第5巻 愛と怒りと悲しみの温泉卓球

 天狛はその旅館が気に入った。気さくな老夫婦が営み、農業の傍ら手伝う息子夫婦と共々、受け付けで孫娘が宿題をしている。

 そんなのんびりとした家庭的な雰囲気は、殺伐とした半生を歩んだ彼に忘れ去った温もりを思い出させてくれる。

 運ばなければならない荷物もない彼はロビーの隅っこにある使い込まれた卓球台を撫でながら穏やかな気持ちになっていた。



「あんまりさ、料理期待出来ないわね!安いし、ボロボロだもん」


 そうではない人物もいた、桃子だ。贅沢を知った人は平凡を不服とし、「普通」を失った人は家族が一緒で支え合う穏やかな平凡こそ手に入れ難い贅沢と言う良い対比である。



「でも、私達、運がイイって言ってたわ・・牡丹、猪ね。とれたのがまだあるから、出してくださるって」


「ボクは夏の山菜天ぷらと蕎麦、楽しみだけどね」


 とは言え、似たような環境で育てられた者達も楽しみ方はそれぞれ。

 表の犬を撫でながら、そんな三人とは距離を置く天狛は珍しく穏やかな笑顔を浮かべていて、それを横目に詩織の胸は締め付けられる様に苦しさを憶えた。



「・・よかった、天狛さんがあんな風に笑える時間が出来て」


 そう、声には出さなかったが荷物を置くため一緒に部屋に歩いた桃子は嗅ぎ付けていた。

 同じ女だし、何より昔から詩織を「少女漫画」と評していて、仕草、目つき表情、アクションで何を考えているか分かると言う、長い付き合いである。



「本当、趣味悪いんだから・・」


 そう言って、桃子はさっさと風呂に向かって歩く。遅いチェックだったから、急がないと無理を聞いてくれた宿に迷惑だ。


「・・私も行かなきゃ」


 桃子にそう言った本人が遅れを取る、二人の生きる速度はいつの間にかズレていた。




「天狛さんは、なぜこの仕事をしているんですか?」


 一人、湯船でこりゃあ中々いい湯だな。そう思い目を閉じていた天狛に、後から入って来た弓弦はかけ湯をしながら間髪入れずに聞いた。

 天狛特有の他者を寄せ付けない雰囲気を容易く破る、弓弦の親しみやすく素直な人間性が表れている。


「さあなぁ・・お前さんは、なんでだ?学生で、勉強出来るんだろ?」


 今日の時点でわかったハズだ、これは所謂3K仕事で、挙げ句に命の危険もある。



「だからこそ、本家だからって詩織ちゃんだけに任せておけないし、そのボク・・照れくさいですけど」


 そう前置きしながら一呼吸置いて続けた。


「他人を守る様な、そんな仕事がしたかったんです!ヒーローみたいな!」


 興奮して立ち上がる弓弦の股間を見て天狛は唸る。


「そりゃ・・ご立派で!」


「あ、あはは、いやぁ〜」


 そう言ってまた湯船に浸かる弓弦に、天狛は言った。


「ま、今の内に考えたらいいさ・・」


 結局、自分の胸の内に質問の答えは無かった。自分で社会不適合者だと感じるし、信じるものも大層な思想もなく、ただ何かを忘れて戦う事しか、彼に欲求は無かった。



「遅かったじゃない!男のくせに」


 食堂でほんの少しお預けになっただけで桃子は不機嫌だった。感情が豊かでコロコロ変わるので、気にしないと弓弦は笑う。

 どうもこの旅館は、宿もある入浴施設に業務形態が近いらしく、お品書きがある。入浴客がビールを仕切り頼む中、自分達は宿のお任せ料理となる。

 ざる蕎麦に山菜の天ぷら、小さな牡丹の鍋に炊き込みご飯。猪肉の味噌焼きにじゅんさいのお吸い物と珍しく変わったナスの漬物がある。


桃子以外は美味しい美味しいと食べているが、彼女はちょっと不満気だった。


「姉ちゃん、濃いのが好きだもんね」


 弓弦曰く、普段は洋食やチーズ、濃いソース等を喜んで食べ、和食や魚は露骨にガッカリするらしく、お吸い物などは味がないとまで言った。


「・・可哀想に、こんなに丁寧なダシの味がわからないなんて、本当可哀想だな」


 そう反論したのは天狛だった。すぐに怒りを露わにする桃子、それでも対決姿勢ではありながら不思議と打ち解けている気もする。


「これは、上質な昆布をベースにいりこ、それも丁寧にワタが処理されたものを、山の澄んだ水でダシを取っているな・・」


 そして箸でじゅんさいを取り出し、口に含んだ。


「そしてじゅんさい。まだ香りが活きている、市販品なら香りも味もしないが・・こんなに美味いじゅんさいは珍しいよ。これがわからないなんて、舌もバカなんだな」


 それに桃子はカッとなった。


「アンタ・・どうせ貧乏臭いものしか普段食べてないクセに、ちょっと言い過ぎよ!」


「ああ、だろうね。だが味もわからないぐらいバカじゃないのも確かだね」


「蕎麦だってボソボソして苦い!」


「これは本当のそばを挽いて、少量の小麦粉と練られている。君が日頃食べてるそばはそばなんかじゃない、着色したうどんだ。金持ちらしいが、こんな違いもわからないなんてまともな物を親が食わしていない何よりの証だ!」 


 二人のラリーは止まりそうにないので、詩織は見かねて制止する為に声を発した。


「ちょっと・・天狛さん!」


「わさびだってツンと、本物だ。まったく親の顔が見てみたいよ。出来合いばかりだからこんな浅はかで短気な娘が育つんだ!」


「お母さんの悪口言わないで!・・詩織、アンタ漬物好きでしょ?この変なナスもあげる!」


「え?あ、ありがとう・・」


 詩織は初めて食べたこのナスが気に入っていた、独特の食感に爽やかな味の弾力のあり果肉が生姜醤油にとても合う。


「これは水ナスと言って、この地方の特産物なんだ。皮は厚く、身はフルーツのような」


「アンタ、うるさい!」


 二人の言い争いは食卓にあるものを食べ尽くすまで収まらなかった。







「ねぇ、ちょっと食後の運動しない?」


 宿のおばあちゃんに謝り終えて、二人の後を追って来た詩織と弓弦の前に卓球台を挟んで対峙している桃子達がいた。

 桃子はコレで決着を付けると、レンタル料200円のラケットで天狛を指した。


「これに負けたらオジサンは私の為に働く事!・・詩織は引っ込んでて!」


 それは桃子の策略であった。天狛の実力を自分の戦力として取り込み、同時に詩織から引き剥がす。

 それは何故だろうか?真意のほどはわからないが天狛はニヒルに笑って言った。


「・・笑止!」


 他の三人には意味はよくわからないが「勝てると思うな」と捉えられた。




「はい、ゲゲゲみたいな頭のお兄さんもォ〜!温泉卓球ゥー・・ゲームスタンバイ!」


 ここで、趣味でこれを置いていて審判をしてくれるおじいちゃんからのルール説明。


・浴衣着衣でプレー


・3セット先取制


・温泉なのでダブルスはどちらでも攻撃可



 桃子&弓弦の分家姉弟ペアに対峙するは本家家元詩織&天狛の主従ペアとなった。


「ちょっと、なんで天狛さんがアンタのモノになるの!?」


 おじいちゃんの笛の音を皮切りに詩織がサーブ、それを豪快に叩き返す桃子。


「あの時の恨み、思い知れッ!」


 それを難なく返して繋げる天狛。何やら二人の間に何か因縁らしい物があり、今にもそれが爆発しそうな気配だ。


「まだ・・あの時の」


 詩織は悲しげな眼をして、次の玉を打ち返す。


「先輩を、先輩を目の前で奪ったクセに!」


 戦況は目まぐるしく動く、取っては取られ、その激しい応酬は第1セット終盤まで続く。


「クッ!」


 またも詩織が落とされた。そこまで技術も動きも悪くないが、何より桃子の気迫は鬼気迫るモノであった。

 天狛がいくらか作った局面も、桃子が詩織を崩す形が繰り返される。


「デュゥーーースッ!」


 遂にリードは消え去り、落ちた玉を詩織は膝をついて拾った。


「・・同じテニス部だった時も、私のが出来た!他の事だって!今だって、ウチが分家ってだけでアンタが当主、だったら今度は私が全部奪ってやる!!」


「姉ちゃん、なに言ってんだ!」


「私だって、私だって・・どうしていいかわからなかった!」


 で、なんの話しかと天狛は審判にタイムを請求。おじいちゃんも個人的に聞きたいので承認してくれた。


「ところでYOU、上手いねぇ、上手い!経験者?いいプレーだったよ」


 卓球が大好きな老主人は、天狛のテクニックをちゃんと見ていて興奮気味に話した。


「うるさい!静かにしてッ!」


 話としては中学生の頃、好きだったテニス部の先輩が詩織に告白している姿を見て桃子はプライドから友情まであらゆる自己否定に襲われた。

 卓球の話を邪魔されて、「なんだそんなモン」と思う天狛だが、思春期はあまりに脆く

その外界からの圧力により砕かれた自我には、他者からみて些細に思えても強烈な刷り込みとして焼き付いてしまう。


「・・先輩に告白された時、私は桃の気持ちを知らなかった、でも!私は断ったし、それで桃と仲が悪くなって辛かった!」


 詩織は泣き崩れ、桃子の殺気すら散らす気迫は消えた。




「ねぇ、お互いパートナーが使い物にならなくなったわね、オジサン!」


 いたたまれなくなった弓弦は詩織を抱きかかえて慰めていた。


「やるか・・?」


「手加減はいらないわ、もし私が負けたら私を好きにさせたげる。でも私が勝ったら天狛さん、あなたは私のモノ、そうよね?」


 天狛は首を鳴らしニヤリと笑って、ここからは遊びをやめて本気でお前と戦うと宣言した。



「天狛・・ドライブッッ!」


 再開後セットポイントを奪った天狛の魔球。それは使い込まれた卓球台の僅かな凹みを匠に狙い軌道を変える恐るべき技だった。





「次は何が何でも獲る!」


「このコートチェンジ、もう今の技は使えぬと見て・・その程度でお前に勝機が出て来たと思うか?」


 二人が交差する間、天狛にはまだまだ隠した力がある様に見えた。



「勝って・・天狛さん!私の為に勝って!」


 やっと泣き止んだ詩織はそう呟いて祈っていた。



 第二セット開始から、その隠された牙の一端をむきだした天狛は、超絶技巧でコートギリギリばかりを狙い左右に振る。オーバーなフォームでなんとか凌ぐ桃子。

 だがスキあらば容赦無く打ち込まれる。さしずめ卓球台の上のモハメド・アリの様だと審判も思わず評価した。


「まだまだ・・まだこれからよ!」  


 解けた髪を振り乱し、なんとか食い下がる桃子。実力は天狛が数段上、ましてやまったく運動量が違って打たされている自分は、天狛が返しやすいコースを選んでいる錯覚すら起きた。


「フッ・・、愚かな!もはやお前の命運は尽きた、このセットで叩き伏せてやる!」


 


 サーブの瞬間、高度に集中した天狛の瞳に何かノイズが入った。

 嗅覚には甘い、何か熟れた果物の香りが感じ取れる。

 目の前のもはや限界に近い桃子は、はだけた足の根元まで視えて、あの大きな膨らみを抱えた胸元はうっすら赤みを帯びたポイントで布がギリギリやっと止まっている。


「バカな!なんだ・・ヤツから立ち昇るこの異様な色気は!?俺がこんな小娘に・・」


 天狛はそう思い、ふたたび集中したが集中したら集中したで桃子の肢体は否応なしに視界に入る。そしてこの香り、それは桃子の腋や胸の谷間、記入不能の秘部に塗り込まれた特別調合フェロモン香水が汗と体温上昇により拡散したものだ。これに知らぬ内に毒されていた。

 卓球とはまず集中力、そして反射神経・体力を人間の限界まで使う競技であり、その集中力を持ってこんなモノを嗅ぎ、見てしまえば・・



「・・奥義、桃色テンプテーション!さぁ、私レベルの女の身体に触れた事もない中年親父!とくと見なさい!」

 

 彼女はこの展開を見据え、下着を着けていなかった。天狛は自身の界面が血流を大量に吸い込むイメージに駆られた。


 コッ・・


 いままでからすれば普通のサーブだ。


 カッ!!


 それを桃子がズバッと返す。もはや天狛は玉を眼で追うことすら出来ずに取り逃がした。


「見・・見えた」


 身体を制止する桃子の胸は慣性で引っ張られ勢いよく戻る、それはまるでプロレスラーの見事なロープワークの様に破壊力を増大させて胸元の布を一瞬弾き飛ばす。

 見えそうで見えないでパンパンに想像を膨らませ一瞬わざと見せる。この舞台における杉良太郎理論とも言うべきチラ見せこそ、エロティズムの極意である。

 桃色テンプテーションとは、かくもげに恐ろしき技なのであった。


「デュース!」


 おじいちゃんの声が、天狛の大量リード喪失を告げた。

 前かがみになった所で額を撃ち抜かれ、尊厳を何もかも砕かれた様に天狛は倒れた。



「ホラ、次はアンタ!ここでアンタも潰してやる!」


 天狛の名前を叫びながら身体を揺する詩織だったが、彼は芽を見開いたまま膠着してしまっていた。もはや、自分以外桃子を止められる者はいない。


「アッハハハハ!どう?振り向いてもくれない好きな男が、私を見ておっきして!地べたを這いずり回る姿を見る気分は!」


 体力を消耗し、点数的に互角でも精神面では桃子に勢いがある。彼女はあの日の情景、あの記憶にこびりついて離れない夕暮れ時の教室で、好きだった先輩と詩織の姿を見て壁に背中を崩れさせる自分。


「復讐の時は来たッ!」


「桃・・!」


 あれから数年、気の強い桃子がここまで傷付いていた事は詩織には想像出来なかった。

 そして執念の乗り移った玉は、粘り強い攻防虚しく詩織を通り過ぎていく。


「第二セット、お色気姉さん奪〜〜取!」


 笛が鳴り響きおじいちゃんが高らかにコールし、青春の残光と愛憎が入り混じった運命の戦いは、遂に最終局面を迎えようとしていた。



 劣勢の詩織は、この試合の中で桃子にわかってほしい事があった。


「桃!私は、あなたも大切に想ってる!親戚で、姉妹みたいに、友達としても!だからこんな事はもう止めて!」


 スマッシュを粘りで返すや叫ぶ。


「・・黙りなさい!」


 勝つ、桃子にはそれしかない。


 一方、崩壊した天狛はかつての自分の姿、その記憶と邂逅していた。

 両親を幼くして失い、悪童として荒みきった自分を卓球部に誘ってくれた恩師・立川と仲間達。

 天狛の人生で唯一誇れる全国大会進出、そして・・祖母の死。志半ばに生まれ故郷を去る事になって、自分は皆の期待に応えられなかったと肩を落として歩くグラウンド。


 そこに響いた「負けるな!」と言う仲間達と恩師の声が、座り込んだ今の自分に響いた。

 そして、これは幻覚なのだろうか・・闇の中に輝いてあの日の仲間が、ライバル達がラケットを自分に差し出している。


「立てよ、天狛!」


「打てぇ~打てぇやッ!」


「負けるな!」


 天狛の闇の中、雫が滴る音がした。そして天狛は突如、すくっと立ち上がった。そしてその表情からは激しい闘志は消え去り穏やかさすら感じた。



「え、天狛・・さん?立った・・!」


 詩織の善戦虚しく開いた点差、桃子にはその声が届かぬまま。そこに天狛が蘇り、今ふたたび立ち上がった。

 ほとんどノーモーションから桃子渾身のサーブを切り返す。


「なによ・・!邪魔だからまた下半身に血を取られて倒れなさい!」


 桃子はもはや面倒、と胸を晒す。しかし、天狛にはもはや通用しなくなっていた。



「桃子よ・・お前の痛みも悲しみも、かつてすべてを失いたった独りの心の闇にもがいた俺にはよく分かる」


 だが、と続けて天狛は言った。


「スポーツとは、卓球とは互いをぶつけ高め合い、認め合う為にある物・・自分の為に相手を貶め、他人の心を踏みにじる為では断じてない!」


「玉が・・見えない!」


 ゆったりとしたフォームから繰り出されたスマッシュは、まるで春の空を飛ぶ燕の様に影だけがやっと追えるほど軽やかに桃子のラケットを通り過ぎて行く。



「天狛さん!」


 自分が伝えたかった気持ちを代弁するかの様な、その言葉に感動した詩織は決着がまだにも拘らず天狛を抱きしめた。


「お嬢さん、下がってくれ・・ヤツの怨念は、俺が打ち砕く・・!」


 内心バカにしていた天狛にせよ、憎んでいた詩織も自分が原因で絆が深まった様に見えて桃子は更に頭にきた。



「イチャイチャするなぁぁッ!」


 玉にまとわりついて迫力を増す怨念、これが最終決着の時!


・・カッ!


 弾けた音と共に、天狛は桃子から背を向けた。




「桃色テンプテーション・・恐ろしい技だった、そしてその執念!これからその力を、他人を傷つける為にではなく、自分の幸せの為に使え!」


 玉は飛びつく桃子をすり抜け、床に桃子と共に落ちた。





「・・う、う・・うわぁあぁ〜〜〜〜!」


 あの気丈な桃子が声を出して、泣いた。一緒に暮らす弓弦も、幼い頃から知る詩織も初めてみた。


「桃子・・」


 駆け寄る二人が、桃子の上半身を隠して抱き上げた。

 審判のおじいちゃんは、素晴らしい試合の最後に両チームの握手を勧めたが、天狛はこう言い残してもう一度風呂に向かって去った。



「・・今の姿を、俺の様な他人に見られたく無いだろう・・」


 それが、戦いを終えた者同士としての彼なりの優しさであり、武士の情けであった。

 あの二人がかつての様に仲の良い友に戻る日を信じて、彼はラケットを置くのであった。






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