それからひと月ほどのちに、彼女は康生の自宅に招かれた。息子が十八になる、その誕生パーティーを開きたいのでぜひ、と誘われた。不安になって訊ねたら、ほかの招待客はいないということだったので、当日彼女はバナナシフォンケーキをつくって教えられた住所におもむいた。


 歩いてほんの十分ほどの距離。思いのほか近所で少し驚いた。

 そこは、サルスベリやハクレンの庭木に囲まれた古い平屋住宅だった。

 黒ずんだ石造りの門柱に、小豆色の木製の門扉が付いている。プラスチック製の表札には「伊田康生」とあり、その隣に「茜」「充生」と書かれてあった。


 奥さんの名は茜なんだ、と真帆は思った。いや、いまは元奥さんだけど。


 門扉を開き中に入る。足下にはずいぶんと年季の入ったレンガが敷かれていて、その両脇にはシダや山野草が繁っていた。頭上を覆うように庭木が枝を伸ばし、十五坪ほどの庭に目をやると、歪み掛けたバーゴラがあった。色褪せた横木にはフジが幾層にも絡みついていた。

 あまり、手入れをしているようには見えない。この庭は奥さんの趣味だったのかもしれない。雑草が茂ってるわけではないけど、どの植物も好きなように枝を伸ばしている。季節は秋で、花を付けているものもあったが、それよりも夥しいまでの緑に真帆は目を奪われた。


 まるで、と彼女は思った。

 緑のまゆみたい。

 その中心に彼ら親子がいる。


 玄関脇には大きな火鉢があった。水が張られていて、そこからフサモやフトイが顔を出している。フトイの先にはアカネトンボが留まっていた。そういえば、ずいぶんと虫の音がかまびすしい。

 玄関ドアも木製だった。

 いまどき珍しい。ここだけ時間が止まってしまっているみたい。

 赤褐色に塗られたドアには、十センチ四方ほどの窓が付いていた。中を覗こうとして顔を寄せてみたが、波ガラスになっていてよくわからない。

 ドア脇に十円玉大のボタンが付いたドアブザーがあったので、それを押してみる。耳を澄ますが、家の中からは何も聞こえてこない。もう一度押して一歩退く。身体を斜めにして庭のほうに目をやるが、そこにも人の気配はない。


 留守かしら。


 真帆はちょっと不安になった。出直してもいいけれどケーキが心配だ。距離が近かったのでドライアイスは入れてこなかった。

 二歩ほど庭のほうに移動して、また首を伸ばしてみる。バーゴラの下で白黒まだら模様の猫がくつろいでいるのが見えた。向こうも彼女に気付いたが、興味のない様子で、あくびをすると緑の中にゆっくりと消えていった。

 彼女は再びドアの前に立ち、今度はノックしてみた。一度目はためらいがちに。二度目はかなり強く。そしたら、奧から返事があった。


「どうぞ、開いてますから」


 来客が誰か確かめなくていいのかしら、と彼女は思った。それでも言われたとおりドアを開け中に入る。

 すっと何かが鼻腔を満たした。古い家の匂い。枯れ草、樟脳、それと豆を煮たような匂い。それに少しだけ黴の臭いも。

 目の前には黒光りした板敷きの廊下があった。薄暗くて、すぐには奧まで見渡せなかった。

「おじゃまします」と声を掛ける。

 返事がなかったが、彼女はパンプスを脱いで(お呼ばれだったので、ワンピースを着ていた)そのまま上がった。やけに滑らかな廊下で、ストッキングが滑って歩きづらかった。

三歩目で床板が軋む音をたてた。

 ずいぶんと久し振りに木が軋む音を聞いたような気がする。

 廊下の右にはドアがふたつ。左は引き戸になっている。正面の入り口にはドアはなく、代わりに玉暖簾たまのれんが下がっている。おそらくそこが目的の部屋だと読んで、彼女はそのまま進んだ。

 じゃらじゃらと音をさせながら暖簾をかき分け中に入る。

 そこはダイニングキッチンだった。十畳ほどの広さで、食卓が中央にあり、すでに料理が並んでいた。

「ああ、いらっしゃい」

 エプロンを着けた康生がシンクに向かいながら言った。 

「こんにちは」

「もう終わりますから、そこに座ってて下さい」

 そして、真帆の足下に目をやり、ああ、と呟く。

「スリッパ」

 彼はエプロンの裾で手を拭きながら歩いてくると、彼女の前で立ち止まりスリッパを脱いだ。

「これ履いて下さい」

「えっ……」

 康生は裸足のまますぐにシンクに戻ってしまった。真帆は困ってしまい、こちらに爪先を向けて置かれた一対のスリッパをしばらく見下ろしていた。ビニール製の古びたスリッパ。青地にバックスバニーによく似た兎の絵が描かれている。

「あの、このスリッパ――」

「うち、来客がないんで二組しかスリッパがないんです。それ履いてて下さい」

「はぁ……」

 形式的な譲り合いが苦手だったので、真帆は彼の言葉に従うことにした。足を入れると、スリッパはまだ温かかった。

「ブザー、鳴ってました?」

 気になって、真帆は訊ねてみた。

「あぁ、あれ壊れています」

 康生が言った。

「来客ないんで、そのままにしてます。宅配便は知ってて、いつも大声で呼んでくれるから問題ないんです」

「そうなんですか……」

 何かが少しずつおかしい。でも、それが彼らしさなのかもしれないけど。

 真帆はケーキの箱をテーブルの上に置くと、そこに重ねられていた皿にシフォンケーキを取り分けた。皿には赤いバラの絵があった。

「よし、出来た」

 康生がそう言って、大きな木皿を持ってきた。おそらくシーザーサラダなのだろうけど、クルトンだらけでレタスが見えなかった。   

「充生」と彼が奥の部屋に声を掛けた。

「いま行く」と、返事がすぐにあった。よく似た声で、真帆は康生に気付かれぬようにうつむきながらそっと微笑んだ。

 玉暖簾と向かい合う位置にもうひとつドアがあり、そこから充生が姿を現した。

「やだ……」と、彼女は思わず声を出してしまった。

 充生は父親にそっくりだった。少し猫背気味なところとか、細い首でやけにのど仏が目立つところとか、眉の太いところとか。おまけに充生も眼鏡を掛けていた。

「初めまして」と充生が言った。ひとなつこくも、よそよそしくもない、中立的な距離。それが真帆には心地よかった。

「初めまして」と挨拶を返す。

「そのワンピース――」と充生が言った。

「すごくいいですね」

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