君の眷属になりたい ~吸血鬼の公爵令嬢と変わり者少年が送るトラブルだらけの学院生活~
げっちょろべ
第一部
プロローグ
強烈なインパクトを以て思い出せるのは真っ赤な色。小ぶりで細めの顎からぽたりと粘度の高さを想像させるそれが床に落ちる様は、月の光に照らされたその場所と相まってひどく退廃的かつ耽美的な一枚の絵画を想像させた。
普通の人間であれば、恐怖を感じ、悲鳴を上げて逃げ出すもののような気がするが、彼には何故かそのような考えは出なかった。
魅入られた。
淫魔や上位魔獣が使うとされる魅了の魔術にかけられてしまったのではない。彼は自分の今の状態を把握できる程度には冷静であった。
ただただ、美しく見えた。ほっそりとした体躯に起伏の少ない身体、ただし女性らしい丸みはほのかに感じさせられる、白銀の髪を耳にかけて小動物の血液を啜る、少女が。声を発することも忘れ、ただただその光景を目に焼き付けようと手をのばす。
かたり、と音がなった。ローブのポケットに入っていた筆記用具が石畳の上に落ち、乾いた音が廊下に反響した。
「あら」
ゆっくりと少女がこちらを見る。感情を感じさせない。冷たくも暖かくもない、そんな金色の瞳で。
少女の声は麗しい外見と遜色ない、か細く、それでいて芯のある声だった。あぁ、僕はこの声の主を知っている。彼は思う。なぜ今まで気づかなかったのだろう、学院の高嶺の花とまで呼ばれる、同級生のその少女に。
「見られてしまったのね」
話した内容からは想像もつかないほど冷静で、それでいて恐ろしくもある声色だった。
「君は……」
「見ての通り。 ご想像の通り」
吸血鬼。人間を捕食する、人間の敵。その敵対の歴史は数千年前から語り継がれている。しかし、彼にはその可憐な少女が、一人で数百人の人間を殺し、血を吸えばその者を眷属とし、村や町をいとも滅ぼす、そんな存在には見えなかった。
その存在はあまりにも儚かった。強力な力など微塵も感じさせないその姿に、やはり彼はこう思った。ただ美しい、と。
話は数時間前に遡る。
「なぁ、なぁ。ロビン。学院の吸血鬼って知ってるか?」
彼は、藪から棒に話しかけてきた悪友、グラムのにやけ面にため息をこぼした。
「知らない」
ロビンはグラムを一瞥すると、読んでいた教科書に目を戻した。成績優秀でも真面目でもないが、落第になるのは困る。授業と授業の合間の貴重な予習時間を邪魔しないでほしいものだ。
「なんだよ、知らないのかよ。学院七不思議のひとつだぜ? 有名な話じゃないか」
「あぁ、七不思議なのに、十個も二十個もあるっていう例の」
彼は教科書から目を離さず、答えた。時間が惜しい。今日は日付的に自分が当たる番だ。
「なんでも、深夜に旧館三階の西側の廊下に行くと吸血鬼がいるらしいぜ」
「それで?」
「襲われて、血を吸われて、ミイラにされちまうって噂だ」
「なんで、生存者がいないのに噂が立つんだよ。それに吸血鬼に血を吸われたら眷属になってしまうって話だろ?」
「知らねぇよ。まぁ、所詮七不思議なんていう眉唾な話だからな。でも七不思議の中に加えられたのは最近だって話だ」
「他には何だったっけ? 東のゴーストと、北のゴーレムと……」
「全部ハズレだ。お前まともに聞く気ねぇだろ? 」
当たり前だ。こっちは次の授業の予習で忙しいのだ。彼は言葉に出す代わりに、もう一度グラムを一瞥する。
「早く席につきなよ。次は魔術学の授業だよ、予習しなくていいの?」
「げ、もうそんな時間か」
授業を開始する鐘がなる。このリシュフィール魔術学院は魔術の素養があるものに等しく知恵と知識を与える国立機関だ。貴族・平民問わず、魔術の下における平等を掲げ、等しく魔術を教え、国のために力を講師する魔術師を育成する機関である。
ただ、魔術の下における平等を掲げてはいるが、実態としては貴族と平民の校舎が分けられており、貴族と平民が相まみえることはない。これは、数十年前に魔術の下における平等を履き違えた平民が、貴族へ無礼を働き打首となったことに所以している。
鐘がなってしばらくすると、魔術学の担当である教師がのそのそと教室に入ってきた。
「本日の魔術学の授業は……」
先程の会話をもともとあった記憶の隅から、更に奥に奥に押し込んで、彼は授業へと意識を向けた。いや、正確には授業に意識を向けようとした。
彼が座った席は教室の左斜め後ろ。窓際で風通りもよく、初夏の暑さの中授業を受けるにはちょうど良い席だ。授業を受けようと黒板に目を向けると否応なしに目に入る、白銀の長髪に目を奪われる。
曰く、親の地位を傘にきた高慢ちき。曰く、友人という友人はおらず、人との接触を極端に拒む変わり者。曰く、その美貌に幾人もの男が群がったがすべて撃墜されたという、高嶺の花。
ロビンは授業中時折、その少女から目を離せなくなる。ピンと張った背筋。腰まである長髪。こちらからは見えないが、黒板とノートをせわしなく行き来する金色の瞳が彼女が勤勉な人間であるということを証明しているだろう。事実、彼女は学園に入学して以来、教室の最前列のど真ん中の席を誰にも譲ろうとしなかった。成績はもちろん優秀。実技に関しても文句はなく、教えられるまでもなく初級から上級までの魔術を使いこなしていた。公爵家の娘だ。学院に入学する前にそれなりの教育を受けてきたのだろう。立ち居振る舞いは貴族の名に恥ずかしくなく、言葉は上品。ただ、その表情から公爵家の娘たらんとする気迫と、それに伴ったプライドが見る者すべてを圧倒していた。
入学当初は彼女に取り入ろうとするものもたくさんいた。しかし、彼女は取り巻きを必要とせず、他者とは一線を引き、誰とも親しくなろうとはしなかった。
「カーミラ・ジギルヴィッツ……」
ロビンは周囲に聞こえない程度に彼女の名前をつぶやく。話したこともない、美しい少女に彼は時折目を奪われてしまうのだった。僕は子爵家、彼女は公爵家、釣り合いが取れていないことは明白だなぁ。彼は心のなかでひとりごちた。入学当初に芽生えた心の中の小さな憧れ。しかしその想いは、誰にも伝えず、誰にも明かさず、学院を卒業していつの日か消えてしまうのだろう。
「ウィンチェスター君。ロビン・ウィンチェスター君」
教師の自分を呼ぶ声にはっと意識を授業へ戻した。あぁ、そうだ。今日は日付でいえば僕の番だった。はい、と返事をし急いで立ち上がる。教師は簡単な質問を彼に投げかける。幸い休み時間中に予習していた範囲だったのですらすらと答えることができた。ほっと安堵のため息をつきながら、彼はまた席へつき、カーミラから意識を外し、授業へ集中するのだった。
すべての授業が終わると、学生たちは思い思いの予定を消化しに、散り散りになっていく。友人と他愛もない話に興じるために中庭へ向かう者。明日の授業の予習のために寮へ足早に帰る者。友人がいないわけではないが、どちらかというと引きこもって読書をすることの多いロビンも、足早に寮へ変える集団の最後尾をのそのそと一人で歩いていた。
「よぉ、ロビン」
不意に後ろから声をかけられ、彼は振り返った。
「グラム。なんの用?」
伯爵家の長男とは思えない、立ち居振る舞いと言葉遣い。貴族にも関わらず、親の爵位にとらわれず、誰とでも気さくに話かけるこの少年にロビンは多少なりとも好感を抱いていた。とはいえ、今日はゆっくりと読書をしたい気分だったのだ。どうせ、それを邪魔するお誘いだろう。ロビンは少しだけ嫌な顔をする。その嫌な顔を気にした様子もなく、グラムは次の言葉を発する。
「お前、どうせこのあと一人寂しく部屋で本でも読んでるんだろ?」
「一人寂しくとか言うな」
「どうだ? 今日の夜ちょっと付き合わねぇか?」
やっぱり、読書の時間を邪魔するお誘いだった。確かにロビンはこの少年に好感を抱いてはいるが、多少強引なところについては嫌だなぁ、と思っていた。
「本を読むのは立派な予定だと思うけど」
「いいから付き合えって。深夜に旧館を探索するぞ。吸血鬼、見てみたくないか?」
その話か。ロビンはため息をこぼした。旧館はめったに人が立ち入らない。単純に老朽化によって閉鎖されているからだ。吸血鬼探しというのは口実で、めったに入れない旧館で宝探しでもしたいのだろう。
「見つかると大目玉だよ? 本当に行くの?」
「当たり前だろ、有言実行が俺のいいところだ」
毎度それにつきあわされる身にもなってくれ、と喉まで出かかった言葉をロビンは飲み込んだ。こうなったグラムはどんな策を弄しても止められない。
「わかった、わかったよ。行きます、行きますとも」
「話がわかるじゃねぇか。じゃあ、消灯後鐘三つ分の時間が流れたら、旧館の門前集合な」
返事代わりに、ロビンは特大のため息をこぼした。
「教師どもに見つかるんじゃねぇぞ。くれぐれも慎重にな」
「君が慎重だったことなんてある?」
「俺はいつだって慎重さ」
慎重とは無縁そうな大胆不敵な笑みを浮かべて、そんなことをのたまった。
とはいえ、約束は深夜。読書の時間すべてを奪われたわけではない。まぁ、それで気が済むならそれでいいか。彼は若干の達観とともに今後の予定を組み直すのだった。
「見つからないで来れたみたいだな」
「宿直の教師以外は眠ってる時間だからね、巡回のルートがわかってればそんなに難しいことじゃないじゃない」
「そりゃそうか」
約束の時間。二人は旧館の門の前にいた。宿直の巡回ルートは旧館までは網羅していない。ここまでくれば見つかることはない。
「とはいえ、どうやって中に入るか……」
巡回がここまで来ないとはいえ、魔術を使って侵入するわけにはいかない。消灯後の魔術は学園内に張り巡らされた探知魔術によって検知され、使った5分後には学園の全教師がここに集まってくるだろう。古くからあるこの学院には貴重な資料や宝物がある。それらを盗まれないようにする対策なのだと、どこかで聞いた。
「どこかに入れそうな場所がないか探してみよう」
「おっ、やる気じゃないか、さっきはあんなに嫌そうな顔してたってのに」
「諦めたんだよ。さっさと君を満足させて帰って寝たいんだ」
「あぁ、そういうことかよ。っと、ここから入れそうだな」
よく見ると塀の一部が欠けている。このくらいの高さならばよじ登れそうだ。グラムは早速崩れた塀の上に足をかけた。
「さ、お前も早く来いよ」
グラムがよっ、と小さく掛け声を上げ、塀を飛び越える。ロビンも彼に続いて塀を飛び越えた。
「さぁて、ワクワクするじゃねぇか。今は使われてない旧館。どんな面白いものがあるかね」
面白いものなどあるはずがないだろう。そう思いながらロビンはため息をつく。いけないいけない。ため息をつくと幸せが逃げると誰かが言っていた。そんなことを考えながら、旧館の正面玄関へ二人で歩いていった。あたりは当然閑散としていて、人の気配など感じられない。肝試しじみてきてなんだか空恐ろしくなってきたロビンは、自身の恐怖を払拭するため右手を強く握る。
「鍵がかかってるんじゃないの?」
「確かにそうだよな。ここまで来てこれで終わりか?」
そう言いながら、グラムは両開きのガラス戸に手をかける。予想に反して、入り口はすんなりと開いた。鍵が壊れているようでもない。
「開いたぞ。鍵がかかってねぇ。探索続行だな」
やれやれ、ここで鍵が閉まっててくれたら、今すぐにでも自室へ帰れたのに。彼は表情に出さないように残念な気持ちを心の中で押し殺した。そもそも肝試しとかそういった怖いものは苦手なのだ。アンデットでもゾンビやスケルトンとゴーストはぜんぜん違う。アンデットやスケルトンならば彼の魔術でもどうにか倒せそうなものだが、ゴーストのような実体を持たないものとなるとそうもいかない。
まぁ、どちらも魔法学院にはいそうもないけど。ロビンは小さな声でひとりごちる。神聖な魔法学院に魔物やら魔獣が入り込んでくることはありえない。そのための幾重にも張った結界である。それに、今日の建前はアンデットではない。吸血鬼だ。その存在には甚だ疑問を抱くところではあるが。
今は使われていない教室が立ち並ぶ廊下を歩く。いかにも何か出てきそうなそんな雰囲気を受け、徐々に身体が緊張していく。どうせ何も出ないとわかりきってはいるのだが、怖いものは怖い。
少し歩くと階段のある開けた場所に出た。階段の踊り場には、大きな絵画が飾ってあった。ほう、と息が溢れる。ここまで立派な芸術品はそうそうお目にかかれない。しかし、これはなんの絵なのだろうか。おそらく神々や精霊をモチーフにしたものではあるのだろうが、いかんせん芸術に造詣がないロビンにはよくわからなかった。
「あれ?」
気づくとグラムがいない。絵画を観察している間に先に行ってしまったのであろうか。こんな場所に一人置いてけぼりにされるのは遠慮したい。
「おーい。グラム。どこにいったんだい?」
返事はない。あちらも僕とはぐれたことに気づいてくれればいいが。一瞬帰ろうかとも考えたが、次の日にグラムから受ける恨み言を考えると頭が痛いのでよした。はぐれた場合は現在地から動かないことが一番の解決法だと聞いたことがあるが……。
「あいつが迎えにくることはありえないな」
ロビンがいなくなっても一人で目的地に進んでいく。それがグラムの性格だ。困った奴ではあるが、これはどうしようもない。
「仕方ない。西側の廊下だったか。そこで落ち合えるだろう」
階段を上がり、西に真っすぐ伸びた廊下にあたりをつける。三階。西側の廊下。学園の七不思議が眉唾でなければこの先に吸血鬼がいるだろう。そんなことはありえないが。
何となく、足音を立てるのが憚られ、忍び足で歩いていく。誰もいるはずがないというのに何故かそれが良いような気がしたからだ。西に向かった廊下をしばらく歩くと、南北へ伸びる長い廊下に出た。
「西側の廊下って言ってたけど……」
特にどういった意味もなく右へ曲がる。
「なんだろう」
鈍感なロビンもその気配に気づいた。雰囲気がおかしい。人の気配がする。旧館にはロビンとグラムの二人だけが存在するはずだ。まさか本当に吸血鬼が存在する? いや、そんなはずはない。ロビンは頭を振ってその考えを否定した。自然と足を進める速度もゆっくりになり、忍び足はさらに慎重なものとなる。
そこで、彼は吸血鬼。いや、吸血姫と出会う。
「あら、見られてしまったのね」
彼の長い人生の転換点となる、その瞬間だった。
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