第三夜『山村の夜』

こんな夢を見た。


山にでも登ってみるか

誰ともなくそんな事をぽつりと言い出して、山岳信仰の深い、とある山村の安宿に旧友二人と泊まることになった。

安宿には広いお座敷の部屋がたった一つあるばかりで、宿泊者は皆そこに一まとめにされる。僕たち三人の他にもう一組、登山クラブだという女学生の団体と一緒になった。

素泊まりのみの安宿なので、特に気の利いた食事が出るわけでもなく、僕たちは到着するなりすぐに持参してきた酒と適当なつまみで酒盛りを始めた。

久しぶりに会う旧友との話は必然的に弾み、僕たちはすぐに良い気分になった。粗末な宴会だがどんどんと杯は進み、みるみる酔いが深まる。

かなり酩酊してはいたが、僕はお酒に強い性質なので、持参した酒が空になるまでは飲み足りない。一晩ぐっすり眠れば明日の登山には差し支えないだろうと高を括って、常にグラスを持ったまま旧友たちよりも殊更に酒を煽った。

時折女学生たちの方を横目にしながら酒を啜っていると、顔を真っ赤にしてすっかり出来上がっている旧友の一人が「よし、そろそろ行こうや」と、ふらつく足取りでおもむろに立ち上がった。

「行く? 行くってどこへや?」

聞けば旧友はこの山は夜に登るのが本筋だから今晩中に登るのだ、とぬかす。

夜の山登り。

僕は当然酔った勢いにまかせた旧友の冗談だと思ったが、僕たちと同じく部屋でわいわいと和んでいた女学生たちが、皆おもむろに登山の支度をはじめたところを見ると、どうも本当のことらしい。

僕は正直飲み過ぎて、立ち上がるどころか両方の瞼も容易に開けてはいられない具合に参っていたので、本筋とはいえ、この酔いを引きずっての夜の山登りはさすがに無謀だろうと、ふらつきながらも俄然行く気になっている旧友を見上げて渋った。

「なんだ行かんのか? それはダメだ。行かんと、鬼が来るぜ」

陽気な赤ら顔を一瞬すっと険しくさせて、旧友がそう呟く。そして畳の上に転がった空いた酒壜を手に取ると、怪しげな口ぶりでこの村の山岳信仰の伝承を滔々と僕に語って聞かせる。

この山村には昔から夜になると、人を攫って喰らう鬼たちが出るという。鬼は一晩中山村をうろつき回って人を喰い殺すが、日が昇る夜明けにはどこかへ身を隠すのだそうだ。

山の頂上には鬼たちが忌み嫌う神様を祀った古いお堂があり、鬼の難を逃れるには夜のうちにそのお堂に行って鬼が身を隠す夜明けを待たなければいけない。この山の登山が夜に本筋なのはその言い伝えの名残りから来ていた。

「なるほどな」

そうは言ってもはじめて訪れる山だ。そのうえ真っ暗な山道での登山。懐中電灯の明かり一つを頼りに泥酔した身体で登るにはあまりに危険というものだろう。それに登山の醍醐味である山の景色を楽しめないとあっては、いくら本筋でもやはり気が進まない。どうしてもというのであれば、ここは僕一人辞退して、あとは行きたい者だけで行ってもらうことにしよう。

僕がそんな結論を出すと、「まぁ、しょうがないか」と、意外にも旧友二人もあっさり僕に同意する形となった。

そして女学生たちがいなくなって恐ろしく閑散とした座敷でまたケラケラと三人で酒盛りを続けた。そのうちに一人、また一人と眠りに落ちていく。

どれくらいの時が経った頃だろうか?

いつしか眠ってしまった僕は、夜中に一人だけふと目を覚ました。寝静まった外の夜の闇が俄かに騒がしい。

座敷を出た廊下。その廊下の縁側に何かが大勢で来ている気配があった。

野犬とも思える、どこか苦しそうに低く唸る声が確かに耳に聞こえ、微かに血生臭いような臭いを寝ぼけた鼻が嗅ぎ取った。

「行かんと、鬼が来るぜ」

鬼。そんな事があるもんか。

大の字に寝転がっている旧友たちを押し退けて部屋の障子戸をそっと開けると、僕は外に広がる闇をジッと凝視した。

月のない静かで真っ暗な闇。その中にこの山村が言い伝える“鬼”の姿があった。

人の顔をした大勢の鬼。

四つん這いになった青白い顔に、爛々と輝く真っ赤な眼。その血に濡れた口元には八重歯にしては長すぎる牙が見え隠れしている。

深い闇の中を鬼たちがぞろぞろと縁側に向かって這いずっていた。

僕は恐怖で足が竦み、悲鳴も上げず、ただジッと鬼たちが近づいて来るのを見ていた。

人の顔をした大勢の鬼たちがこの山村の村人たちであると僕が気付く頃には、もうすでに鬼たちの顔が僕の目の前に迫っていた。

鬼たちは爛々と輝く虚ろな眼で僕を笑っていた。

夜の山登り。

やはり筋は通しておくものだ。

旧友たちは事態を知らずに已然眠り呆けている。

僕は一人部屋の隅に踞り、覚悟を決めて目を閉じた。

障子戸が破られ、呻き声と共に座敷に鬼たちが雪崩れ込む気配があった。

そして旧友たちの悲鳴を聞いた後、

部屋の隅でただガクガクと震える僕の顔に血生臭い息が吐きかけられた。

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