2
*
唐突に彼女は現れた。想像していたよりもずいぶんと小柄な女性だった。日に焼けた肌と、少し色の褪せた長い髪。
「初めまして」と茜は言った。
「あなたが真帆さんね?」
スコットランドのハイランド地方で偶然古い知り合いに会ったのだという。そこで康生の事故のことを知った。
「ごめんなさいね。もっと早く来るべきだった」
「いえ……」
彼女を探していたことは言えなかった。
「ちょっと
「ええ」
ごめんなさい、と茜は再び言った。
「なんだかわたしが康生を死なせてしまったように思えてならないの」
「いえ、そんな。あれは、事故ですから」
「そうは言ってもね……」
ふたりの関係はひどく複雑だった。茜は夫の母親であり、かつての恋人の元妻でもあった。反目し合うのか、親密になるのか、向かうべき方向すら真帆には分からなかった。ふたりはおおむね品よく友好的に振る舞ったが、つまるところそれは礼儀をわきまえた他人同士とさして変わりはなかった。
「お墓にはもう行ってきたの」
茜が言った。
「花があったわ。あれは、あなたが?」
「ええ……」
真帆は週に一度は康生の墓に花を供えに行っていた。墓地は家から十分ほどの場所にあり、クラフトショップの帰りに寄ることが出来た。
ありがとう、と茜が言った。
問うように視線を向けると、茜が硬い笑みを浮かべた。
「なにもかも、あなたにまかせてしまっているから」
「あ、いえ……」
「ほら」と彼女は言った。
「わたしはこんながさつな女でしょ? 男に生まれてくるはずが、母親の身体の中にあそこと喉仏を置いて来ちゃったのね。だから、妻にも母親にもなれなかった」
「そんなこと――」と言い淀み、けれど言葉は堰を越えて零れ出た。
「――ないです。茜さんはちゃんと奥さんだったし、お母さんだった」
茜が息を止めた。
「そうかしら?」
溜め込んだ息を吐くように言う。
「そうです。茜さんの場所は、まだちゃんと在ります。わたしはあなたの代わりではなく、別の場所に居るんです。だから――」
だから、何なんだろう。先の言葉は思いつかなかった。ピリオドの代わりに置いた言葉。高ぶった気持ちの中に、少しだけ嫉妬があることに真帆は気付いていた。それを気取られたくなかったし、けれどもう伝わってしまっているような気もした。
「ならば――」と茜は言った。
「なおわたしは罪つくりね」
彼女の言葉に棘はなかった。皮肉というよりは自嘲。
「そんな――」
「いいの。本当のことだから。気付いていたのに、気付かない振りをしていたのね。引き受けなくてはいけない役柄を放棄しようとしていたの」
茜は髪を掻き上げ、丸みのある富士額を露わにした。真帆はふと、茜の年齢のことを思った。ずいぶんと若く見える。
「悪い母親になるくらいなら」と茜が続けた。
「母親であることさえも忘れてしまおうとしていたのかもしれないわね」
わたしね、と彼女は言った。
「こう見えても、けっこう自己反省のひとなの。あちゃぁ、って思うわけよ。また、やっちゃったって。で、いい子になりたいから目を塞いじゃうのね。無かったことにしようって」
真帆は何も言えず、ただ茜の口元を見つめていた。
「旅の恥はかき捨て、って言うでしょ?」
茜の言葉に真帆は小さく頷いた。
「私の人生そのもの。現実にも比喩的にも、わたしはそうやって生きているみたい。同じ場所に留まったら、いたたまれなくって窒息しちゃう」
「じゃあ、また?」
「そうね。また旅に出る。命尽きるまで、ずっと旅を続けるの」
その翌日、茜は言葉どおり旅立っていった。充生との再会は、ひどくそっけなく、端で見る真帆がじれったく思うほどだった。
「大きくなったわね」と茜がいい、「うん」と充生が応える。
「真帆さんと幸せになってね」
「そうだね」
「手紙を書くわ」
「わかった」
それから、一方的な抱擁があり、親子の再会は終わった。
あとで真帆は、ほとんど責めるような口調で充生に訊ねた。
「なんで、もっと愛想よくできなかったの?」
だって、と充生は言った。
「だって、なに?」
「うん、なんかさ、照れちゃったんだよね」
なるほど、と思うしかなかった。それが充生なのだ。
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