第一話:吸血姫
「それで」
しばらく無言のにらみ合いが続いた後、美しい少女は、美しい声で静寂の帳を破った。ぼうっとカーミラを見つめていたロビンははっとした。
「私のことをどうするつもり?」
本当に彼女が吸血鬼なのであれば、学院の教師に即座に報告すべきだ。だが、それと同時にそこにたどり着ける可能性がないこともロビンは理解していた。一人で軍隊一個師団を滅ぼせるという吸血鬼に一介の学生であるロビンが敵うはずもない。
と、そこまで考えて気づいた。何故か自分はこの少女を危険なものとは思えない。いや、危険なものとは思っていない、感じていないといったほうが正しいだろう。儚げで、すぐにでも消えてしまいそうな体躯のカーミラをそんな危険な生物であるとは思えなかった。
「えっと……本来なら、ここで勇敢に戦って命を散らすのが貴族たるものの役目、だと思いますけど」
ロビンは続けた。
「僕にはどうも貴方が人を害する吸血鬼には見えないのです。自分でも不思議なんですけれど」
「私が吸血鬼であることが信じられないってこと? 自分で言うのもなんですけれども、正真正銘の吸血鬼よ? 見られたからには貴方を消してしまうのが最も私にとって都合のいいやり方ね」
嘘だ。漠然とロビンはそう思った。この少女は自分を害そうなんて、排除しようなんて微塵も思っていない。
「御冗談でしょう? 何故か貴方からは僕を傷つけたりとか、そういった意思が感じられないのです」
ほう、とカーミラは息を吐いた。
「正解よ。私、人間と敵対するつもりはないの、信じてくれる?」
「信じることができるかどうかと言われたら、ほとんど話したことのない間柄ですので……」
貴方自身を信じることはできない。ロビンはそう告げた。他人を信じる、信頼するという行為は、友人や恋人のように親しくなってから行われるべきだ。信頼の構築には時間がかかり、そして崩れるときはあっという間である。ロビンは短い人生経験ではあるが、そのことをわかっていた。
「でも自分自身の感覚を信じることはできます。貴方は人を傷つけない」
この感覚が間違っていたら、死ぬのは僕だなぁ。ロビンはぼうっと直前の自分の言葉を反芻しながら考えた。カーミラが嘘八百を告げている可能性も十分にあるのだ。油断させておいて、あとから殺される可能性は十二分にある。
カーミラがべチャリと左手に持っていた何かを後ろへ放り投げる。ロビンが目を凝らしてそれを見ると、それが小さなネズミであったことに気づいた。この少女はネズミの血を啜っていたのだ。ネズミの血って美味しいんだろうか。雑菌とか色々持ってそうだけど。ロビンはこの場にはそぐわない感想を抱いた。
「この学院で行方不明だとか、吸血鬼騒ぎとかは今の所起きてないですよね。貴方がその気になれば、この学院の半分以上を一晩で滅ぼす、もしくは掌握するのは難しくないと思うんです」
カーミラはロビンと同じく二年生。最大二年も吸血鬼が学院に潜んでいたにもかかわらず、現状何も起こっていない。カーミラが人間と敵対する吸血鬼であると仮定するのであれば普通は考えられない。
「今までおとなしかっただけで、これからみんな食べちゃうかもよ?」
「未来のことまで責任は持てませんから」
あっけらかんとロビンは言った。
「じゃあ見逃してくれる、と言っているのかしら?」
「お互い何も見なかったことに、とか」
もともと他人同士。明日からも他人同士。それが一番良いのではないだろうか。お互い、この邂逅は忘れてしまうのが一番だ。カーミラに人間と敵対する意思がない以上、何もなかったことにするのが賢い選択だ。
クスリ、とカーミラが笑った。
「変わってるのね。普通私が血を飲んでるところを見たら恐ろしくて、すぐにでも魔術で攻撃してきそうなものだけど」
「ぼんやりしているとはよく言われますよ」
それに。と、ロビンは続ける。
「事なかれ主義ですから」
ふふふ、とカーミラが小さく笑う。
「でも、私はすぐにこの学院を出ていくことにするわ。貴方のこと、信用してないもの。体面上は死んだって体を装って」
遠くの国にでも逃げようかしら、とカーミラは笑う。
「誰にも言わないって言っても、信用してもらえないですよね。……そういえば太陽の光は大丈夫なんですか?」
「よくわからないけど、ちょっと眩しいくらいで大丈夫なの。変よね」
吸血鬼は太陽に弱い。太陽の光を浴びると燃え尽き、灰になってしまうという話だ。だが、一部に例外もいる。それは吸血鬼の中でもとりわけ強い力を持つ存在に許された特権である。ここ数百年でそのような存在の発生は確認されていない、とどこかの文献で読んだことをロビンは思い出す。
「十字架は?」
「見てみたことはあるけど、十字架だなぁって」
「ニンニクは?」
「私ニンニク料理好きよ」
本当にこの少女は吸血鬼なのだろうか。吸血鬼が苦手だとされているもの何もかもが通用しないじゃないか。僕はもしかして非常に大変な相手と対峙しているのではないか。ロビンはそう思うと、空恐ろしくなってくるものを感じた。というか、一般的に言われている吸血鬼の弱点のほうが怪しくなってきた。
「あとは、何だっけ、木の杭で心臓を突き刺されると死ぬとか」
「それ、人間でも死ぬわよね」
確かに。普通の人間は心臓を串刺しにされれば死ぬ。
「でも試したことあるけど死なないわよ。多分」
以前、自分を散々痛めつけてみた中に、木の杭を心臓に突き刺すというものがあったらしい。それでもなお、今彼女はロビンの目の前にいる。っていうか、自分を散々痛めつけたってどういうことだよ。ロビンは心の中でツッコミを入れた。
「他にも鏡に映らないとか」
「普通に映ってるわね。映らなかったら身だしなみを整えられなくて困りそうね」
「流れる水の上を渡れないってのは?」
「そういえば試したことないわね。今度試してみるわ」
「入ったことのない建物には招かれない限り入れない、っていうのはどうでしょう」
「友達、いないのよね。でも学院のいろんなところに勝手に出入りしてるから、多分入れるんじゃないかしら」
何ということだ。一般に言われている吸血鬼の弱点がほとんど効かないじゃないか。ロビンは愕然とした。もし他の吸血鬼も同じだったら、人間はどうやって対抗すればいいのだろう。カーミラだけが特別であると信じたい。
「じゃあ、お話はおしまいでいいかしら? 逃げる支度をしなくちゃ」
後にロビンは語る。このときになんでこんなことを話してしまったのかわからないと。とっさにこの少女と二度と相まみえることがないのは嫌だ。そう感じた。
「えっと、困ります」
「困る?」
カーミラは小首をかしげる。吸血鬼とは思えないほど可愛いな。ロビンはそう思った。
「えぇ、僕授業中に貴方の後ろ姿を見るのが趣味なんです」
我ながら何を言っているんだ。趣味ってなんだ。ロビンはそう考えながらも続ける。
「授業中のささやかな趣味を奪われてしまっては困ります。だから出ていかないでほしいのです」
もちろん今日のことは誰にも言わない。そう続けた。
「あはは、あははははは」
カーミラはそれを聞くと控えめな音量で笑い始めた。
「あんたって本当に面白いのね」
笑いは止まらない。貼り付けた公爵家令嬢の立ち居振る舞いが剥がれてしまう程には面白かったらしい。
「それに、子爵家の僕が公爵家の貴方を吸血鬼だなんて喧伝しても誰も信じない」
そうでしょう? 未だに笑い続けるカーミラにロビンはそう告げた。もし、明日ロビンがカーミラが吸血鬼だと喚き散らしたとしよう。その場合、どう考えても頭のおかしい奴だと認定されるのはロビンだ。普通は誰も信じない。
「確かに、確かにそうね」
「さしあたっては」
続ける。本当にさっきから思いつきだけで喋ってるな。自分が迂闊なのか、この美しい少女がそうさせるのかは知らないが。
「僕を貴方の眷属にする、というのはどうでしょうか?」
ピタリと笑い声が止まる。雰囲気が変わる。今までの緊張しつつも和気あいあいとした空気が一瞬にして、ピンと張り詰めたものに変わる。やべっ。ロビンは自分の失言を後悔した。
「私、眷属は作らないと決めているの。何を求めてるの? 力? それともそれに伴う名声?」
返答次第では、どうにかなってしまうのは自分だ。ロビンはそう自覚しながら、次に話すべき言葉を慎重に選んだ。
「いえ、美しい貴方の眷属になるのであれば、それはそれでいいものじゃないかなぁ、と思っただけです。他意はありませんよ」
「ならその話は無しよ。言ったとおり。眷属は作らない。それが私の生きていく上でのルール」
その言葉は、彼女の自分に対する誓約なのか、譲れぬ誇りなのかはわからない。わからないけれども、その表情から決して侵してはならない、そんな領域に思えた。
瞳はロビンをまっすぐに打ち据え、地雷を踏んだことを感じ、ロビンは初めてこの少女に恐怖を感じた。
「でも、あんたのことは気に入ったわ。この直感が続く限りは、学院を出ていかない。約束する」
カーミラはニコリと微笑み、張り詰めた空気が弛緩した。
「ありがとうございます」
さて、はぐれてしまったグラムも流石にそろそろ自分を探しに来る頃合いだ。
「カーミラさん。もうすぐ、僕の連れが僕を探してここに来るでしょう。貴方はすぐにここから逃げたほうが良い」
カーミラは切れ長の目を細めると、周囲を観察するように首を回した。しばらく回したあと、ロビンの斜め後ろをじっと見つめる。千里眼というやつだろうか。よくわからないが便利そうだ。
「血を飲むのと、あんたと話すのに夢中で気づかなかったけど、そうね。貴方以外にもう一人気配がある。もうすぐここまで来そうね」
そして、彼女は徐にロビンの方へ顔を向け、優しい笑顔で言った。剥がれてしまった公爵家の令嬢という被り物をかぶり直したようにも見えた。
「ありがとう。本当は見つかってしまってとても不安だったの。でも、見つかったのが貴方で良かった。私は貴方の言う通り、もう消えることにするわ」
そう告げた彼女の身体は、次の瞬間にはコウモリの群れとなり、開いていた窓から去っていった。吸血鬼の能力の一端を目にし、ロビンはあんぐりと口を開けた。
カーミラが去ったあと、訪れたのは静寂。今日は本当に不思議な体験をした。魅入られ、恐怖させられ、そして、きっとこれは……。
「一目惚れ? ってことになるのかなぁ」
美しい少女だとは思っていた、授業中に後ろ姿を観察する程度には。しかし、ロビンは子爵、彼女は公爵。釣り合いが取れていない上に、相手にされることもないと思っていた。今夜のことがなければ、一生話をする機会もなかっただろう。
彼女は公爵家の二女であると聞いている。普通であれば、公爵家の権力の基盤を強靭なものにするため、政略結婚として王家やそれに連なる者たちの妻となり一生を過ごしていくのだろう。貴族の世界ではそれほど珍しい話でもない。
「おーい、ロビン」
グラムの声が背後から聞こえる。どこでなにをやっていたやら知らないが、先に目的地に向かったはずが、道に迷いでもしたのだろう。この場に、この邂逅にグラムがいなかったことがロビンには酷く幸運に思えた。
「なんか、変な顔してるけど、なんかあったのか?」
秘密の共有。本来であればつながるはずもないその小さな繋がりに、ロビンはニッコリと笑った。
「いや、何もなかったよ」
その後のことは特筆すべきことは何もなかった。グラムが、大したものねぇな、とぼやいたり、旧館を一通り探索して何もないのを確認したりし、夜が更けていったところで彼らは解散した。そもそも、もう使われなくなった校舎に大事なものや価値のあるものを残しておくはずがない。結局グラムにとってはただの肝試しとなり、吸血鬼に対する興味は薄れていったようだ。いや、もともと吸血鬼自体に興味などなかったのかもしれない。
宿直の巡回ルートに気をつけながら自室に戻ると、月は消え、朝日が昇り初めていた。
いつもよりも眠る時間が遅くなったせいで明日の朝起きるのが大変だなぁ、とロビンは不満を感じながら、床につこうとした。
コツン、コツン。
服を脱ぎ、寝間着に着替えようとしたとき、窓を何かが叩く音がした。胡乱げに窓のほうを見やると、コウモリが一匹窓に身体を叩きつけていた。ロビンはとっさにカーミラのことを思い出し、窓をそっと開く。
コウモリは、小さな紙切れを足にくくりつけられていた。くくりつけられた紙を解くと、コウモリは窓から帰っていった。
『明日、同じ時間に同じ場所で待ってるわ』
差出人の名前はないが、カーミラからの手紙であることはすぐに分かった。明日も夜更しか。ロビンはそんなことを思いながらも、明日の夜を楽しんでいる自分に気づいた。
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