第15巻 天から来る者

 織絵と天狛の生活の朝は早い。台所で湯を沸かし、朝拝等で毎日忙しい朝の織絵の為に、天狛が食事の用意をする。

 別に彼からすれば昔から変わりなく、そのままに近い習慣だ。やもめ暮らしを10年以上もするとエプロンもなかなか堂に入った立ち姿になる。


 湯を沸かし、ゆでたまごを潰してパンに乗せる。カリカリに炒めたさいの目のベーコンとチーズ、少しのマヨネーズを掛けてオーブンへ。

 コーヒーの為に湯を温めて、そこから織絵が衝動買いして来たインスタントスープを選んでカップに入れる。

 お湯が90℃になったら、布ドリップでゆっくり蒸らしながらコーヒーを落とす。豆はわざわざ他県で豆を専門に卸ろす老人の店から買い付けたクリアな味わいの一品だ。


 台所の湯気を差し込む朝日が照らし出し、漂う香りに誘われてシャワーを終えた織絵がタオルを髪に巻いてテーブルにやってくる。


「おい、ちゃんと服着ろよ!」


「いいやん!でも、撮影は禁止やで?」


 単に目のやり場に困るので、天狛はそう言うだけだが織絵はあまり下は履きたがらない人だ。

 パンツ一丁ぐらい楽な事は無いのは天狛も同じだが、異性にやられたらたまらない。


「まったく!」


 そう言って天狛も手を合わせた。二人は男女の前に姉弟の感覚の方が近いらしく、幼児期からお互いを認識してしまうとこうもなるのかもしれない。

 少なくとも、桃子がやる様な挑発的で威圧を含んだ下品さは無く、リラックスした自然の姿なだけだ。

 大きなシャツの胸元には気に入りの瑪瑙(めのう)のペンダントをぶら下げている。

 

 以前、丁度目の前になる神無月に出雲を旅した時に民芸品屋で目について、大好きな深い緑色だから買ってしまった。

「織絵LIVE」などで、天狛がびっくりするぐらい稼いでいる彼女だが、ブランドではなく自分が好きかどうかしか判断の基準は無い。


 普段、夕拝までは地鎮祭やら氏子からの相談、お祓いが無ければ昼は何も無い。

 平日ならば昼寝をしたり、映画を観たりが彼女の日常で天狛はトレーニングや神社の掃除が仕事だ。

 しかし、二人が神社に修行に来る様になって早三週間。彼女らは昼過ぎにはやって来て自習的に座学をしていたりする。


「天ちゃん、ごちそうさま。ウチまたちょっと寝るわ・・寝不足!あんたも無理しなや、昨日もうなされてたんやから」


 そう言うと、次は添い寝の刑だと言って部屋へ行ってしまった。何も答え無かった天狛だが、この二、三日は汗だくで目が覚めている。

 昨夜はあまりの音に心配した織絵が部屋に飛び込んで来たほどだ。



 悪夢でも見たにしては、内容も覚えていない。近頃意識が朦朧とする時もある。

 少し前に、ここから組合の健康診断だって受けさせて貰ったが所見は無かった。小百合に頼んで、以前から診て貰って信頼している田中先生に診て貰おうか・・

 天狛もそんな風に考えてしまって、椅子に座り込んでしまった。桃子が来るなら、弓弦に今日は顔を出せないかもしれないと伝えて貰って休むか、と思案していたら気を失った様に寝てしまった。




「なんだ!ここは・・?」


 気が付くと、夜空に星々が輝き、まるで空に銀河が透けて見える様だった。大地は荒涼としていて、遥かに天と地が入り混じるかのごとく地平線が広がる。

 そこに、何かの遺跡が朽ち果てた後の様に倒れた石柱と石畳だけが遺されている。


 天狛が迷い込んだ異世界とでも言うのか。そんな静寂の中に、ザシャ・・!と言う聞き慣れない音を聴いた。


「ここか・・?ここは地上の生きとし生ける物全ての魂と想念の空間、我らがクオンタと呼ぶもっとも神々の領域に近い場所!お前達人間が深層心理と呼ぶ世界だ・・」


 何者かの影が突然に現れ、天狛に語りかけて来るのであった。






「やっとねぇ〜」


「桃、お疲れ様・・」


 好きでやってるからと、桃子は運転席から降りた。

 そのまま神社の端にある織絵宅に二人は歩き、詩織が玄関で呼び鈴を鳴らしても、誰の反応もない。


「開けちゃえば?・・ほら!こんにちは〜」


 そう言うと桃子は玄関を勝手に開けて大きな声で挨拶をした。

 だが、二人の目には以外な光景が飛び込んで来た。


「あ、天狛さん!しっかりして!」


 玄関には虫の息で天狛が倒れ伏している。詩織はそれを抱き上げて、必死で呼びかけた。


「生きてるの?」


 桃子が不謹慎な事を言っていると、奥の部屋から織絵が眼を擦りながら出て来た。



「なになに?おはよ〜なに騒いでんの?・・あっ!」


 天狛が詩織に抱かれ、力尽きた様に覆いかぶさっているのに気がついた。


「織絵さん!きゅ、救急車を!」


 息をさせる為に仰向けにして、首を持ち上げる。天狛はまるで絶命したように眼を見開いている。




「ちょっと待ち!息も脈も、心音も大丈夫・・これ、これもしかして呪詛やないか?最近うなされてたから、ウチてっきりランボーかな?思ってたけど!」


 織絵が言いたいのはPTSDの事だが、若い二人にはランボーでは伝わらなかった。何にせよ彼女は一度二度かこんな、パチンコ玉くらいに凝縮した様な黒目を見た事がある。重度の霊障で命の危険のあった人のそれを。


「桃子ちゃん、そこの電話に柴田先生ってあるから電話して!往診してはるねん!詩織ちゃんはウチと天ちゃん運んで!」


「はい!」


 二人はそれぞれ役割をこなすべく返事をしたが、労働者階級である天狛は重い。身の丈もありがっしりしているし、脱力した人間は見た目よりも遥かに重くなる。


「桃子ちゃん、はよ来たってぇ!」


「天狛さん、しっかり!」


 なんとか引きずる二人だが、援軍もまだなら天狛も首をブラブラさせて眼を見開いて気を失ったままだ。


「・・とにかくッ!ウチでも視えんとなると、かなりタチ悪いヤツやから!暗い部屋入れて集中して霊視するしかない!」


 そこに桃子が合流してきた。


「おまたせ!・・重っ!?」


 詩織と左右片方ずつ腕を掴み上げ、三人になってもまだ足りない。織絵はアキレス腱を持ち手に頑張る。


「はぁはぁっ・・!よっしゃあ、ふぅ〜んで、今日は予定を変更して実習やな」


 天狛を物置にしている小さな部屋に引きずり込むと、織絵は汗を拭きながら二人に指示をする。桃子はもし何かあって集中状態を解除してまわない様、外界の刺激から守る為に対応し、詩織は今から行う術式のアシスタントで、紙とペンやら水を準備する。


「よっし、見ときや・・!」


 そして織絵は精神を整えながら集中し、なにか呪文を唱え始めた。

 しばらくし、カッと眼を開きややトランス状態になって絵を描き出す。


「ふぅっ!ふぅ・・出来た?」


 織絵は水を口に含み、正気に戻る。そのイラストは天狛らしき男に、なにか棒がたくさん刺さっている様子が描き出されている。


「なんや?これ・・」


「矢、じゃないでしょうか!?」


 普段、弓を使う詩織はすぐに気がついた。





「何者だ!」


 あの世界から抜け出せぬまま、得体の知れぬ影に天狛が叫ぶ。


「フッ・・!私か?私は乙女の祈りにより、お前に愛を届けに来た天使・・!」


 天狛は言葉を失ったまま見つめていた。次第に影に光が差した様に、まるでローマ時代の高貴な鎧を纏い、背に巨大な翼を背負うその全容が明かされてゆく。


「・・愛天使(キュピト)のエロッセウス!!」


 名乗りと共にまた、ドンッと言う謎の音が聴こえたが天狛は気にしない事にした。


「愛天使(キュピト)の・・エロッセウスだとぉ〜!?」


 天狛の驚きざまを他所に、エロッセウスは眼を閉じて薄ら笑いを浮かべて長い髪を風に揺らしている。


「今日までお前に幾度となく、我が愛の矢を打ち込んだが・・お前は遂に心を動かさなかった、故に私自らわざわざとお前の魂に直接会いに来てやったのだ・・!」


 天狛は眼前の男の言っている事がまったく理解出来なかったが、ここは魂の世界らしい。


「一体なんの話しだ!?」


「見たまえ、自分の胸を・・」


 そう言われ、胸元を見下ろす。


「ナ、ナニィ!?・・お、俺の心臓に矢が無数に!だがなんの痛みも苦しみも無い!」


 そこには薄っすら赤い矢が、確かに乱雑に突き刺さっている。だが、言葉通り感覚はないのだ。


「愚かな・・!痛みも苦しみも、お前にはもはやあるハズだ!それが愛と言うものなのだからな・・!」


「愛・・だと?一体、俺がこの矢によって誰を愛したと言うんだ!!」


 すると、エロッセウスは黙ってスッと夜空を指差した。


「・・こ、これは!お嬢さん!?」


 夜空に詩織が微笑む顔が見える。


「お前の様な野良犬には、勿体ない娘だが・・強く清らかな祈りの力に私も久しぶりに心が動かされた・・そこで、お前を祝福すべくこうして赴いてやったのだ!」


 対峙しただけで理解出来る、エロッセウスの強大な力は天狛をしてかつて無いほどに緊張させた。


「だが通常次元では、お前は私の矢・・ラブシューティングに耐えぬいた。ただの人間にしては驚いたモノだが、この魂が剥き出しの世界ではどうかな?」







「これ、たぶん女の子が良くやる恋のおまじない、やな。でもなんでこんなヤバい威力が・・詩織ちゃん、あんた心当たり無いの?」


 倒れた天狛を挟み、織絵はまず詩織を疑った。ここまで強力なモノになると、まず術を掛けた人間を特定した方がいい。

 下手な解呪をしていたら手遅れになりかねないからだ。


「いえ・・私はなにも、ただ織絵さんに言われた氣と集中力を高める練習をして毎晩・・あ!」


「どうしたの!毎晩なによ?」


 桃子の問いかけに、しばらく黙っていた詩織は織絵のノートをこっそり見てしまった事を告白した。


「ノート?なんやそれ、ウチそんなん知らんで・・」


 織絵もわからない様子で、詩織は確かにそれを読んで記憶してしまった、そしてそれはまだ倉庫にあるハズだと言う。





「ぐわぁぁぁぁぁぁ〜ッ!」


 エロッセウスの放つ技の威力は軽々と天狛の肉体を天空に放り投げ、舞い上がった肉体は自由落下を始め、地面に激突する。

 この時、またドシャァ!と言う大袈裟な衝撃音が聴こえた。


「天狛とか言ったな、そろそろ観念して地獄に落ちろ!愛と言う名の地獄にな・・!」


 エロッセウスがゆっくりと倒れた天狛の頭の側へやって来る。


「愛・・だと?・・お前の言う愛とは、他人の意思を踏みにじり、無理矢理押し付ける事を言うのか!?」


 天狛は気迫だけで、自らの胸を貫いたエロッセウスの力に抵抗し、立ち上がった。そして、これが返事だとばかりに自ら体得した技で対抗する。


「天狼衝雷!!」


 渾身の稲光りがエロッセウスを貫く。だが、まるでそよ風にでも髪を遊ばせている様に涼しげに立ったままだ。


「フッ・・!天の御使いである私と、人間のお前では蟻と獅子ほどの差がある。それがまだわからんのか?」


 天狛の技ではエロッセウスの髪を焦がす事すらも出来なかった。


「バ、バカな!?俺の拳を受け、・・無傷とは!この男、まさしく神の使いだとでも言うのか!」


「人間にしてはおかしな芸をする、面白い男だな。だが、もはや面倒・・!このエロッセウス最大の奥義をもって祝福してやろう・・!」





 書物庫では、詩織の案内で例のノートが発見された。織絵は開口するなり大声で叫ぶ。


「あーーッ!コレ、ウチが高校生ぐらいの時の!コレはアカンてーッ!禁呪!禁じられた術や!これはな・・」


 呪術の勉強を始めて知識を吸収する中で、彼女が当時知り得た知識をごちゃまぜに編み出した呪いのチャンポンのレシピとも言うべき代物で、何が危険かもわからずやってしまった黒魔術などとのキメラ術式である。


「あんた、こんなモン天ちゃんにかけたんか!あれほどやるなってウチ言うたのに・・どこや!?術式書いたりした紙!」


 織絵は詩織の肩を力いっぱい掴んで怒鳴った。その迫力に怯みながらも、詩織は正直に事の次第を話した。


「わ、私は術はしてません!ただ、天狛さんがいつか振り向いてくれたらって、頭の中で思っていただけで!」


「・・それや!!」


 織絵には一体どこで術が成立しているかわかった。


「あんたら、ウチの言う通りにし!はよッ!手遅れになる!!」


 織絵は詩織にその時と同じ様に集中して術を思い浮かべる様に言って、桃子には三分経ったら自分に水を飲ませてほしいと言った。

 術式に介入し、その解除を試みる。そのリミットが三分である。





「ラブ・インジェクション!!!」


 エロッセウスの背後にオーラが天使の姿となって立ち昇り、両の手がハートを描く時・・轟音はまたもドーーーンッと大袈裟に響き、凄まじい威力のエネルギーが天狛に迫る。


 既に、辺りすべてが吹き飛んだ様に思えるほど強大な力の蹂躙であった。しかし・・



「バ、バカな!?・・この男!」


 天狛は歯を食いしばり、傷だらけの姿になりながらも両腕でラブインジェクションの力を食い止めていた。


「エ、エロッセウスよ・・例え神であっても、決して奪えぬ物がある・・・!」


 微かに、微かに天狛の両腕が前に出始める。


「ちっぽけな、に、人間でも誰もがそれを持つ事で、どんな苦しみにも理不尽にも希望をもってささやかな生命を生きていく事が出来る!」


 二人の間で、力と力が衝突しせめぎ合いを続けている。


「こ、これは私のラブインジェクションと、ヤツの得体の知れぬ力が拮抗し、燻っている!やめろ!これ以上やれば、互いの圧力が弾けこの空間ごと吹き飛ぶ事になるのだぞ!?」


 そうなれば神の加護があるエロッセウスは無事でも、人間の天狛の魂などこの極小であり無限でもある世界と共に砕け散る事になり、完全に消滅する。

 エロッセウスは敵ながら、天狛を殺したくはなくなっていた。


「何の為にそこまでする!私に従えば生きながらえてただ幸せになれた物を!」


 その言葉に天狛は叫んで答えた。


「な、何の為にだと?それが人間の尊厳・・自由だからだぁーッ!!」


 エロッセウスはもう、天狛は助からない。そう思い悲しくなった。

 このまま中空で押し合うこの威力がじきに暴発し、ビッグバンと化してそれに巻き込まれた天狛の魂は砕け散るだろうと・・だが、これほどの男を相手に拳を引けばそれこそ彼を侮辱した事になる。

 まして自分は読んで字のごとく、天から使命を授かる天使なのだ。



「あの、もう本人が祈るの止めたんで、終了して貰ってエエかな・・!?」


 エロッセウスは後ろから肩を叩かれ、その声に虚を突かれて驚いた。


「・・さらば!天狛、見事に砕」


「だから、やめえってんや!」


 織絵は怒って、エロッセウスの足を蹴った。


「え・・?でも今、あの、盛り上がってるんで・・!」


「しばくで?」


「いや・・あの、でも、ねぇ」


 天狛の薄れて行く意識では良くわからなかったが、二人は色々と言い合い、祈りの主から止める様に願われ、流石のエロッセウスも術式による契約が解除されて、二人がかりは厳しいのか、その後ブツブツ言いながら織絵に屈した。



「天狛俊・・今回はその美しい女に免じてその首は預けておいてやる!だが、貴様が天界に乗り込んで来た時にはこの決着・・」


「はよ行け!」


 織絵が怒ると、エロッセウスは来た時の様に何処かへ消えて行った。



「天ちゃん、大丈夫か?帰ろうな・・もう大丈夫やから」


 星々が瞬く中、織絵はボロ雑巾の様になるまで戦い抜いた天狛を抱き締めた。




「ごめんなさい、ごめんなさい!私ただのおまじないだと思って!」


 水を飲ませて貰って、意識が戻って来た織絵に詩織は平謝りだった。


「いや、考えたのウチやから・・でも良くそこまで巫力高めたな、凄いのおったで・・」


 織絵は詩織を怒りつけたりはしなかったが、これが呪術の怖さであり、心を鍛えて正しく使わなければならないと、最初の教えを述べて泣きじゃくる詩織の頭を胸に抱いた。



 まるで死体の様に、詩織の涙がいく粒落ちても天狛はどこか満足気にまだ眠ったままだった。


「で、一体どういう事なのかしら・・?」


 桃子は今回の術に無関係だったので、なにがなんだかさっぱりわからなかった。

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