ラジオキャッツ・テスラシティ
ボンタ
ラジオ猫たち(上)
1.
ある初冬の朝の事だ。私はアパートのベッドの上で目覚めて、自分がスパイになってしまったと気付いた。そしてスパイになるにはそれ程の苦労をしなくても良い事を知った。変装やら、言語学やら、拷問に耐える事を教える学校に通う事もなければ、軍隊に入る必要もなかった。
無線トースターが小気味良い音を立て、二枚のブレッドを吐き出す。私は棚からバターを取り出し、バターナイフで白い面に塗り拡げる。
もう路地を抜けて通りの喧騒が聞こえてくる時刻だった。昨日は色々あったせいか、普段から二十分も遅れて目が覚めた。だが転職と職場の変更によって出勤が三十分遅くなったため、まだあと十分の余分な時間がある。スパイというのはもっと不規則な勤務形態だと思っていた昨日までの自分にとって、サラリーマンのごとく厳密に設定された出勤時刻はひどく意外だったが、スパイ達のオフィスが、トースターを売る会社よりも、わが自宅に対して近い場所に位置していたことの方がずっと意外だった。考えてみればいつも新聞を買うキオスクの二階に三つの小ぶりの窓がある事は気付いていたが、まさかその向こう側が情報戦の最前線だとは、やはり思ってもみなかった。
私は今日もキオスクで新聞を買うと、いつもは駅の方へ進む足の向きを変え、人目を気にしながらエレベーターへ乗り込む。
改めてみると随分古びたエレベーターだ。不安げに揺れながら静止した籠の扉の先には中くらいのオフィスが広がっていて、数人の職員が書類とにらめっこをしていた。
「君が新しい部員か。前職はサラリーマンの」
窓際の席に座るシルエットからそう投げかけられる。ボスだ。逆光で眩しくて顔は見えない。
「はい、元々トースターのセールスマンをしていました」
「では”システム”の扱いには詳しいかね」
私は少し考えて、先週の火曜日の昼下がりの事を思い出した。あるご婦人が新製品の、色々と立派な機能が付いたトースターを買ってくれることになり、引き換えに古いトースターの処分を手伝ったのだ。
”システム”に接続されている電化製品は廃棄の際、裏蓋を開けて共振コイルを切ってやる必要があって、しかも電熱線はけっこう大電力だから危ない。手を覆う電工手袋の感触と、久方ぶりに使うペンチの硬さを思い出しながら、私は躊躇がちに言った。
「多少は」
「大変結構」
男の影はやや大仰すぎる角度で頷いた。私は水のみ鳥、と失礼なことを思ったが、勿論それは言わなかった。
「では改めて我らが情報部へようこそ。どうかね、ここは………」
これまでの事をちょっと回想した。
「ええと、正直に言って驚きました」
「小説や映画のように国防省の奇怪なビルの一室にあると思ったかね? 実を言うと本部の”モニュメント”は本当に奇怪なモダニズム建築なのだが、君に見せる機会が来ない事を祈っている」
「それはなぜですか?」
「行く理由が二つしか無いからだ。一つは部員の裏切りが判明して、洗脳しなければならなくなった時………」
背筋が凍るのを感じた。この新たなボスは前のトースターを売る会社のボスと比べて大差が無いように思われる程普通の人だから、突然シリアスな事を言われると余計に恐ろしい。
戦慄する私の顔を彼はじっと見つめていたが、咥えていた煙草から灰が落ちたのに気付いて半笑いで灰皿を引き寄せた。
「なんですか」
「いや、新鮮な反応が楽しくて。本部に行く理由のもう一つを言っていなかったね、実を言うとこれが一番恐ろしいのだが………私のポストに君が付いてしまった時だ。こういう仕事の中間管理職は本当に最悪なんだ」
2.
ボスから「君の自由意志を侵害する事にならないよう祈っている」等というありがたい言葉と共にコードネームと仕事を与えられて、早くも二週間が過ぎた。私はまだ朦朧とした意識で”モニュメント”の輪郭を眺めるはめにならずに済んでいる。
そもそも与えられた仕事というのが実に地味だった。ある日は列車の時刻表を読み込んで、線路が空白になっている期間を見つけたり、またある日は新聞を開いて隅々まで読み、なにか気になる記事がないか探したりする事だった。この大都市には沢山の鉄道が乗り入れ、沢山の労働者が集まっているため、各地の時刻表も新聞も、全て階下のキオスクで調達することが出来た。
私は毎朝オフィスへ上がってきては、羊が大脱走した記事やら、死亡欄やらを入念にチェックした。はじめの頃は一面の政治家の話題に何か秘密が隠されているのではないかと期待していたが、このアメリカに垂れこめた白い雲のような南北の冷戦関係しか見えてこなくて、そのうち飽きてしまった。政治家の名前だけがとっかえひっかえされているようだが、構造自体は何も変わっていない。私の仕事もトースターを売る仕事から紙くずを買う仕事になっただけで、あとは起きるのが二十分遅くなっただけで、何も変わらなかった。メリーさんのひつじ、ひつじ、ひつじ………。
ところでその日は雨だった。ここしばらくの仕事道具である、インキの匂い香ばしい新聞が濡れないように気を付けながら、コートにかかった雨粒をエレベーターの前で払っていると、通りの向こうから息を切らして人影が駆けこんで来た。
「何階ですか?」
言ってから気付いたが、このエレベーターは二階のオフィスにしか向かわない。建物自体は四階まであるものの、三階は情報部が大量の資料を放置する物置になっていて、四階は完全な空き部屋だから、男の向かう先も我々のオフィスに違いなかった。淵が錆びついたボタンを押す。
「二階」
男は荒々しく答えた。粗暴というよりも、なにかに耐えてる様子だ。男は黒いコートのポケットからシリンダーと小瓶を取り出すと、震える手で空気を抜き、露出させた腕に突き刺した。モルヒネかなにかの鎮痛剤だろうか? 服を捲ったことで、籠の中に濃い鉄の匂いが充満してきた。血だ。この男は負傷している。
遠くで鳴る雷のような重々しい音を立てエレベーターが停止し、扉が二階で開くと、男はオフィスへ雪崩れ込むようにして進み出た。ボスはどこかとの電話の最中だったが、血相を変えて受話器を置くと、席を蹴って立ち上がった。
「K!」
それがコードネームだと気付いて、私はしばし呆然とした。この男はつまるところ同僚なのだ。血が垂れて、オフィスの緑がかった床を汚していく。他の部員たちも動揺した様子でこちらを見つめていた。Hが席を立って、三階から毛布を持ってきてくれたので、周りの人間でKを包んでやった。先に身体の何処かにある傷を処置した方がいいと思ったが、Kの体は冷蔵庫の庫内のように冷たかったから、とにかくも温めてやらねばと考え直した。
「ボス、不味いことになった」
いくばくか平静を取り戻したKは、懐から一枚の紙切れを取り出して、ボスに見えやすいように差し出した。
小ぶりの不鮮明な写真プリントだ。象の写真? 動物園の象じゃない、と直感した。亜大陸の湖水にいるような、束縛されない象。
「ボス、ボス! 犬が塔へ。昨日………第三水曜の連絡の時に電発銃で腹に一発貰った。犬にやられた」
「犬が」
ボスは一瞬言葉を切った。私はそっと彼の顔を見た。
彼の表情筋は凍り付いていて、そこには何の感情もない。
Kはそれだけ言って糸が切れたように動かなくなった。まるで今、一つの舞台が終わったかのような静寂が、オフィスを支配する。
ビルのひさしを打つ雨の音が聞こえる。三本向こうの路地で、子供が壁へチョークを走らせる音すら聞こえそうだった。すぐそこの通りでクラクションが鳴って、時間は緩慢に動き出す。
「この場に居る全員は今あったことを他の局員に口外する事を禁じる。CとTはKを病院へ送って、昼にはまたここで集合したまえ」
あわただしく動き出すオフィスを尻目に、私はCと共にKを担いで、都市の底へ向かうエレベーターに乗り込んだ。キオスクの店番に頼んでタクシーを呼んでもらい、Kを毛布でミイラのようにして車内へ担ぎ込んだ。タクシーの運転手にこの近くの病院へ行くよう伝えながら、毛布を捲ってKが窒息していないか確認する。寝顔は実に安らかだった。学校の宗教劇ならキリスト役が一番いいだろうというくらいに。
「お客さん、久しぶりだね! 記念病院行きだなんて体をどこか悪くしたのかい?」
「あ、そうですね、持病のリウマチが………」
ずっとオフィスワークばかりだったから、スパイとして仮面を被って一般人と話すのは初めてで、少しどもってしまった。そういえばこの髭面の運転手の顔はどこかで見た事があった気がする。数年前、駅へまだ元気だった母を迎えに行った時、見た気がしなくもない。あの時はただのトースターのセールスマンだったのに、いつのまにか私はスパイになってしまっていた。
Cが座席に横たわるK越しに肘でつついてきた。Cは部内でも古株だと言うが、私よりもずっと若く、まだ学生でもやってそうに見える。
「嘘はつかなくてもいいわよ、彼は協力者だから」
「え?」
「見えませんでしたかね? じゃああっしの”仕事”はまだ大丈夫そうだ」
運転手は不揃いな歯を見せて微笑んだ。電動ワイパーが窓の端まで行って、また戻って来る。
私は乗り出した身を再び座席に沈めながら回想する。それじゃあ当然、キオスクの店番だってCが言うところの”協力者”てことか。なんてことだ。
「そんなに驚いた? この街で私たちはグラデーションなの。学校のサイエンスの教科書で電磁波の項目を読まなかった?」
Cが雨に濡れた巻き毛を弄りながら独り言のように告げる。頭の中で、電力が伝わっていく単色刷りの概念図を思いだした。同心円の真ん中に鉄塔があって、同心円を描いてラジオ波は減衰していく。
「これは受け売りで、上手い言い方かはわからないけど………私たちのオフィスを中心に、この街にグラデーションになって勢力が広がっているの。人をキャンパスみたいにしてね。そして同時に北側の勢力もグラデーションを広げていて、そうならないように気を付けているんだけど、偶然重なってしまう事がある」
「Kの負傷はつまり、そういうことか?」
「Kは淡い領域の担当だったみたい。情報部の仕事っていうのは大部分があんたみたいに紙くずコレクターになって
「一割」
一割、一割。私は口の中で言葉を転がした。偶然声を掛けられて転職してから、このスパイという仕事はなんとも平和な仕事だと思っていた。これならトースターの会社に忍び込んだ産業スパイのほうがスリリングだっただろう。でも、平和の中にも一割、そういう危険な部分があったということだ。
「うんざりした? まあ辞めたくても簡単には辞められないけどね」
「参考までに聞くが、辞めるにはどうすればいい?」
「ボスに言うの。そうすると目隠しをされてカリフォルニアの”モニュメント”にインストールされて………、気付いたらあなたは何もかも忘れて、農場で蜂でも育てているんじゃないかしら」
運転手はこの会話を聞いていたようで、ひとしきり笑った後自らの体験談を話し始めた。ええ、目隠しされた南行きのお客さんも乗せた事があったなあ。でもまあ、あっしはこんな風体をしていますがね、蜂はもうごめんです。やっぱり運転手が合ってるなあ。スパイをやめたら、タクシーの運転手にでもなったらどうですかね。ハハハ………。
乾いた笑いに起こされたか、それともモルヒネが切れてきたのか、みのまきのKが呻き声を上げた。私はすっかりうんざりしていた。どうしてこんな事になったのだろう。
窓ガラスの外を、都会の景色が流れていく。服や映画の広告、クリスマスセールに明け暮れる百貨店、メトロから吐き出される人々、キャバレーの消えたネオン。それらの向こうに見えているのは雨に濡れて銀に光る異形の塔。
テスラ送電塔——————。 トーマス・エジソンとの電流戦争に勝利したかの電気王ニコラ・テスラが、文字通り世界の全ての地域と家々に、無線で電力を供給するため建設したコイル塔。あらゆる電気装置は特定の周波数を拾うように作られた受電コイルを持ち、コード無しで動作することが出来る。
これに対しエジソンを擁する南部は、南北国境に沿ってファラデー胸壁を建設することでそれら「無用の愛」をシャットアウトし、南部全体におびただしい数の電柱と電線を張り巡らすゆるぎなき直流送電網を建設した。以来、南北は電気インフラによって分断され、科学技術、軍事、経済のあらゆる面で競い合う冷たい戦争の時代へと突入することになる。
市内で見えない場所が無いほど巨大なテスラ送電塔は、雨に濡れ伝導率の良くなった周囲のビルの屋上へ向かって、今日も高周波の雷光をまき散らしている。タクシーは塔の影を踏むようにして、記念病院のエントランスに吸い込まれていった。
ラジオキャッツ・テスラシティ
(上)
そして我々は時計の針を眺める仕事に就いた。病院特有の病的なまでの白さを、中に置かれた観葉植物がいくばくかやわらげていたが、それでもまだ白かった。時計の文字盤も白くて、そこへ黒い数字が配置されている。短針は十、長針は四。午前十時二十分。医者が手術室から出てきて、我々をちらりと見た。
私は幾らかの嘘が必要な事に気付いた。銃で撃たれた人間を担ぎこんだのだから、なんらかの疑惑が生じても仕方ない。
眼鏡を掛けた初老の医者は、ため息を付きながら手袋を脱いで助手に渡した。
「命に別状はありませんでした………また痴話喧嘩ですか、お嬢さん」
彼の視線はCへ向いていた。驚いて横を見ると、Cは微笑んでいる。彼女が笑っているのを私はそのとき初めて見た。
「ええ、彼ったら兄さんが私の不倫相手だと勘違いして撃っちゃったの! 本当にどうしようかと思って………私、人生で初めてあんなに血を見たわ」
彼とは私の事らしい。するとKはCの兄で、私は勘違いからKを撃ったという事か。何という事だ、もっとましなフィクションはなかったのか。
内心で狼狽する私を他所に、医者はまたため息を吐いた。
「お嬢さん、あんまり恋人を困惑させるのはいけませんよ。もっと貞淑に………」
「ごめんなさいね、お医者様。だから………警察にもお父さんにも言わないでおいてくれる?」
医者は呆れたように首を振って持ち場へ戻っていく。その後ろ姿を見届けた後、私は再び時計を眺めながら小声で彼女へ訊ねた。
「あれってどういうこと?」
「なに? あんたなんかを彼氏って事にした嘘への感謝?」
「いや、お父さんとかの………」
彼女は髪をいじる手を止めて鼻を鳴らした。セールスマンとして家庭の玄関先に押しかける仕事を続けていたが、こんなにわかりやすく鼻を鳴らす人を、私は人生で初めて見た。
「あたしね、結構いいとこのお嬢さんなのよ。移民系の名家ってやつの娘で、社交界にいるようなね。あのお医者さんも知り合いで、ああいう事を言っておけば融通が利くの。負傷者を運び込むのは三度目」
「これも防諜って事?」
私はふと新聞の記事の事を思い出していた。眼を皿のようにして読んでいても、いくら何でも痴話げんかの末の警察沙汰なんて気にしない。相手も我々と同じように紙くずコレクターを雇って
Cはまた大きく鼻を鳴らした。そこだけ見ればちっともお嬢様らしくない。
「医者は猫を治してくれないわ。あたしは猫を治してくれなかった奴らになら、いくら嘘をついたって後ろめたくないの」
「猫?」
また何かの隠語だろうか? 我々に割り当てられたいかにもそれらしいコードネームや、Kを撃って逃げたらしい”犬”や、あの写真に写った野生の象のような。
「猫は猫よ。クライスって名前の短毛の、三歳だった猫。あたしが名前を付けたの。あたしのクライス………」
彼女が手に取った首元のロケットの中には、父親でも母親でも恋人でもなく、鋭い瞳の毛並みが良い猫の写真が入っていた。
「北の”タワー”の手下どもは私のクライスを撃ったの。自動拳銃で、小柄な猫に三発も撃ったのよ。ワインをこぼしたみたいに血が出て、それっきりクライスは死んだの。何か理由があったのかもしれないけど関係ない。私は奴らに復讐できるのならば何でもするわ、南の田舎者達のスパイになってもね」
その声は激情に溢れているわけではなかったが、なにか研ぎ澄まされた思いを感じさせた。
私はふと自分は何でスパイになったのだろうと思った。トースター販売会社が倒産して、失職したから? でもそれだったら別の、もっと普通の企業でもよかった。じゃあなんで南のスパイになろうと思ったんだろう? 頭の中がこんがらがって、どうにも理由が付かなかった。かつて、私にも猫のクライスがいたのだろうか?
気付いたら時計の針は午前十時三十分を指していた。さっきの医者とは別の医者がやってきて、我々にKの容態を告げた。穴こそ空いていたが、電発銃特有のあの稲妻のような熱傷は浅かったらしい。二週間ほど入院すれば大丈夫でしょう。じきに意識を取り戻すと思いますよ、などと言って、医者はまた忙しそうに去っていく。この病院はあらゆるものが無線で駆動するので、柔軟性の高い医療を提供できる。この記念病院に限らず、北側の病院は、脳波や心電図などの繊細な信号を扱う施設を除いて、どこもそうなっていた。医者を縛るものは時間と精神力のみになるというわけだ。
我々は行きのタクシーに乗り込んで、二人だけでオフィスへ戻ることになった。キオスクの前で降りた時、雨は小降りになっていたが、地表は朝より冷えているように感じた。息が白く膨らんで、エレベーターの天井へと消えていく。ふと檻の上部に付けられた銘板が目に入った。
”動作電圧直流100V エジソン社製”。
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