第十九話 君にしか聞こえない


 決戦前夜の日が暮れようとしていた。


 トーキンの死は伏せられ、急病で部屋に隔離されていることにしている。


「はい、アーリー。本当にコーヒーでよかった?」


 二人の秘密の部屋として定着しつつある、元校舎の二階の教室に、二人分のコーヒーの香りが漂った。


 黄昏のオレンジ色は、まもなく藍色に変わるだろう。アーリアルには、それが待ち遠しくもあり、惜しくもあった。今日が過ぎる。もう戻ることはなく。電灯をつける気にはなれず、ザクセンもそれをくみ取って、薄暗い中で隣の椅子に座った。


 今日は曇っていて、月の光は昨夜よりもおぼろで弱い。


「……ザックスは、どうしてトーキン少佐が死んだかは知ってるの?」


「さっきキーフォルス中尉から聞いた。毒らしい。アーリーには伝えておいてくれってさ。……気をつけろって」


「気をつける……」


「明日は、この東部戦線一帯の命運を決めうる、一大決戦だ。それを目前にして、前線の司令官が死んだ。それも暗殺だ。基地内の人間を、無防備に信じるわけにはいかない」


「内通者、か……」


「特に、食べ物や飲み物だね。寝るときは一人にならないように」


「食べ物や飲み物?」


 コーヒーのカップを軽く掲げて口へ運ぶアーリアルに、ザクセンは苦笑して「刺激物でではあるね」と口調だけおどける。


 熱いコーヒーが、アーリアルの脆弱な唇の粘膜を熱で傷つけた。構わずにカップを傾けると、舌と上顎も軽く火傷を負った。だが、当のアーリアルはその痛みを、どこかぼんやりとしながら感じていた。


「アーリー、今、中尉や基地長たちが、動揺が広がらないようにしながら事情を洗っているよ。でもこの調子だと、全体の混乱を避けるために、大っぴらにはしないまま明日になりそうだ」


「そんな状態で戦う」


「そうだね」


「負けたら、悔しいな。この基地の人がたくさん、死ぬんだろうな」


「たぶんね。僕もワーズワースからこっち、軍の人たちのことは気に入ってる。男女差別もしないし。軍だと、女性をないがしろにして当たり前ってところもあるから」


「よく分からないな。女だったら、男だったらなんだっていうのか」


「年下の、それも異性に能力で負けることが、この世で最も屈辱的だと思っている人間もいるのさ」


「屈辱、か……そんなに大事なのかな、そんなもの」


「人によってはね。……アーリー、それ、唇腫れてない? 大丈夫?」


「熱くて痛い」


「言いなよ!?」


 ザクセンが慌てて、ミルクの入った銀色の細長いピッチャーを手に取った。だが、アーリアルは首を横に振る。


「でも私は、前よりは、ものの味が分かるようになった気がする。一番食べ物がおいしいと思ったのは、姉さんの結婚式の時だったけど。姉さん、嬉しそうだったから」


「お姉さん?」


「私に優しかった。料理を教えてくれたけど、私が上手になる前に、結婚して隣町へ出て行ってしまったよ。私が、今までに一番屈辱的だったのは、その旦那さんに、姉さんを取られた時だよ。生まれてからずっと一緒だった私を置いて、私は両親なんかのもとに残された」


 ザクセンは、昨日とは逆だな、と胸中で呟いた。今まで他に、話せる相手がいなかったところは、二人とも変わらない。


 アーリアルの手の中のコーヒーが、波紋を生んで揺れる。手の震えを抑えることは、意志の力では不可能だった。


「でもねザックス、お義兄さんは、私に優しくしてくれたんだ。姉を奪ったんじゃない、兄が増えたんだと言ってくれた。私が両親とけんかした時は、私をかばってくれた。なんだ、勘違いだったなって思った。寂しかったのも悔しかったのも一時のことで、これからはきっと素敵なことが始まるんだって思った。そんな時、二人はサントクレセイダの中央に出かけた。そうして……」


 ザクセンの頭には、一つの事件が浮かぶ。アーリアルの口ぶりから、すでに夫婦はこの世にいないことを、ザクセンは察していた。


「……コットソードの爆撃?」


 シヴァの戦闘機体ゾディアクスが、一瞬の間隙を突いてしかけた、サントクレセイダ首都からほど近い都市への奇襲と空爆。


「そう。二人とも死んだ。いい人から、死ぬべきじゃない人から、死んでいく。だから戦争ってだめなんだよ。そうしてまた、私は何を食べても味がしなくなった。この頃は少しましになっていたのに、まただ。軍で、人を殺すための組織で、屈辱がなんだっていうんだ。生き残るために、ここにいるんじゃないのか。くだらない。どうして、人は死ぬんだろう。私も殺してる。すぐに死ぬ。生きてるのは、生きる意味のないやつだけなんじゃないのか」


「僕は生きているよ。アーリー、君も」


 それまで肩を強張らせてカップを見下ろしていたアーリアルが、ザクセンへ振り向いた。


「……落ち着けっていうの?」


「落ち着いたりなんかしなくていい。一人でない時ならね。特に、隣にいるのが僕であれば」


 アーリアルの目に涙が込み上げた。どういう涙なのかは、自分でも分からない。確かなのは、いつもは飢えた山猫のような神経の自分が――自覚はある――、今、ひどく無防備であるということだけだ。両親のいる家にいた時よりも、ずっと。


「ザックス……」


「うん?」


「お願い。薬をやめて」


 ザクセンが息をのんだ。


「ザックスがいなくなったら、私は本当に一人になってしまう気がする。これから先、死ぬまでずっと」


「アーリー。君は人間として魅力的だよ。たくさんの友達や家族がこれからできるさ」


 アーリアルがかぶりを振り、


「そんな言い方はしないんだ!」


「……ああ、今のはよくない言い方だったね。誤解させてしまった」


 そう言ったザクセンの両肩を、アーリアルが正面からつかんだ。ザクセンがぎょっとする。


「私は、ザックスを誤解しない。だから怖いんだ。本当はそんな人と出会えないはずなのに、出会ってしまったから……」


 薄絹のような月明かりの中、昨夜と同じにまた、お互いの瞳に、お互いが映っている。空気に溶けてしまいそうなほどに、おぼろに。体温だけが伝わる距離で。


 その時、教室のドアから、聞き知った声が響いた。


「こんにちはぁ。ずいぶん暗いけど、アーリー、ザックス、いる? ……なんで二人とも、背中向けて座ってるの? それになんだか顔が赤くない? とにかく電気くらいつければ?」


 アーリアルがぶんっと顔を入り口に向け、


「ま、マリィ!? どうしたの、こんなところに!? ワーズワースは!?」


 と、マリィからの質問には一切答えずに叫ぶ。


「ワーズワースの基地長のお使いで、お兄ちゃんが駆り出されたから、一緒に来たの。軍人さんも一緒だったから、肩こっちゃった。着いてそうそう、紅茶やコーヒーを入れっぱなしの振るまいっぱなしだったのよ」


「そ、そうなんだー! 私はうれしいよ、また会えて!」


「はしゃいでるね、アーリー。……ザックスは、なにその目つき? 何か怒ってる?」


「……いいや。どちらかというと、助けられたよ」


 アーリアルはきっと視線をザクセンに送ったが、二人のパイロットの間に起きた繊細な問題は棚上げされてしまった。


「ふうん、いろいろあるのね、きっと。私もお茶を持ってきたから、今日はだめだろうけど、落ち着いたら飲ませてあげる。……明日、大変みたいね?」


 アーリアルは真顔になって、


「耳が早いね、マリィ。そう、大変なんだ。基地の中も、外の敵も」


「基地の中?」


「アーリー」とザクセンの声がとがめてきた。


「だって、マリィだって知っておかないと、今のカフィニッシュは危ないんじゃ」


 ザクセンは立ち上がった。


「いくらなんでも、ただの軍属の子供を狙ったりはしないだろう。マリィ、今日は泊まるんだろ? お兄さんと、離れないようにするんだよ」


「私は大丈夫よ。それに、ワーズワースの基地長だって結局ついてきたのよ」


 へえ、とザクセンが声を出す。「オールデリ基地長が? 珍しい。どちらかというと、前線嫌いのはずだけど」


「ワーズワースはしばらく大丈夫そうだからって。物資をトレーラーにたくさん積んで運んできたわよ」


 それを聞いてアーリアルが目を輝かせる。


「物資? もしかして、戦闘機体ゾディアクスの増援も!?」


「あ、そういうのはないと思う。ごめんね……」


 がくりと肩を落とすアーリアル。


 両手を合わせるマリィを送り出し、二人ももう寝る準備をすることにした。


 明日の作戦は、混乱の中でもゴルデンやキーフォルスによって詰められており、先ほど到着したオーリガも加えて決定された。


 オーリガはさすがに、出戻った直後なのでなんの実権も与えられずに明日は指令室に同席するだけらしいが、キーフォルスは「今はそれでいい」と満足していた。


「おやすみ、アーリー」


「おやすみ。……ザックス、さっきは変な感じになって、ごめん」


「ああ。いや、ごめんってことはないけど。僕の方こそ」


「でも私は、今すぐではなくても、ザックスには薬をやめてほしい」


「……うん。分かってる」


 二人は一緒に教室を出た。


 一階からはまだ会議の声が響いていたが、すでに明日への決意で胸を満たしていたアーリアルには、雑音にすら聞こえなかった。

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