第40話 輝く水面に誘われて


「うわっ、つめたっ!あははっ、すごいっす!こんな暑いのに水って冷たいんすね!」


「んーっ……っ…きもちい…やっぱり水浴びが一番っ…」


「いいっすねーこれっ!授業なの忘れちゃいそうっすよ。…でもこれ、授業的にはありなんすかね?」


「…?…いいんじゃない…かな?……あんまり知らないけど…清潔にするのも大事…………あと、汗臭いと今夜困る……」


「え?なんっすか?最後聞こえなかったっす」


「んー……内緒……えい…っ」


「ぷわっ!やったっすね!マウラっちもずぶ濡れになるっす!」


わいわい、きゃっきゃっ

二人の少女が木々から通り抜ける日差しの下で、浅い湖面をしぶかせる。マウラは寝間着の代わりに持ってきていたショートパンツに体にぴったりと着く袖無しと、露出多めの服装。スーリはインナーとして持ってきている膝上までのズボンに薄手のボタンシャツとラフな格好だ


探索は突然の雨や川に落ちた場合に濡れた衣服を着ていては体温を極度に奪われ体調を崩す。よって、軽装でも予備の服装は常に持ち歩くのが鉄則だが、今回は濡れてもいい服装として予備の軽装に身を包んで湖を堪能しているのであった


とはいえ、マウラは完全に寝間着用の無防備な服装である辺り、濡れてもそのままにするつもりだったのか、それとも濡れない自信があったのか…


湖の浅い箇所は膝までしか水位も無く、足で冷たい水をかき分けるだけでも心地いい。冷たい湖が辺りの空気を冷やしているのか森の中で感じた熱気はかなり抑えられており、まさに避暑地と呼べる場所となっていた


「ほあぁっ…!こ、ここってネヴァ湖ですよねっ!初めて来ちゃいましたぁっ!」


「まぁ、なかなかこんな王都の近くまで来て夜営はしないものね。森に入る機会もそう多くなかったし」


「アタイらも気が休まるってもんだ。後であの2人も交代で入れてやんなきゃな。しかし…猫の獣人で水浴び好きなのは意外だ」


「あ、やっぱそうよね、クレイラ。私も勝手なイメージだけど、猫の獣人って水で濡れるのが苦手ってイメージあったのよ。マウラは…随分慣れてるというか、だいぶ好きみたいだけど」


ネヴァ湖はこの森に存在する比較的街道から近い場所にある湖としてそれなりに有名な場所である。澄んだ地下水の湧き出す清浄な水源であり、多くの小川を生み出しているネヴァ湖は水棲の魔獣もあまり住んでいない為、近づいても安全というのが人気の1つ


森の深層に住むような魔獣も、この湖から流れる小川で水を飲む為、このような森の浅い場所にはそう出てくることもなく、水場にしては珍しく魔獣と鉢合わせる事もあまり無い、隠れた名スポットとなっている


惜しむらくは、ここから王都までの距離が馬車で半日程とかなり近く、ここで夜営するくらいなら王都まで突っ切ってしまった方が早くベッドで寝れてしまう事だろう。

皆、ここで立ち止まる事自体が少ない為にメジャーというより穴場のような存在となっていた


しかし、流れる小川を見つけるのは水の音で分かりやすいが、流れの無い湖を平面の森で探すのは通常ならば面倒である

たとえ森の浅い場所にあろうも、たちふさがる木々が隠してしまえばそう見つかるような物ではない。今回は、マウラがこの辺りの水の匂いを感じ取ったから場所を把握できたが何も知らずに来たのならば、そう簡単に一直線では来れないだろう


「しっかし、久しぶりにニュートの話聞いたけどよ、やっぱ今でも不思議に思うんだよな」


「勇者の大きさの話?別にドワーフだって居るんだから変じゃないと思うけど…あのガチガチの鎧を着た状態でニュートさんの肩ぐらいまでしか背丈が無かったって話よね」


「あっ、でも確かに変かもですっ。だってだって、勇者って異世界人ですよね?た、確か…異世界ってそういう種族の違いが無い、ヒューマンだけの世界って聞いたことあります!だとしたら…」


「あぁ…よっぽどチビオヤジでもなければ、当時の勇者ってのは…子供だったんじゃないのか?…って、アタイは今でも思うんだよ。ほら、色々勇者の正体って説が流れてんだろ?」


「確かにねぇ。その説の1つ…『年端もいかぬ子供である』っていうの、聞いたことあるわ。どこから出た情報なのかは知らないけど」


ニュートの背は高めではあるが、1.8mも無い普通の老人である

そう、ニュートに「勇者ってどんなだった!?」と当時問い詰めた時に聞いた話がこれだったのだ

当時の自分達と、鎧で大きく見えても尚ほとんど変わらない大きさと言われ、生身はさらに小さい筈となれば疑問も浮かぶ


世界を救った勇者に容姿の良し悪しなどどうでもよいが…まさか子供が最前線で血生臭い大戦争に先陣切って突っ込んでいたなどとあれば、流石に倫理的にどうなのだろうか?


…そう思えるのは、戦争が終わったからこそなのかもしれない。と、エスティは密かに思う

余裕がない、滅亡の危機に瀕した人々はそれでも、彼を戦場に送り込んだ…送らざるをえなかった

手段など、選ぶ選択肢は無かったのだろう、と


「ほんとに…平和が一番よね」


「でもよ、アタイはやっぱオチが一番好きだな、あの話は!」


「ぅぇえっ、イヤですよぉ!そ、想像したくないですっ!要塞に残らなくて良かったって思いますもんっ!」


「あ…あれ、ね。いや、私だって聞くだけでもどうかと思うけれど…」



勇者と魔将の一騎討ち

歴史に残る戦いではあったのだが、最後の最後に襲来したエデルネテルを撃退した際、寄生性の昆虫型魔物の幼体が詰まった卵塊を凄まじい量投下してきたのである

そのまま要塞に落ちればグアンタナスは昆虫型魔物の巣窟となり、生き残った物達も苗床として悲惨な運命を辿る最悪の一手であった


ブヨブヨとしたゼリー状の物に包まれた、集合体恐怖症の物がみれば発狂するようなグロテスクな物体が高高度から自分達に向けて落下してくる様は人に容易く絶望を与える光景だったのだが


これを勇者が迎え撃った


門外の魔物を殲滅、追い込むために凄まじさ量の戦闘ゴーレムを引き連れていた勇者は、自身の武装とゴーレムに搭載された魔砲『純魔法素粒子砲エーテリックカノン』による猛烈な弾幕を展開した


光の線や点が夜空に向けて無数に走り、卵塊を破壊する度に花火のごとく閃光と爆発が輝く光景は凄まじく、現代の地球であればさながら、SF映画の宇宙船モノでしか見れないような…光の砲弾とビーム砲が雨あられと放たれる状況となっていた


この常軌を逸した対抗措置によって、グアンタナス要塞に落ちる卵塊は全て破壊、迎撃されたのだが…


迎撃された卵塊は、ぐしゃぐしゃに破壊され粘液とゼリー状ナニかとブヨブヨの肉片の雨となってグアンタナス要塞に降り注いだのである


しかも肉片は青緑色で粘液は黄色、ゼリー状の部分は透明感のある白濁と、どう見ても宜しくない色の物がスコールのようにどちゃどちゃと落下してきたのだ


全員が思った


『うわぁ…』


…と


いや、勇者は悪くない

普通に落ちてきてたら王国にとって最悪の病巣となるのは間違いなかったのだから

だがしかし…広大なグレーの石とと黒い鉄で構築された武骨な要塞が汚ならしい汚物で色鮮やかに塗りたくられていく光景をみると何とも言えなくなってしまう


…いや、勇者も気のせいでなければかなり引いていた


勇者パーティの面々…特に大聖女と名高いラウラは「いいいいぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!」と耳をつんざく強烈な悲鳴を上げて自身の上空にこれでもかと光の障壁を張りまくり、自分を囲むように障壁を何重にも重ねがけするほど…ほかのメンバーも今日1番焦った様子であり…「ヲイ!?俺らも入れろラウラァ!やべ、降ってくる!マジでもう降ってくるだろ!?早く開けろォ!」「ら、ラウラ?私もあれはくらいたくないからね?ほ、ほら落ち着いてさ、落ち着いて素早く結界に入れてくれないと…!」 「我が身を覆え、青の牢獄…『氷鬼の岩戸』」「アッ、ずりぃぞサンサラ!?何自分だけ氷の中に閉じ籠ってんだ!俺の分も早く!」「あれは冗談では済まないよ!?何をそんな「可哀相に…」みたいに諦めてるんだい!」「おい、ザッカー!何とか言ってやれ!このままだと俺達だけグッチャグチャの虫汁まみれに…あ?おい、ザッカー?」「あ、彼ならジンドーが迎撃を始めた時には、とっとと城塞の中に避難してたわね。今まででも最速の身のこなしだったわ」「「早すぎるッ!?」」

レオルドとナスターシャの悲鳴が響き渡る!


2人の脳裏には「ハハッ、悪いね、お二人さん。おじさんは先に行ってるよ」と語尾に☆でも付いてそうな中年斥候の姿が揃って浮かび上がる!

パーティ最速の斥候は判断も人一倍速いのだ

…そう…見捨てる判断も人一倍!速いのである!


…そして、ちゃっかりジンドーも自分の兵器の下で『雨宿り』をしていた

四脚戦車のような兵器の真下で鎧姿で正座する姿はどこか…後悔と自責の念を感じさせるものがあった…


そしてグアンタナス要塞に再び人がしっかり住み込み出来るよう清掃が終わるまでに、半年もの月日がかかったのである

幸いだったのは、女性を健康なまま苗床にする為の物だったために、人が死んだり重篤な症状が出るような毒が一切無かった事であるが…対象の恐怖心や抵抗を削ぐために強烈な媚毒が含まれており、にならない内に全員が全速力で要塞から待避したとか…


ちなみに、レオルドとナスターシャがどうなったのかは……2人の名誉の為にここでは記載しない方がいいだろう…



「だってよぉ、勇者一向がそんなに慌てるんだ。よっぽどキショかったんだろなぁ」


「ニュートさんが虫汁まみれにならなくて本当に良かったわ…」


「と、鳥肌が…!も、もしエデルネテルの封印が解けたら世界の裏まで逃げてやります…っ!」


ケラケラと笑うクレイラと対照的にげんなりとした様子のエスティとユッタ…特にユッタはこういうのはしっかり想像してしまうタイプだった

顔が真っ青である


ちなみに、要塞で全てを最期まで見届けてしまった某将軍(現大将)は今年で四歳になる娘さんがいるんだとか

いったい、四年前にあの要塞でなにかあったのだろうか?

…全ては彼とその奥さんだけが知るのみである


「って、あれ?マウラはどこに行ったのかしら?」


「あ?…さっきまでそこで水遊びしてたんじゃ…」


ちらり、と振り返るクレイラとエスティの視線の先に、先ほどまでスーリと水を掛け合っていたマウラの姿が忽然と消えている

…まさか、深い場所に脚を踏み入れて溺れてしまったのか?

ざっ、と慌てて立ち上がり浅瀬に駆け込むが、溺れたにしては側にいたスーリが何やら湖面の真ん中の方をじー…と見つめているのが妙である

そう…2人の脳裏にこの森での最初の狩猟の光景がフラッシュバックした

現れる魔物、消えるマウラ、そして…


『……まさか?』


スーリの視線を追いかけて湖の真ん中の方向へ視線を恐る恐る向ければ、先ほどから静かで凪いでいた湖面にぶくぶくと水泡が上がっており、徐々に水中から水が水面にむけて湧き上がるように盛り上がってきている

…まるで水中で何かが暴れているかのようである


そして突然


湖の中心の奥深くで瑠璃色の閃光が弾けた


まるで水中イルミネーションのように美しく瞬く稲妻が幻想的に湖の中心内部で迸り、落雷とは違ったくぐもったような重低音が空気を震わせる

最初の狩りでロックボアを仕留めたときにマウラが纏ったスパークと同じ色…クレイラに至っては昨晩、マウラが落とした雷と全く同じと言えるものを目撃しているのだからこの現象の原因も容易に想像が付く


しかし…


「きゃあっ!?」


「うっおぁ!?」


「し、っびびびびびびれるっすぅぅぅ!?」


バリッ、パリパリッ


湖の中心から走るスパークの一部が湖の浅瀬に素足を浸けていた3人に纏わり付き、びくんっ、と揃って体を震わせた

水面の奥底で放たれた雷撃のほんの一部が水面の浅瀬まで伝播したらしく、体験したことの無い電気の衝撃に3人揃ってバシャンッ、と尻餅をついてしまう


その閃光の直後、先ほどまでの荒れ始めた湖は嘘のように静まりかえり、元から何も起こっていなかったような静けさを取り戻し…


ざばんっ、と水を波打たせて見覚えのある瑠璃色の猫耳とショートカットが浮上…いや、恐らく身長よりも深い水深から湖底に足を付けて歩いて浅瀬に戻ってきているのだ

誰の影響を受けているのか全く分からないが、さながら海獣か人型兵器が海から陸に上がってくるかのような上陸の仕方はなぜか妙な迫力がある

徐々に浅瀬に進む彼女の姿が自ら上がっていき…その真後ろから何やら巨大な何かが浮上してくる

いや、マウラに引きずられて浅瀬に揚げられていくそれは少しずつ全体像が水面に上がっていく。深い紺色の背中にわずかな光も照り返す銀色の腹を見せる流線型。鋭利で何でも貫けそうな棘の並んだ鰭にノコギリの如く生えそろった牙が力なく開かれた口から「こんにちは」している

そして…デカい。普通に尾びれの先まで3mは優に超えている


「……お待たせ……あれ…?…どうかしたの…?」


ワイルドに濡れて輝く髪をかき上げて、その余裕のある静かな目をのぞかせる姿は、どこか女性でも引き寄せられそうな野性的な魅力があった

濡れたノースリーブが体にぴったりと張り付き、体中から水を滴らせるその姿は美しく、その小柄な体に不釣り合いな色気を漂わせているのは本人も自覚していない事だが、普段の彼女を知らなくても心奪われ、知っているならば普段とのギャップに釘付けになること間違いなしである


そんなマウラも、目の前で浅瀬にお尻を沈めてこちらを見あげる3人を見れば首を傾げてしまうのであった


「……しびれたっす。色んな意味で」


「…カナタ先生、いつまで持つかしら」


「間違いなく、先生の方が獲物だな。時間の問題だろこんなの」


「……いいかもぉ」


ユッタの言葉が小さく岸から聞こえてくるが突っ込む人間は誰もいなかった…



「で、あれが出て来た訳か…」


キャンプに引き摺られてきた巨大魚を見たカナタの一言目の感想がそれであった


「まさか素潜りのような事が出来るとは思わなかったもので…正直、度肝を抜かれました。いくら強化魔法が使えるからと言って体1つであんな大物を引き揚げてくるなんて…」


「まぁ、マウラは元から狩猟好きだしなぁ。夕飯の足しになるなら思いっきり獲ってくるのは間違いない…」


時は午後

湖の岸で昨晩の猪肉を含めた昼食を取って早々にキャンプへと戻ってきたマウラ達だが、キャンプに生徒は殆んど居ない

普通は未だ食料の確保や薪の調達などで現在も歩き回っている真っ最中であり、この時間に悠々とキャンプで過ごす生徒などいる筈もなかった


そこで横たわる丸々と太った3mもある巨大魚を見ればカナタの気の抜ける言葉も致し方ないだろう

…というか、この凶悪な牙の揃い方はどう見ても肉食にしか見えないが、どうやって捕らえたのか気になるところである


「こいつはシルバーノモトスだな。銀冠魚、なんて呼ばれている魔魚の一種…わりと珍しい魚だぞ?」


「へぇー…じゃあ長老、これ食えんの?」


「勿論、こいつは珍味で有名でな。川魚であるが、生でも食えるのが特徴。本来ならもっと長大な河川に棲んでるが、どうやら稚魚の時に下流からあの湖へ登ってきてそのまま育ったようだな」


シルバーノモトス…というより、ノモトスという魔獣の一種である…いわゆる魔魚は出世魚のような生態を備えている

稚魚の頃はノモトスとしか呼ばれず、育ち進んで体調が2mに達する頃、黒のみだった体色の腹側が鈍い銅色に変色するのだ。この状態が世にブロンズノモトスと呼ばれる。

3mを越えれば腹が銀色に変わりシルバーノモトス…つまり目の前の魚のように変化するのだ


ちなみにさらに上…その体が5mを超える程に成長した歴戦のノモトスだけが、その体色を金色へと変えてゴールドノモトスと呼ばれるようになる

ゴールドノモトスまで行くと個体数は非常に少なく、見るだけでも幸運、釣り上げればその界隈では伝説の釣り師とまで祭り上げられるような縁起物と扱われるのだとか


魔魚としてはある程度強い部類であり、このような強力な魔獣や魔物が棲んでない場所ならば間違いなく、水棲生物の頂点と言えるだろう


「ってか、こんなでかい魚がいる湖なんてあったか?俺もそこは行ったこと無いな…」


「ん…あっちの方……水も綺麗だし、広いから……水浴びに最適だった……」


ぴっ、とマウラが指差す方向を見るカナタが「いいなぁ」とぼやく

風呂好きのカナタはキャンプ中と言えど、川でタオルを濡らして体を拭く、というのはどうにも違和感があるのだった

彼の日本人の血が、体を液体に沈めろ、と騒いでいる気がするのである


「まぁ、まずはこっちだな。腐る前に何とかするか…。そうだな…今夜の生徒の夕飯に分けてやれるか、マウラ?」


「ん……2人分には多すぎ…いい、スーリ…?」


「もちろんっす。…というか、マウラっちはこの量どうする気だったんすか?」


「…お土産……シオンとペトラに…後は…おやつ…?」


「「「おやつ…」」」


こてん、と首を傾けるマウラにみんなの疑問が重なる

え、このデカイ魚おやつに齧るの?

という顔である

…いや、この少女ならやりかねない。帰りの荷車で魚の切り身を頬張る彼女の姿が鮮明に思い浮かんでしまう


「あー、まぁ良さそうなら切り分けるか」


沈黙を割いたカナタの言葉に、機嫌の良さそうなマウラが太股のベルトからコンバットナイフをすらりと引き抜く


この巨大魚が大量の冊に解体されるまでに、1時間とかかることは無かったが


その間、その場にいる全員が適宜つまみ食いをした結果、マウラのおやつの分は無くなってしまったのであった


ーーー


2回目にして演習最後の夜はかなり盛り上がった

なぜかと言えば、それは夕食の心配が無かった事に他ならない。皆、前日の教訓を経て狩りが上手く行かなかった部分を採取等に振り分けて食料の確保を行っていたので今夜までレーションを齧るような班は無かったのだが、やはり体を動かせば動物のたんぱく質が欲しくなるのが人である


そこに、引率の教員達が妙に大きな魚の切り身を分けてくれた、とあれば心踊らない筈もない。そして、それがとある少女達の班からのお裾分け、と聞けば当然感謝の1つや2つは溢れる


結果、スーリとマウラのテント周辺は若干のお祭り騒ぎになっていた


皆、本当ならば一言お礼を言って戻るつもりだったのだが、いざ相手のテントに行ってみればそこに居たのはかのベルフォリア商会の跡取り娘と思わず二度見してしまうような可愛らしくも美しい少女の2人と来たのだ


この演習に参加した者の中でも将来の役に立つと参加を親に促された裕福な家のものが1/3。そして一般の産まれで冒険者や商人等を志す者がスキルを身に付けるために参加したのが残りである


勿論、目を光らせる

何せ王国最大の商家のお嬢様とのお近づきのチャンスである

これを機に名前を覚えてもらい、少しでも仲良くできれば間違いなくこの先有利なのだ。行かない理由など何処にもない。

そしてその隣の少女は…いや、ベルフォリアのお嬢様も勿論目を引く可愛らしい少女なのは間違いない。10人中10人がそう言うだろうが、その少女はちょっとベクトルが違った


完全に周りと浮いている、と表現するべき美しい少女であり、獣人の証である猫耳と尻尾が彼女の魅力を何倍にも掻き立てている。

小柄ながらすらり、としなやかな肢体にクールな眼差し。可愛いと表現出来るのにどこか美人、と形容するべきキレのある顔立ちにスレンダーながらも主張のある体付きで、その脚を太股がかなり見えるようなショートパンツで見せているのはかなり扇情的に写る


さらに、話を聞けば差し入れてくれた魚はその少女が獲ってくれたと言うではないか


少年達は思った


『お近づきになりたい…!』


少女達も思った


『お近づきになりたい…!』


皆の心は1つになった結果、マウラとスーリのテント周辺だけ賑やかになってしまったのである


「…なんか…落ち着かなくなっちゃった…んー……ちょっと鬱陶しい……」


「こ、これがマウラっちパワーっすか…恐るべしっす…!社交で女性への耐性ある筈の貴族息子まで目に中に『♡』が浮かんで見えるっすよぉ…!」


…ちなみに、スーリ目当てで話しかけてる男子も相当数いた

他人への視線は機敏ながら自分へはまだまだ疎いスーリであるが、マウラはそうでもない。気配に鋭く反応し、視線を感じとり、敵意や悪意に気を澄ます…シオンとペトラを含めた3人の中でもこれらに特別鋭敏なのは実はマウラである


当然、彼女の機嫌は斜め下へ急降下

敏い貴族師弟はここで彼女の不機嫌を察した。社交界デビューをとっくに果たせた彼らはアプローチした女性が乗り気かそうでないか等はある程度分かる年頃だ

ここまで見た目に出ていれば流石に深追いが悪手だと気づく


「それじゃあ、今度は学院でもお話しましょう」「ええ、ですね。少し長居し過ぎたよ」「もう月も大分上ってきたからね、戻ろうかな」「ほら、あまり居座ると2人に迷惑だ。皆そろそろ戻ろう」


柔らかい言葉を使って撤退する彼らを見れば他の生徒も少しずつ察しが付く

”なに、このキャンプを機に学院でまた接する機会が増えればいい”

賢しい生徒は焦ることは無いと判断した。トラブルもあったこの演習は記憶によく残る、故に学院に戻ってからでもこの演習の話をネタに少しずつ距離を近づけて行けば良いのだ、と


この状況が面白くない生徒も当然いたのだが、ここまで周囲が固められては文句の一つも出てこない

特に、隣の班からは怨みがましい視線を投げながら渋々魚の身を頬張る生徒もいたのだった


「ほら、みんなそろそろ寝るっすよ!マウラっちも疲れてるんすから、あんまり集られても困ってるっす!」


しつこく残ろうとする生徒はスーリがしっしっ、と追い返す

流石にベルフォリア商会のお嬢様にそう言われては食い下がれる者も居ない。結果、マウラは一言も発することは無く、解散となったのである

見た目では分かりづらいマウラの機嫌を、スーリは少しだけ分かってきていた

そう…彼女がご機嫌斜めであることにも…


(うー…っ、あの2人ならもっと耐性ありそうっすけど、マウラっちはかなりこの手の接触が嫌いっぽいっすね。確かに、やっかみを流してるのはシオンっちとペトラっちの2人って感じっす)


焚き火を消してテントに潜りながら考えるスーリだが、考える内に眠りにつく

明日はもっと注意しなければ…そう思いながら、夢の世界へと意識を沈めていくのであった


ーーー


夜は更ける

月は天辺まで昇り、星の光と共に森の木々の隙間から柔らかな光を差し込ませ、周囲はたまに聞える虫の音と夜風が木の葉をくすぐる音だけ

キャンプは全て寝静まってから時間も経っており、起きて動く気配は今夜こそどこにも無い、正真正銘静かな夜


獣たちも寝静まるような森の中を1人、進む人影が上手く林の間をすり抜けて歩いて行く。

時間にして日付が変わるよりも少し前のこの時間…誰も居る筈の無い森の中で彼だけが迷うこと無くある方向へと突き進んでいく


「学院内で不審な行動は無し…外部からの不審者も無し…これといったトラブルも無し…変だなぁ。同時に仕掛けてくると思ったんだけど、当てが外れたか?」


『分かりません。今回の誘拐失敗の事を賊がまだ知らないならば同時に仕掛けて来てもおかしくない筈ですが…』


「オーゼフ先生の名前は想像以上に有名だった、あの人がいない内に学院を襲うと思ったんだがなぁ…。といことは…逆か?誘拐失敗を連中が知っているから仕掛けなかった…あー、そうか。普通はそうだな」


『どうかしましたか?』


「俺もそうだし他の冒険者もそうだったけど、普通ならこんな事件が起きれば俺達はすぐ生徒を連れて学院に引き返すだろ?多分、連中も同じ事を思ったんだろ。だから…」


『誘拐の失敗から即座にオーゼフ教諭が学院に戻ってきてしまうと判断した、故に学院に襲撃は無かった、と?』


「けど、実際にはオーゼフ先生は演習の続行を決めた。…もしかすると、襲撃の夜に強行で帰還してたら道中で襲撃にあってたんじゃないか?そして、今回の失敗から連中の判断は2つに1つ…学院襲撃の中止か、更なる手勢を連れての学院襲撃の二択」


『後者であれば、いずれ学院はおそわれる、と?』


「学生が夢にまで見た『授業中にテロリストが!?』って奴が起こりそうだな。…俺も1回だけ考えたことがあったなぁ…」


カナタが己の若干の黒歴史に苦笑いを浮かべる

誰しもそんなことを思う時はあるものだ…そう自分に言聞かせるカナタにツッコむ者は居なかった…


「ま、そっちはオーゼフ先生が手を打つだろ。俺の当面の問題は…」


『魔神族の動向と封印の安否、ですね。『SPRING』に現れた敵勢存在はその後、消息を絶っています。やはり、イクシオン、スフィアードだけで防衛は十分可能かと…』


「…ま、最悪『SPRING』の中身は出てきてもいい。他の2体より…というか、『AUTUM』より百倍マシだ。今出てこられたら困るのは間違いなくアイツだからな。…『AUTUM』に増援を増やす、『エンデヴァー』を向かわせろ』


『よろしいのですか?エンデヴァーはかなり目立ちますが…』


「…もうそろそろ、動く時だ。連中も、俺も、な。エンデヴァーは最新型だ、この前完成したアレもエンデヴァーに搭載してある。いざとなったら…ユピタ紅葉林ごと根こそぎ焼き払って構わない」


『了解しました。エンデヴァー、輸送を開始。並びに搭載された全兵装の使用制限を解除します』


「…ユカレスト方面にも増援、ロッタス山に『ガルガンチュア』を置いておけ。もしガヘニクスが出てくるようなら即時応戦、主砲『イレイサー』も使っていい、粉砕しろ」


『…本気ですね。これで勇者の存在は再び表に出ます。マスター、貴方は…』


「あぁ。ここから先は総力戦だ。俺と、アイツらのな。元から四魔はいずれ殺しておかなきゃいけなかった。それが、今ってだけの事よ。ガヘニクスは熱源…マグマのある火山が一番のエネルギー源だ。どうせまた地底に潜んで回復を待ってる…今回は、お湯を止めないようにな」


『流石に地中へ向けて攻撃を放つ訳にはいきません。ロッタス山の地面に向けて『イレイサー』を放てば局所的噴火を招きかねません。その場合、私の予測でもユカレストの8割は壊滅します』


「だろうな。だから、待つ。奴が地上に出た時が、戦いの合図になる」


独り言のように言葉を漏らすカナタが暗闇の中を器用に枝の間をすり抜けて歩き、その先に塞がるカーテンのように広がる林の中を掻き分けて進めば、目の前にそれは現れる


月と星の光をこれでもかと跳ね返し、小さな揺れがまるで星の河の如くきらめいて見える美しい湖が広がっていた

鏡面のように天の月を写し出し、この場に来ただけで吹き抜ける風の温度が数度下がったかのように感じる涼しさ

鏡のように見えた湖面は近くで覗き込めば吸い込まれるような透明さと、中心に行くほど美しい青色が濃くなり引き込まれるような錯覚さえ抱く


「すっげ…こんな場所あったのか。何というか、現世離れしてるような気になるな…」


思わず、声に出る

この世界に来て5年が経つが、ここまで静かで落ち着いた自然の景色は恐らく初めて見るのではないだろうか


基本、自然の中は食物連鎖と魔物の殺意の溜り場であり、気を抜けば死ぬ可能性を孕んだ危険地帯


…そう思ってきた中で、この景色は非常に鮮明に写った


そう、カナタの目的はこの湖である


何故なら…


「…汗、かいたからなぁ。ここは1つ、水風呂ってことで…」


そう、風呂の代わりを求めてきただけであった!

初夏のジメッとした暑さと昼間からの見回りで汗も出れば汚れもする

川の水で体を拭ってもいいのだが、入れる水場があるならば入らない手はない!


この演習に出て以来間違いなく一番のテンションで服を脱ぎ、薄手の膝上程の丈しかないステテコのようなズボン1枚だけを通す…言わば水着である


砂と見違う細かな砂利を踏み分けるのも心地よく、ざばざばと音を立てて入れば一気に火照った体の熱が湖に溶け出していくかのようで、思いきって肩まで沈めれば「ふぉっ…冷たっ」と声が出てしまう

昼間に比べて涼しさのある夜風も合わせてひんやりと心地よく、手で掬った水を顔に叩きつければ目の覚めるような爽快感があった


まさに穴場スポット


髪が濡れるのも構わずに、波打ち際で腕を広げて仰向けになれば時折寄せてくる湖の水が後頭部を濡らす程度に体を水に浸け、背中に感じる細かな砂利が擽るような感覚に眼を閉じる


このまま、あと10秒もすれば間違いなく意識は夢の世界に旅立ってしまうだろう居心地…
















「……カナタ…一緒に入ろ…?」


非常に聞き覚えのある、鈴を転がすような耳を擽る愛らしいその声に、カナタの意識は一瞬で夢の世界への道中から引きずり戻されたのであった

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