第二話

「あ、こんばんは」

「こんばんは」


 この地域ではゴミを深夜24時までに出さなければならない。ついつい忘れがちになってしまうこのタイミングは、扉が閉まる音に耳を立てていれば、合わせる事ができる。


 エントランスに続く廊下には、古めの蛍光灯が点いていて、小さな昆虫が周囲を舞う。それに目もくれる様子も無く、女は俺の2歩ほど前を歩き、階段を下っていく。


「最近夜は冷えますね」

「そうですね。ゴミ出しも億劫になって、ついこの時間に」


 観察しろ。この女の所作、言葉遣い、見た目から何か情報は得れないか。駐輪場すぐ横のゴミ置き場までは、1分もかからずにたどり着く。その間に、何かしら接点を生み出せないか。不自然にならず、それでいて女の警戒心を解ける何か。


 ネットが張られたカゴに、女が屈みながらゴミ袋を入れると、Tシャツの胸元がやや開いて、うっすらと影がつく。着痩せするタイプなのか、肉付きも悪くない。いや、今注目するべきはそこじゃない。Tシャツの右胸元に小さくあしらわれた3文字のアルファベット。こういう時に、流行に目を通す癖が活きる。これを糸口にすれば。


「もしかして、フレグランスお好きなんですか?」

「え?」

「それグッズTですよね」


 FRGとピンク色で記されているTシャツは少し大きめで、しわが多めだ。部屋着として使用していることが伝わってくる。


「ああ、そうなんです。昔友達に勧められて。良いですよね、あのバンド」

「ですよね。僕も昔、アニメの主題歌になってたとこから好きになって」


 あくまで自然体を装って、注意深く会話を進めなければ。まだ警戒心は高いだろう。


「あ、私も同じです。むしろアニメから入ったくらいで」


 これは、いけるか?少々賭けだが、価値はある。


「面白いですよね。僕もあのアニメ好きで。というか、原作の漫画全巻持ってるくらい大好きなんですけど」

「ホントですか!良いなあー、私アニメから入ったので、漫画の方全く読んでないんですよね」


 ここだ。


「そうなんですか。差し支えなければお貸ししましょうか?」


 階段を登って部屋の前まで行ってしまえば会話を続けるの難しい。多少強引でも、ここで決める。


「いやいや、それは申し訳ないですし。漫画アプリで無料配信されるの待ってますよ」

「そうですか。でもあれって1週間に1話とかで、結構先気になっちゃうでしょ」


 部屋まではすぐだ。押し切れ。


「確かに気になりますね」

「先日頂いたお菓子のお礼もしたいですし、全然遠慮しないでください。僕も友人にあの漫画読んでる人いなくて、話せる人欲しいなって思ってたので」

「うーん、本当に良いんですか?」


 よし。ここから少し引く素振りを見せつつ。


「ええ。あ、だけどアニメ派だったらネタバレになっちゃう可能性もありますし、ちょっと微妙か」

「いえ、確かアニメになってるのって13巻までなんで、そこまでだったら」


 かかった。


「分かりました。それじゃ今日はもう遅いし、家の中に漫画散らばってるので、明日仕事から帰ってきたら、お渡ししますね」

「はい。ありがとうございます。ホントは、もう読みたくってしょうがなくて」

「いえいえ、僕も仲間増えるの嬉しいんで気にしないでください。それじゃあ、また明日」


 女がおやすみなさいと頭を下げて、扉を閉めた。案外、ガードが緩かったな。


 さて、予備知識を増やさなければ。とりあえずスマホを開き、スケジュールアプリの明日の欄に、【本屋 漫画13巻まで購入】と記入した。




 愛野という名字を聞いた時は、少々身構えをした。日本にそう多くいる名ではないし、あまり思い出したくない名だ。近縁者かとも勘ぐったが、出身を聞く限りそういう訳ではないらしい。


「お口に合いましたか?」


 女が焼きたてのチョコクッキーを皿に盛り、テーブルの中央に置いた。


「ええ。僕も最近紅茶に凝りだしたんですが、まだまだ奥が深いですね」

「良かったです。あ、これもお礼なんで、気にしないでくださいね。」


 女は俺の目を真っ直ぐに見て、口角を緩やかに上げながら、紅茶に口をつける。漫画を貸し始めて、2週間。女が半分ほど読み終えたところで、お礼がしたいからと、休日に部屋に誘われた。


「あの7巻の展開は驚きました。漫画だと過去編が先にきてたんですね」


 読んでいないことを知られぬよう、ネタバレになるとまずいんでと、貸す際に玄関で立ち話をした時は、漫画の込み入った話はかわしてきた。が、こうなるとそうもいってられない。昨晩購入した、電子書籍版を頭の中で復習する。大丈夫だ。ここまできたら、もうゴールは近い。


「あそこはアニメになった時、僕も驚きました。アニメ班もすごいですよね。映像で見せる場合、時系列そのままの方が面白い」

「それに、漫画はちょっと絵が独特ですよね。最初は抵抗感のあるタッチだったけど、読んでるうちに癖になってきちゃって」


 良きところで、漫画の話は切り上げたいが、流石にまだ不自然か。


「ちょっとずつ上手くなってますもんね。1巻と最新巻で顔が違うのってあるあるですけど、これはそれが特に出てる」

「そうなんですね。早く読みたいなあ。…それより、桐山さんって物持ち良いですよね」

「えっ?」

「あれの1巻って、私達が学生の頃に出たのに、新品みたいにキレイでしたし」


 この女。


「言うほどでもないですよ」


 簡単にいくと思ったが、バカではないのか。


「家に散らばってるって言ってましたけど、カバーとか中身にも、折り目ひとつ付いてませんでした」


 一応、新品の物は巻末の出版時期でばれてしまうから、中古品を買ったが、そこまで良い物だったか。人気が災いになってしまった。


「新しい方はトイレとかベッドとか雑に置いてたんですけど、昔のやつは本棚に並べたままだったので」


 落ち着け。まだばれた訳じゃない。それにバレても、友人から貰ったとか言い訳は山程ある。


「私、すぐに物も無くしちゃうし、昔のこと忘れちゃうので、羨ましいです。この部屋だってあまり物が無いでしょう?」


 確かに、引っ越してきたばかりというのもあるのだろうが、女にしては小物等の雑貨類は全く無く、家具も無機質な物が多い。まるでインテリアに興味のない男の部屋のようだ。


「学生時代とかも、勉強できんじゃないですか?」


 漫画の話を切り上げられたのは好都合。だが、この女。慎重にいった方が良さそうだ。今までに経験してきた女とは、少し違った雰囲気だがある。一体どんな欲望をもっている。


「そんな、大したこと無いですよ」

「そんなこと言って、ルックスも素敵ですし、さぞモテたんじゃないですか?」


 こちらに気があって、褒めるのがヘタなのか。漫画の嘘を見破っていて、皮肉のつもりで言っているのか、イマイチ掴みきれない。


「まあ、彼女はいましたけど、それほどじゃないですよ。愛野さんこそお綺麗ですし、男子から人気だったでしょ」

「いやあ、私学生時代はホントモテなくて。それに私、、整形してるんです」


 …そういうことか。これを言うタイミングを探っていたから、不自然さが生まれていた。


 なんとか、顔に出さないよう努めろ。驚きがゼロじゃないが、香澄も話していたように、今時整形なんて珍しいものでもない。それでも、思い詰めたように話した通り、本人は気にしているのだろう。そこを受け止めれば良い。


「そうなんですか。でも、そんな思い詰めるようなことじゃないでしょう」

「そうですか?」


 思いを伝える時は、エピソード付きで感情の変化も加えて話せば、より深く届く。たとえ、それが嘘でも。


「昔は僕もちょっとだけ偏見があったんですけど、外見にコンプレックスを持っていた友人が整形して、ストレスも減ったようでしたし、性格も明るくおおらかになったんです。それから、人生を良い方向に変えられるなら、素晴らしいことだと思うようになりました」


 女は再び口角を緩やかに上げながら、今度は目尻にも皺をつくって、俺の目を見つめる。


「桐山さんがそういう考え方の人で安心しました。今でも、変な目で見てくる人って多いので」


 警戒心が解けだしたか?ならば、踏み込むタイミングだ。整形していたというのは気になるが、現時点が良ければそれでいい。


「そういう古い考え方の人って今でもいますよね。絶対に付き合いたくないタイプ。僕も以前の彼女がちょっとそういう感じで。愛野さんは、今までどういう方とお付き合いを?」

「学生時代にすごい好きな人がいたんですけど、悲しいふられ方をしてしまって。実はそれ以来ないんです」


 なるほど。それからこじらせてしまい整形に至ったのだろう。それにしてもそれ以来とは、より価値がある。


「ほんとですか。お綺麗だから、恋愛がお上手かと」

「言い過ぎですよ」


 その言葉に愛想笑いをしながら、次の展開を頭の中で組み立てていると、女の口角が均一になり、目尻の皺も消えた。


「その人の名前も愛野だったんです」


 …なんだこの女。さっきからゴールに近づくたびに、意味深な言葉を口にする。なんだ、まさか兄妹で?いや、一人っ子だと以前聞いた。


「へえ、珍しいですね。」


 とすれば、やはり関係が?落ち着け。だとしても誤魔化しようはいくらでもある。それに美幸はもう、


「ええ。ただでさえ、私の名字って珍しいのに。でも、桐山さんはこの名前聞くの初めてじゃないですよね?学生時代の彼女である美幸も、同じ名字でしたから」

「すみません。お手洗いを借りても?」


 どうぞと、口角を上げないまま控えめな声で女は応えた。その不気味さにTポットの紅茶が赤く濁ったようにさえ見える。アパートの間取りは同じだから、トイレの位置は分かっているものの、足取りがおぼつかない。


 あの女は知っている。愛野美幸のことを。そしてそれを今まで隠していて、このタイミングで伝えてきた。しかしなぜ?美幸にも姉妹はいなかった。それにあの女の地元は違ったはずだ。


 便器に座り込んで、考えを巡らせる。


 何か嘘をついているのか。何を?何の目的で?考えろ。今までどんな女にだってそうしてきたはずだ。俺ならできる。


 仮にあの女が愛野美幸の知人だとして、俺に近づいてきたとして、やることは何だ?…復讐?いや、だとしたら、一体?


 ──あれ、なんか他殺だったかもって言われてるっぽい。


 思わず顔を上げると、方言が使用された日めくりカレンダーが目に入る。そこにも答えは存在した。

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