ラジオ猫たち(中)
4.
夢を見ていた。私の背がもっと低く、あのポプラの庭木を見上げていた頃、両親に移動サーカスに連れて行ってもらった時の夢だ。
そこは平凡でささやかな町だったが、あの夜だけは狂乱の20年代と呼ぶにふさわしい喧騒が渦巻いていた。町の広場が夥しい白熱球で照らし出され、まるでそれ自体が灯台になったかのようだった。
広大なアメリカ南側で最も有名な娯楽「メンロパーク・エレクトリックサーカス」がやって来たのだ。荒野の向こうから発電機を乗せた機械仕掛けの動物たちが歩いてきて、まるで交響楽の指揮者か教会のオルガン奏者みたいに団長がコントローラーをいじると、それに答えて様々な芸を見せた。ジャイロこまが眼の中で回る虎が玉乗りをした。サルが空気圧で綱渡りをして、鋼鉄のバナナを一口で食べてしまった。屈強な男がテントの奥から出てきて、機械のライオンと腕相撲をしたが、なんと、ライオンが力んだ瞬間に立っている広場の石畳が割れてしまった。市長さんが憤慨して泡を吹いた。
私はそれらを見て笑っていた。心の底から笑うたびに、色々なことがどうでも良くなって、忘却の淵においやられていった。
一日三食の利点を強調して、トースターを売る方法の事を忘れた。新聞を読む仕事も忘れた。それくらい心の底から笑っていた。蓄音機のホーンを生やした羊が輪になって、電気柵をどんどん超えていく。
ふいに、テントの向こうの発電機台に立つ団長と目が合った。こんなに沢山の観客がいるのに、どうして私を見ているのだろう? ほら、市長はとうとう担架で運ばれていってしまう。サルは空気がしぼんで綱から落ちてしまった。そっちを気にした方がいいよ、と少年の私は腕を振って指し示す。舞台にはこんなにも電気人形たちから脱落した部品が散らばっていて、まるで今にも崩れてしまいそうだよ。
団長は懐に手を突っ込んで、いきなり時計を取り出した。懐中時計のような小さい物じゃなくて、駅の待合室に掛かっているような大きい奴だ。蔦みたいなしゃれた形の針がぐるりと回って、ある所で止まる。短針は七、長針は十。七時十分。
「この街の夜は征服された! 電気文明に生きる君よ! 闇夜の怪にフィラメントをかざしてみたまえ!」
私はブレッドのようにベッドから飛び起きた。恐る恐る腹に手をやると、バターはまだ塗られていないようだった。窓の外は霧が出ていて、まるで列車の事故にあったみたいだった。いやに明るい朝だ。
服を着て、髭を剃って、家を出て、そしていつものキオスクで新聞紙を買う事が癖になってしまっていることを私は思い知った。気付いたら自身の手には三社の新聞紙が束ねられており、結構な厚さを掌へ訴えていた。今日は休日だというのに、変な癖がついた雑誌の表紙が何度も同じ所で折れるように、毎日の行動を繰り返してしまう。キオスクの店番は平日とは違う人物だった。
半ばうんざりしながらも駅前のベンチに座って見出しに目を通してみる。休日まで誰かのスパイをするのはこりごりだったが、なんとなく文字を追ってみたい気分だった。北側の発表、南側への憶測、今週の発電量推移、欧州の情勢変化………つまらない記事が続いている。こういう話題はきっと、国防省がある”モニュメント”のフロア一個分に詰めているであろう上級紙くずコレクターたちの材料になっているのだろう。痴話げんかの話題もない。私はCとKの顔と、あの小さな猫の写真を思いだした。
灰色の空へ、濃さが違う灰色をした鳩が飛び立っていく。
一羽が飛び立つと、それに釣られるように周りの鳩も飛び立っていく。その向こうに、霧を幻燈のスクリーンのようにして、テスラ送電塔の巨大な影だけが見えていた。
最後の地方紙をめくった私の手は、そのまま完全に静止した。テスラ送電塔の地上200メートルからぶら下げられて、飢えた都市の鳥たちにたかられていた男の死体の写真から、目が離せなくなった。男は腹部を電発銃で貫かれ、失血死した状態で何者かによってこの街の塔に下げられたと書いている。市警察はマフィアの内部抗争の結果と断定し、捜査を続けているらしい。
しばらく私は塔を茫然として見上げていた。Kの安らかな寝顔が頭の中にフラッシュバックする。何が起きたかは分からない。だが私の人生に何かしらの異常が起きている事は確かだった。私は新聞を一枚だけ残してくず籠へ捨てると、例の紙面だけを、破れないように慎重に折りたたんで、ポケットの中に入れた。そのまま鞄を持ってメトロに乗り、三駅分移動してできるだけ人の多い駅で降りる。公衆電話が目当てだ。ダイヤルパルスは定常波帯に干渉しない無線帯域を伝わって行き、半自動交換局を通過してCの実家へと繋がる。Kが撃たれたあの日、電話番号を聞いておいてよかったと思いながら、私は使用人が”お嬢様”へ取り次いでくれるのを待った。時間が無限に引き伸ばされる感覚がする。
一瞬、ノイズが走った。天候によっては送電塔の電波が電話機のパーツに変に共振して、甲高い独特のノイズが混じる事がある。この街のように複雑に電波が反射する状況だとなおさら、予測できないノイズが入る事がある事は知っていた。
「新聞の記事を見たか」
電話口から返事がしてすぐ、私はそう切り出す。CやKやボスなどという言葉は使わない。
「新聞? あんた月曜から土曜まで新聞とにらめっこで、それを日曜の朝も続けてるの?」
病気よ、とCは本気で引いた様子で呟いた。私も自分の事がやや心配だが、それ以上にKのことが心配だ。新聞の記事の事を伝えると、電話口が慌ただしくなった。執事か何かに朝刊を持ってこさせているらしい。
しばらく無言と足音、紙をめくる音がした後、Cが小さく声を上げたのが聞こえた。尻尾を踏まれたカートゥーン・キャラクターのような声だ。
「ありえないわ」
Cは動揺しているようだった。Kは少なくとも安全な病室にいるはずだった。Kが攫われたのだろうか? しかしそうだとしたら、入院の面倒を見ていたCに、あの初老の医師から連絡が入っているはずだった。
「すると塔の死体は別人か」
「ええ。でも手口は間違いなく”タワー”の奴らのものよ。マフィアなんかじゃないわ。ごろつきなんかじゃあの塔に入るどころか、敷地内にすら入れないようになってるの。奴らがなんで”タワー”って呼ばれるか知ってる?」
「いや」
「奴らね、殺しは高い場所が好きなの。B………私を情報部に拾った男はね、両目をえぐられて高架鉄道の上に乗せられてたのよ」
ふん、と彼女は例によって大きく鼻を鳴らした。少しわざとらしいように感じた。
「ともかくボスに連絡するわ。すぐに招集が掛かると思うから、あんたはすぐ情報部へ戻って」
私が了承を伝えると電話が切れた。私も受話器をフックへ置くため、耳から離そうとする。
またノイズが走った。それと同時に一瞬、こんどはなにかの歓声が入る。遠い記憶の中のサーカスが私の頭の中に蘇って、霧散していく。
いや、これはサーカスなんかじゃない。
電話ボックスを飛び出して辺りを見渡す。軽食の売店、どこにでもあるようなベンチ、荷物を載せた電気トラックが行き交う道を挟んだ向こう側で、大道芸が披露されていた。ピエロが電光の走る特製の水晶玉を使ってジャグリングをしている。また歓声が上がる。
私は何かにとりつかれた様に、まるで毎朝、朝刊の文字列を探る様に、素早く群衆へ視線を走らせた。ピエロの差し出す帽子へ向けて、観客から硬貨や札が投げ入れられている。大団円の群れに混じって、一瞬、ある男の姿が見えた。大柄で、脇に銀製のランチボックスのような物を持っている。
私の足はもつれそうになりながら走り出していた。あれは無線電話機だ! あのジュラルミンの箱には小さなダイヤル装置が付いていて、動力を無線で受電しながら、どこからでも電話交換局に発信することが出来るという発明品だ。前に見た大衆向け科学雑誌の”未来の生活”のビジョンに、あれを持って白い歯を見せる男が載っていたことを思い出す。テスラ社が作り出した
男と目が合った。そして一瞬、その目に焦りが浮かんだのが見えた。
路地へ逃げる男の背後を、まるで機関車のように白い息が漂う。私は道路に飛び出して、まるで川を渡る様にして追った。けたたましいクラクションや悲鳴が聴こえるが、無視して、男の後を追いかける。交通整理に当たっていた警官の怒声とホイッスルすら、ぐんぐんと背後へ遠ざかっていく。水溜りを思いっきり踏んだ気がする。何回も路地を曲がって、洗濯物の干されたアパートの下を抜け、私は最後に建設現場の仮囲いにたどり着いた。
通りは封鎖されており、それ以上先に進めそうにない。上手い事撒かれたのだ。足場の上から訝し気に見下ろす作業員を、肩で息をする私は見上げる。
頭の芯がすっと冷えていく。薄汚れた仮囲いの布を見ながら、私はふと奇妙な事を考えた。自分はなんてスパイ映画らしくしているのだろう? 非合法な手段で通話に割り込んできた犯人をおいかけるだなんて、まるで潜水艦の設計図を奪った軍事スパイを追い詰めている警官のようではないか。
なぜだか急に悲しくなった。私は自分が思っているよりも、紙くずコレクターのままでありたかったのかもしれない。
同時に、もう後戻りできない、と予感している自分に気付いたのは、メトロの流線型の車体があのキオスクのある駅に止まって、小さく揺れながらドアを開いた時だった。
私は振り返って、揺れるつり革を見つめた。それは送電塔にぶらさがった死体で、メンロパークから来たサーカスの、機械仕掛けのサルだった。そして私たちの置かれた立場であり、ラジオ波の強弱に揺れる、電流メーターの憂鬱な振動でもあった。あるいは、雨を払おうと行き来するワイパーの投影かもしれなかったが、それらすべてを捨象した後に残るのは、やはりただのつり革のようにも思えた。
今朝に夢を見た時から何かをずっと考えっぱなしだから、まるでシャッターが壊れた写真機のように、色々な風景が重なって見えてしまっていた。これでは露光過多で真っ白と変わらない。
5.
「おそい!」
エレベーター付近のソファーに座っていたCが、頭だけこちらへ向けて言い放った。
ボスはいつものキオスクの二階で、いつもの窓際の席に座って我々を待っていた。他の職員が誰も出社していないのと、部屋の電気がほとんど落とされている事を除けば、その空間は平日のオフィスとなんら変わりない気がした。Cの座る位置から直ぐ傍のテーブルに数枚の新聞紙が載っていて、どこも例の怪死体の記事が開かれている。コーヒーの湯気が立ち上って、窓から差し込む光線に輝いている。
「殺されたのは”犬”だ。Kは生きている」
ボスが私たちに伝えた事はとても簡潔だった。
「ちょっと!」
Cは叫ぶように会話を遮りながら、深く腰を沈めていたソファーから飛び上がった。
「”犬”は北側のスパイでしょ!? あのやり方じゃ仲間が仲間に殺されたって事?」
そこまで一気にまくし立てた後、彼女はなにかに気付いたように言葉を切って、顔を歪める。
「もしかして
「いや、違う」
ボスはもう冷えていそうなコーヒーを一口飲み、机へ置く。
私には一つの直感があった。
「”タワー”内部の粛清?」
Cとボスの顔がこちらを見る。Cはいつも氷の女王のようで意外と表情豊かだが、ボスの驚いた顔は初めて見た。静かになるオフィスの中を、高架を行くメトロの影が通り過ぎる。
「………おそらく君の言う通りだ。”犬”はKを撃った後、”タワー”自身の手によって粛清された」
「どうして」
「なんにせよ、それを知る必要は無い」
メトロの鉄の箱がビルの向こうへと去っていって、再び彼の影が室内に伸びる。机の上に二つの塊が転がされた。
「スパイの仕事は情報を知る事だが、スパイにとって一番大切なのは知らなくていい情報を知らない事だ。君たちに”モニュメント”現地情報部長として二つ指令を下す。一つ目、この街で生きぬきたまえ」
それは銃だった。その黒々とした姿から、北側で一般的になった電発銃ではない、火薬を使うタイプの銃とわかる。恐る恐る手に取ると、想像より重い。掌へずしりと来る。
「二つ目。今回の事を全て忘れろ。安心したまえ、三日もしたらすぐにそれぞれの仕事に戻れるさ」
私とCは自動拳銃を懐にしまって、一階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。その間中、私たちは一言も言葉を交わさなかった。会話の回路を遮断することで、指令を守ろうとしているかのようだった。少なくとも、この事について話そうとしなければ、あの不可解な殺人について思い出す必要が無くなる。Cは首からかけたあのロケットを触っている。自分の世界に入っているようだ。
私は服に隠した拳銃をシャツ越しに肌で感じながら、心底スパイをやめたいと思った。その冷たさ、恐ろしさが不快だったからではない。
あまりに身体に馴染んでいるように感じたから、やめたいと思ったのだ。スパイも、養蜂家も、タクシー運転手も嫌だった。サーカスを眺める少年に戻れないのなら、私はせめてトースターのセールスマンになりたかった。
籠が開く。
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