とにかく、こうしてふたりは出会った。もう、六年も前のことだ。


 そこから、すぐに交際が始まるわけもなく(求心力は強かったが、生まれながらの臆病さが斥力せきりょくとなって働いていた)、たまたま食品売り場に来合わせたときには世間話をするといった程度の、軽い付き合いがしばらくは続いた。 

 時間があればエスカレーター下のベンチに座り、一緒にタイ焼きを食べたりもした。


 真帆は彼との出会いを心待ちするようになり、必要のないときでも、何かと理由をつけてはスーパーマーケットに出向くようになった。


 康生との会話は楽しかった。

 彼は趣味が多く話題が豊富で、しかも話し上手だった。本や歴史、天文学や化学、あるいは宇宙物理学にいたるまで、話題は世界の端からもう一方の端まで、あまねく広がっていた。

 彼にはユーモアがあり、話にはつねにオチがあって、会話自体がひとつのエンターテイメントになっていた。

 彼自身の話は、だからずいぶんと時間を経てから語られることになった。




「三十八です」

 それは、マイケル・ファラデーが発電機の原理を発見した挿話のあと(このときファラデーは四十になっていて、そこから年齢の話になった)、ずいぶんと遠慮がちに口にされた。

「うそ!」と彼女は思わず大きな声を出した。

「うそじゃないです」

 世界や宇宙を語る彼は饒舌じょうぜつだったが、個人的な話題に近づくと急に覚束なくなる。彼は少し恥ずかしそうだった。

「三十八?」

「そう、三十八歳」

 彼女は、手にしていたタイ焼きのあんを床に落としてしまった。ビーズの手提げバッグからポケットティッシュを取り出し拭き取る。必要以上に拭いながら、彼女は大急ぎで考えていた。


 どうしよう、十近くも年齢を見誤っていた。三十なら、まだ二十四の自分と同じグループに属しているようにも思えるけど、三十八って、すごく大人じゃない。こんな友だちのような接し方をしてていいんだろうか?

 それにしても――どうして、こんなに若く見えるんだろう。人魚の肉でも食べたのかしら?

 彼女はさらに別の不安も感じていた。三十八なら、結婚しててもおかしくない。奥さんは働きに出ているのかも。だから、夫である彼が買い物を分担しているんだ。だとしたら、この気持ちは行き場を失う。まだ、芽生え始めたばかりの、ごくささやかな思いだけど、これ以上大きくなる前にブレーキを掛けなくちゃいけない。


 彼女はようやく身体を起こすと、残りのタイ焼き(餡の詰まった尻尾)を口に押し込んだ。無理やり飲み下し、彼に言う。

「すごく若く見える――んですね」

 不自然な口調だったが、彼は気付いていないようだった。

「うん、いつもそう言われる」

 そして、両手の指を花のように開いた。

「うちの子供と兄弟と勘違いされるときもあるし」

 やっぱり! 家族がいるんだ。三十八なら当然よね。一瞬、泣きたくなったが唾を飲み込みそれを抑える。お子さんは? と真帆は震える声で彼に訊ねた。

「男の子がひとり。いま高三です」

 高三といったら、彼女にとってはまだほんの十日ほど前のことだ(もちろん、主観的にだけど)。

 わたしは自分の父親みたいなひとに惹かれようとしていたんだ――

 真帆はもう一度唾を飲み込んで、それからそっと鼻を啜った。居住まいをただし、彼に訊ねる。

「高三って、受験ですか?」

「まあ」と言って、「そうなんだけど」と彼は続けた。

 彼の表情が少し固いのを見て、真帆は不適切な話題に踏み込んだのだと思った。別の話題を探そうとしたが、彼女が迷っているあいだに康生が先に口を開いた。

「彼は、きっと大学には行かないんじゃないかな」

「そう――なんですか?」

 彼はちらりと真帆を見てそれからまた視線を戻し、こくりと頷いた。

「いろいろと制約があるんです。ぼくら親子には」

 なんのことだろう? でも、訊ねていいのかどうか分からない。だから彼女は、ただ黙って彼の横顔を見ることにした。先の会話を相手に委ねる。彼はしばらく上体を前後にゆすっていたが、やがて再び口を開いた。

「ぼくら親子は」と彼は言った。

「人付き合いがすごく下手くそなんです。集団の中で暮らすことがうまくできない」

「ああ――」

それなら、わたしだって同じ、と真帆は心の中で声を上げた。だからこそ、わたしはあなたに惹かれたんです。

 彼は手のひらを擦り合わせて、そこに息を吹きかけた。

「普通のひとが普通にしていることがぼくらには難しい」

「ええ」

「だから、普通のひとのようにふるまおうとすると、すごく疲れます」

「ですね」

「ならば、ひとりでいたほうが楽だ。集団の中で無理するより、自分に合った生き方をしながら、そこで誰かを喜ばせる仕事ができたなら、それはもう幸せですよね」

「はい、そう思います」

 真帆は何度も強く頷いた。必要以上に強く頷いたので、彼がくすりと笑った。

「そう思ってくれるんですね?」

「はい」

「ぼくの奥さんは、そう思ってはくれなかった」

 真帆はぎゅっと身体を固くした。何かとの衝突に身構えるようにへそのまわりの筋肉に力を入れる。

「彼女は――」と康生は続けた。

「いつも外を見ていたから」

 ええ、と小さく呟くように言って、真帆は先の言葉を待った。

「小さくまとまろうとするぼくらに、彼女はいつも言ってました」

 彼は細く長い指で目の前の空間を祓った。

「もっと大きな世界で生きようよって」

 でも、と康生はすぐに続けた。

「ぼくらには、それはできない」

 そして自分の言葉に頷く。

「そう、できないんです。ペンギンが空を飛べないのと同じ。けれど、ぼくらは深く潜ることならできます。自分の世界の奥深くに」

 彼は顔を上げ真帆を見た。視線は彼女のあごの辺りにあった。

「そんなわけで、奥さんは大きな世界に行ってしまいました。いまは、確か東ヨーロッパのどこかにいるはず」

「ヨーロッパ?」

「はい、ときおり絵葉書くれます。八ヶ月ぐらい前からずっとハンガリーのジャーナリストと一緒にあの辺りを回っているから」

「お仕事で? 奥さんもジャーナリストなんですか?」

 いいえ、と彼は静かにかぶりを振った。

「彼女はなにもしない。ただ、見るだけです。知ることが彼女の悦びだから。ハンガリーのジャーナリストは彼女のいまの恋人です」 

胸の中を熱い刷毛で撫でられたような感触があった。

「じゃあ、奥さんとは……」

「いや――」

 彼はまったくニュートラルな表情のまま黙り込んだ。視線を斜め下に据えて、なにか考えている。

「ぼくらは――」と言いかけ、彼はまた両手の指をひらひらさせた。

「――そう、ぼくらは新しい関係の中にいます。もう夫婦ではなくなってしまったけれど、別の絆で繋がれている。ぼくは彼女を気遣うし、彼女もぼくらのことを心配してくれてます」

「ええ……」

「ぼくは彼女に親しみを感じているし、それは離れていても変わらない」

 康生は真帆の表情を伺うように、ちらりと視線を寄越した。気付いた彼女が顔を向けると、彼はすぐに視線を戻した。

「それと同時に、彼女がもう二度とぼくらの家に戻ってくることがないことも知っています。ぼくらは互いに尊敬し合っているけれど、あまりにも生き方が違いすぎていますから」

「でも、一度は結婚したのに……」

「学生のとき同じクラスでした。ぼくらはまだ自分が何者なのか知らなかった。あえて言うなら、ただの子供でした。そこからぼくらは別の何かに分化したんです」

「成長した?」

「少しだけ。本質は変わらないけれど、少しだけ複雑になった。あるいは、単純なままのぼくが取り残された」

 そうかもしれない、と真帆は心の中で頷いた。このひとはとてもシンプルだ。気持ちが安定しているし、その存在と同じくらいシンプルな生活を望んでいる。

「そして――」と彼は、会話をまとめるようにこう言った。

「息子も同じです。複雑な世界には馴染めない。単純で力強いものを愛してます。彼はこれ以上世界を広げることを望んでいません。だから、きっと――」

「受験はしない?」

「そういうことです」

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