いま思い返しても、奇妙な出会いの挨拶だった。充生は真帆のすべてを褒める。身体の細かい部分、耳や足首、あるいはその日の眉の描き方。小さなピンクオパールのピアスや銀のネックレス。そして、新しく買った服。本人は心の底から、それを美しいと思っているらしい。お世辞は言わないから、多分そうなのだろうと思う。「趣味悪いわよ」と、ときおり恥ずかしくなって茶化してみても、彼は不思議そうな顔をするだけだ。自分の審美眼に、ずいぶんと自信があるらしい。彼のとてもユニークな一面だ。



 父親にそっくりな充生にも驚かされたが、この親子がいつも身を置いているというリビングに通されたときも、彼女はかなりびっくりした。

 あらかたの皿をきれいにたいらげ(男ふたりは、痩せているのに大食らいだった)、ケーキも腹に収めてしまうと、康生はダイニングと曇りガラスの引き戸で仕切られたリビングに彼女を誘った。

「仕事もここでしています。一番落ち着く場所だから」と彼は言った。

 部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女は微かな目眩を覚え、思わず引き戸の枠に手を掛けた。

 あとから考えれば、あれは圧倒的な視覚情報に、脳が幻惑させられたせいだったのかもしれない。 

 三方の壁が天井まで届く棚になっていた。

 そこを何かが埋め尽くしていた。

 無数の色と、無数のディテールがあった。一瞥いちべつしただけではとても識別できない。まるで、曼荼羅まんだら模様を見ているみたいだった。どこまで目を凝らしても細部があり、棚のひとつひとつに広大な世界があった。


「ごちゃごちゃしてて、汚いでしょ? 捨てられない性分なもんで、いつの間にか棚いっぱいにガラクタが溜まっちゃって」

「いえ、ガラクタだなんて……」

 彼女は康生を仰ぎ見て(彼は真帆より二十センチほど上背があった。充生は二十歳を過ぎても成長を続け、やがて父親の背を抜くことになる)、目で了承を得ると、正面の棚に歩み寄った。腰窓があって、その部分だけがぽっかりと四角く空いている(オミナエシの花が咲いているのが見えた)。あとは、すべて「ガラクタ」で埋め尽くされていた。


 まず目に付いたのは、大小様々な球体だった。材質もいろいろある。金属性で、鏡のようにまわりの世界を映し込んでいるものもあれば、樫だか松だか、とても硬そうな木でできた球体もあった。透明な硝子の球、あるいは、土を焼いてつくったような球もある。小指の先ぐらいの小さな球もあるし、グレープフルーツほどの大きさの球もあった。

 これらは、棚のあちらこちらに点在していた。転がり落ちないようにフェルトやコルクの上に据えられている。


 あるいは、石、そして流木、乾燥させたハーブ(おそらくこれは奥さんが置いた物)があった。インディゴブルーの小瓶が並び、外国のコイン、小さな置き鏡(たぶんアンティーク、あとで数えたら十七もあった)、朱色のサイコロ、ダーツの矢、ガラス製の気圧計、何かの骨(トカゲ、あるいはヤモリ?)、高さ十センチほどの小さな人体模型、銀のペーパーウェイト、一九七二年の卓上カレンダー(四月五日が赤いペンで丸く囲まれていた。何の日?)、プラスチック製のアトマイザー。


 一番彩り豊だったのは小さな玩具たち。あの地下の食品売り場で康生が熱心につくっていたような可愛らしいオブジェ。動物があり、乗り物があり、美術品のレプリカがあった。


 棚には本も置かれていたが、その前面にこれらのオブジェが並んでいるため、すぐには取り出せない状態になっていた。背表紙の一部が覗いていて、そこには「量子論」「ダーウィン」「ギリシャ神話」といった言葉が並んでいた。

 顔を上げ、上の棚に目を向けると、そこにもびっしりと本が並んでいた。花の図鑑、料理のレシピ本、デザイン図鑑、それに小説。題名からすると、おそらく海外のミステリーかSF(彼女には馴染みのないジャンルだった。ハメット、ギルモア、カミングスといった名前があったが、彼女はそのいずれも知らなかった)。コミックもたくさんあった。真帆が子供の頃に読んだ懐かしい題名も、そこには並んでいた。


 天井に目を向ければ、そこからは、なにやら複雑な形をした機械のようなものがいくつもぶら下がっていた。彼女の視線に気付いた康生が説明してくれた。

「あれは、ダ・ヴィンチの発明品を設計図を見ながらぼくがつくったたものです」

 手前のは、と言って彼は一番近くの天井を指さした。

「ヘリコプターの原型といわれているものです。羽根はウォールナットを削って作りました」

 彼女が頷くと、康生はすぐにその隣を指さした。

「あっち飛翔機械、グライダーです」

「ほんとに飛べそう」

「飛べますよ。これは小さいけれど、本来はこの部屋一杯に羽を広げるぐらい大きかったはずですから、きっと人間だって」

 へぇ、と彼女が感心すると、康生が嬉しそうに笑った。

「その隣は、球体凧。きれでしょ?」

「ええ、きれい」

「対称性は美しいんです。安定していて、構造的にも強い」

 数えてみたら、天井からテグスでつり下がっているオブジェは全部で十二個もあった。康生はそのすべてを丁寧に説明してくれた(真帆は少し飽きかけていたが)。


 正面から左手の壁に移動すると、そこにはソファーがあった。年代物で、クッションがお尻の形に沈んでいる。紺色のビロードだったのだろうけど、かなり色落ちもしていた。

 その背中にも棚がある。ソファーが邪魔で近寄ることができなかったが、そこには、ひどく興味の惹かれる物が置かれてあった。

「もっと寄ってみて下さい。ソファーに乗っかっちゃっていいから」

 彼女が躊躇していると、隣にいた充生が、ぴょんと跳ねてソファーの上に飛び乗った。膝立ちしながら、背もたれに手を掛け棚に顔を寄せる。

「ほら」と康生が言った。

「彼のように、どうぞ」

 彼女は充生の顔を見た。彼は、そこに自分だけしかいないような素振りで、じっと棚を見つめていた。でも、意識しているのは分かる。ほんの一瞬、目だけを動かしてこちらを見た。そして、唾を飲み込む。細い首から薔薇の刺のように突き出たのど仏が、大きく上下するのが見えた。

 彼女はワンピースの裾をたくし上げ、膝の下に巻き込まないようにしながらソファーに上った。裾が絡んで転んでしまうのが怖かった。世界を崩壊させたくはない。

 裸の膝に触れるベルベットがくすぐったかった。彼女も充生にならい、背もたれに手を乗せ、棚に顔を近づける。

「これは――?」

 しばらく眺めてから振り返り、康生を見る。

「紙粘土細工ですよ」

 彼が誇らしげな顔で言った。

「マルタ島にある古い町のミニチュアです」

「とても精巧にできてる……」

「仕事の合間に少しずつ作業して、三月みつき掛かりました」

 そんなに、と言って、真帆はまたそのミニチュアに視線を戻した。丘の斜面を白い町が覆っている。尖塔があり、円屋根があり、楼閣がある。小さな路地、つづら折りになった階段、石造りの橋、細い手摺り、そして幾百もの窓。目を凝らせば、バルコニーにほどこされた彫刻やそこに置かれた植木鉢までもが見える。細部、細部、細部。

「なんだか、目がおかしくなりそう」

「そう?」

「遠近感? 世界が大きくなったり小さくなったりしているような感じ」

「脳が迷っているんです。正しい反応ですよ」

 康生はソファーから離れ、庭側の壁に向かった。真帆が熱心にミニチュアを眺めていると、彼が戻ってきて言った。

「このままでは町は死んでいます。だから――」

 彼は真帆と充生の顔のあいだから町に向かって手を差し伸べた。手の中には棚から拾い上げたいくつもの小さな球があり(透明なガラス製)、彼はそれを町の背部に流し込んだ。それから台座の脇にある螺子ねじを巻き(クツワムシの鳴き声のような音がした)、隣にあるレバーを引き上げる。


 その途端、町に命が吹き込まれた。

 ガラス球が町に踊る。球体は路地を走り、階段を下り、石橋を渡った。ふいに尖塔の窓から飛び出してくる球。辻でぶつかりあい、また別の道へ分かれていく球たち。うねる坂道を下り、それらは最後にミニチュアの最下層にある建物の中に飲み込まれていく。

「すごい!」

 真帆は興奮して、ソファーの上で身体を小さく弾ませた。

「このガラス玉が住人なのね?」

 康生が頷く。

「彼らはゼンマイ動力で最上部に運ばれ、また町を駈け下っていきます」

 三分間、と彼は言った。

「三分間だけ、この町は活気付きます。それがこの町の一日なんです」

 彼の言葉通り、ほどなくして、町はまた静かになった。

「おもしろいです。こんなの初めて見ました」

 彼が満足そうな顔で頷いた。

「充生と協力して、もっと大きな町をつくっているところです。完成したらまたお見せしますよ」

 隣の見ると、充生が父親そっくりの笑みを浮かべて、何度も頷いていた。

 

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