第十五話 月に溶ける


 軍議を終えると、アーリアルは、再び先の教室へと向かった。


 さっきまで戦っていた時と同じように、月はやはりひどく明るい。部屋の明かりをつけずに、アーリアルは窓際の椅子に座る。


 一階では延々と、作戦の細かい詰めで騒がしくしているのが響いてきていたが、二階まで上がってくる者はほとんどいないようだった。


 そう思って嘆息した時、引き戸を開けてザクセンが入ってくる。


「お疲れ様、アーリー」


 その手には薄い銅製のマグがあった。濃い湯気が立ち上っている。


「ザックス、さっきからどこでそんなもの入れてきてるんだ」


「裏庭があったんで、そこで固形燃料で。アーリーは紅茶でよかった?」


「ありがとう。いただきます。……私、どんどんザックスに聞きたいことが増えていくみたいだな」


「……今日戦った兄のこと?」


「それもある。……本当はマコのことを少し話したかった。悔しいよ、私」


「うん」


「でも、私が撃ち落としてきた敵も、これから撃ち落とす敵も、誰かにとっての大事な人なんだろうな。トーキン少佐にとってのマコのように」


 気丈に振るまってはいても、帰投後のトーキンの落ち込みようは、見ている方がたまらないほどだった。


「ザックス……次の出撃はいつ?」


 ザクセンが肩をすくめた。


「明後日、朝七時。まだ詳細までは明らかになってないけど、ついさっき斥候から連絡が入って、やっぱりシヴァは二路侵攻作戦をとるみたいだ」


「ザックスは、どうしてそんなに先のことが分かるんだ?」


「分かるわけじゃないけど。相手の性格に頭の程度、それに戦力を考えればだいたいね」


「……そのザックスが、あの敵に――」


「キルティキアン。キルティキアン・フウ」


「――キルティキアンには、かなわないと思っている?」


「そうだ。奴は全てにおいて僕よりも優れている」


 二人は、カップを傾けた。熱い液体が、アーリアルの恐る恐る開けられた唇の隙間に、小さな風音を立てながら吸い込まれていく。


「奴がこの戦場を離れてくれたおかげで、僕たちには勝ち目が出てきた。おそらく、正式にガーナ基地に配備されたわけではなかったんだろう。そんな状況で出くわしたのは、運がよかったのか、悪かったのか」


「過大評価じゃないのか?」


「そうだとよかったんだけどね。子供の頃から、キルティキアンの能力は突出していた。新兵の時期に、すでにシヴァ中枢軍のエースと肩を並べたか、追い抜いていた。でも、その時に奴は悟ったんだ。自分が、シヴァ人から受けている差別を」


 アーリアルは首をかしげた。あの男の印象と、差別を受ける立場というのが、今ひとつ一致しない。


「アーリー、シヴァではね、今でも往年の身分制度の影響が色濃く残ってるんだよ。元貴族の上流階級からは、一般市民は単なる労働者として扱われるんだ。そして、軍でも上の階級に行くことが容易ではない。けれど、エース級の下位士官なんて立場には、キルティキアンは満足しなかった。だが重要な戦場には配置してもらえないから、手柄の立てようがない」


「ん……確かに、そんな扱いは酷いとは思うけど」


「実は、フウ家は、いわゆる没落貴族の末裔なんだ。だからなおさら、キルティキアンは自分の境遇を理不尽に感じたのかもしれない。そこで奴は、一計を案じた。正攻法ではなく、搦め手に走った」


「戦闘とは、別の手柄を立てたってことか?」


 顔を上げてそう言ったアーリアルの目に映ったザクセンの目は、これまでになく沈痛を称えていた。


「当たり。両親の、謀反の罪を上層部に訴え出たんだ。それも、証拠を自分で捏造した上で。両親は極刑になり、それに意義を申し立てた親族も、ことごとく手打ちになった。銃殺さ。……それも、キルティキアン自身の手で行われた」


 アーリアルが絶句する。


「その『手柄』によって、僕の兄は特進した。もう四年前、奴が今の僕らと同じ十五歳の時の話だ。当時の僕は、何が起きているのかさっぱり分からなかったよ。いきなり周りから、兄以外の家族と親族が消え去り、その兄は軍の中で引き立てられて、重要な戦場に呼ばれて行った。僕は十一歳で軍の施設に入り、パイロットとしての技術を教え込まれた」


「そうか……キルティキアンは、それから最前線で戦い続けたのか……」


「そう。その弟だもの、僕も軍に期待されたんだね。でも僕は、一年ほどした頃に、兄が一族に何をして成り上がったのかを遅まきながら知った。クラスの同級生が、いきなり僕を『親殺しの弟』と呼んだから、とっ捕まえて洗いざらい聞き出したんだ。そして出奔した、もう一日たりともあの国にいたくなくて、サントクレセイダに逃げ込んだ。……その時には、僕は、家族と僕の人生の仇を討つことを心に決めていた。それが今さら、……戻って来いだなんて!」


「ザックス!」


「僕があれから、どんな思いをしたか! 父も母も大好きだった。よく一緒に遊んでいた従兄弟も、巻き添えで殺された。特に手柄もないのに得心階級に入れられて、それが面白くない同級生や先輩からは、毎日のように……くそ!」


「ザックス、もういい!」


 アーリアルのカップの中の紅茶は、すっかり冷えていた。ザクセンのコーヒーも、同じように。


「ザックス、もしはっきりと言葉で言えるなら教えて欲しい。あなたは、キルティキアンを……」


 アーリアルが聞こうとした時、思ったよりもすぐ近くにザクセンの顔があることに気がついた。


 アーリアルは、一瞬だけ、ああ近いなと思ってから、いきなり足がすくむような気恥しさに襲われた。


 ザクセンの瞳に自分が映っている。アーリアルの瞳にも同じように、この黒髪の少年が映り込んでいるだろう。


 その時、月明かりが陰った。互いの瞳の中の光と、輪郭が、闇の中に紛れる。


 アーリアルは、自分とザクセンが、同じ闇の中に溶け合ってしまうのではないかと、不安になった。


 その不安が感覚を鋭敏にさせ、少年の体温をほのかに自分の頬に感じる。互いの内側に互いが混ざり合っていくような錯覚に、アーリアルは、ふっと気が遠くなりかける。


 その時、ガラッと教室の引き戸が開けられ、明かりが点灯した。


 全く悪気のない顔で、キーフォルスがハンドライトを片手にずかずかと入ってくる。


「ここにいたのか、君たち! 電気もつけずに危ないぞ。それにしてもザックス、お前気難しい上官にものを言う時はもう少し気を遣ってだな、……どうかしたのか二人とも、急に背中を向けあって座ったりして。ケンカか?」


「いえ。つい、感情的になってしまって」とザクセンが棒読みで答えた。


「そうか? ところで、二人とも明日は私に付き合って欲しい。この近くで、訪問したい家がある」


 アーリアルが首をかしげ、


「私たち三人で、ですか?」


「そうだ。ザックス、我々の方針はお前の立てた作戦でほぼ決定だ」


「はい」


「その成功のために必要な人材がいる。そいつに会いに行く」


 アーリアルはいぶかしげに眉をひそめる。


「人材? 私たち三人の知り合いなんているんですか? それに作戦前のこんな時期に?」といくつかワーズワース絡みの面々を思い浮かべるが、心当たりがない。


「いや、直接の面識はなかろうな。私の同僚だ。一度軍を辞めたが、服役してもらう。作戦前のこんな時期だから必要なんだ、体制の強化がな。多少のブランクはあれど戦闘機体ゾディアクスを乗りこなせる優秀なパイロットで、部隊長経験もある。名前はオーリガ・アリンガム……」


 確かに、アーリアルには聞き覚えがない――ファースト・ネームには。


 それまで柔和な顔をしていたキーフォルスの顔が、そこで固く引き締められる。


「……戦死した、テジフ・アリンガムの実兄だ」


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