそうだった。ずっと落ち込んでいたよ。このミニチュアをつくったのは、気を紛らわせるためだったんじゃないかな。暇な時間をつくらないように、何かを考える隙をつくらいないように」
「うん」
父さんね、と充生は言った。
「真帆ちゃんに会えて、すごく嬉しかったんだと思うよ」
「そう? その話は聞いていないわ」
「うん。言っていない」
「聞かせて」
真帆が言うと、充生は小さく頷いた。
「うん」
彼は少しだけ考えるような間を置き、それから静かにしゃべり出した。指先はずっと島の道をなぞっていた。
「最初は――可愛い子がいるって言っていた」
「ほんと?」
「うん、ほんと。よく見かけるんだって。地下の食品売り場で。大人しそうな子なんだ。痩せていて、髪は長くて、色が白い」
「うんうん、それで?」
「いつもドーナツビスケットを買ってる」
「まぁ」
そんなところまで見ていたんだ。真帆はなんだか不思議な気分になった。
康生さんがわたしを見ていた。その視線に気付くこともなく、わたしは生きていたんだ。とても大事なひとなのに、なんで気付かなかったんだろう。
「で、ある日」と彼は続けた。
「すごく
あの日だ。真帆にはすぐにわかった。
ペンギンみたいな格好で固まっていた彼――
充生がくすりと笑った。
「父さんは、そういうのほんと駄目なんだよね」
「あなたもよ」
「うん、まあそうだけど……」
ぼくも見たんだよ、と彼は続けた。
「真帆ちゃんのこと。父さんと一緒に食品売り場に行ったことがあるんだ」
「そうなの?」
うん、と彼は頷いた。
「あの子だよ、って父さんに教えられて、どう思う? って訊かれた」
「やだ――どう思った?」
「うん、そうだな――」
充生は少し宙に視線を置き、それから微かに笑みを浮かて言った。
「ああ、本当だ、って思った」
「本当?」
「父さんの言うとおり。可愛い。痩せてて、髪が長くて、色が白い」
「へえ……」
真帆はこっそりと興奮してた。充生から可愛いと言われてのは初めてだった。服やアクセサリー、あるいは目や眉や耳と言ったパーツを褒めることはあっても、彼は全体としての真帆を褒めたことは一度もなかった。心が浮き立ち、頬が熱くなった。
「わたしね」
「うん」
「あなたたち親子より前に、三度だけ可愛いって言われたことがあるんだ」
「じゃあ、これで五回だね」
「そうだけど――これって、わたしが本当に可愛いってことなのしら?」
「そうじゃないの? 真帆ちゃんは可愛いよ。ぼくの基準で言えば」
「充生の基準で言えば――」
「うん」
「他に何か言いたいことはある? わたしに」
「ん?」
「可愛いの他に」
『あ』から始まる言葉よ、と彼女は心の中で言い添えた。
彼はしばらく考えていた。すぐ横にある充生の顔。何度も目を瞬かせている。長い睫毛が音をたてそう。でも実際に聞こえてきたのは彼の鼻息だった。
「うん。別にないよ、他には」
「なにも?」
「うん」
きっぱりとした口調だった。
「まあ、そうでしょうね」
親子揃って口が堅いのね。この言葉を口にすると、世界が終わってしまうとでも思っているのかしら?
「ああ、でもね」
なに? と彼女はにわかに色めいた。
「父さんが言ってたんだ」
「康生さん?」
「うん」
「なんて、彼?」
「真帆ちゃんと結婚するって決めたとき」
「ええ」
「彼女を幸せにしてあげたいなって」
ふいに――あまりに唐突に涙が込み上げてきて、彼女は声が出せなくなった。
「ぼくも思うよ」
「――うん」
「父さんよりも、ぼくはもっと不自由な人間だから、とても約束はできないけど、でも願ってる」
「――うん」
「真帆ちゃんが幸せであればいいなって」
それにひとつだけ、と彼はにわかに強い口調になって言った。
「これは約束できる」
彼はソファーの背もたれを手で押しやるようにしてぐっと胸を反らした。
「決して――決してぼくのほうから離れていくことはないよ。真帆ちゃんがいやでなければ、ぼくはずっとずっと一緒にいるから」
彼女は笑顔をつくろうとした。ありがとう、と言おうとした。でも、どちらもできなかった。真帆は充生の腰に抱きつき、パジャマの腕に顔を押し付けた。
お願い、と彼女は言った。
「生きて――それだけがわたしの願い。あなたに生きて欲しいの。あなたが生きていることがわたしの幸せなの。お父さんよりもずっと長生きして、たくさんの笑顔をわたしに見せて」
大丈夫だよ、と彼は言った。
「ぼくらは長生きする一族なんだって、父さんいつも言ってたもん」
そうね、と彼女は囁くように言った。自分の呼気で唇が一瞬温かくなった。
充生が躰を捻るようにして彼女を抱きしめた。頭の頂、髪の分け目、生え際、そして濡れた瞼に充生の唇が押し当てられた。彼女が顎を上げると、充生の鼻が頬を掠めた。唇が触れ、微かに涙の味がした。
「あなた……」
吐息と一緒にそんな言葉が漏れた。
ふたりのすぐ脇で、何かの拍子に転がり出た硝子球が、カラカラと乾いた音を立てながら町の斜面を下っていった。
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