そして、春

 その日、玄関のドアを開けた瞬間にとてつもない違和感を覚えた。


 嫌な予感がして靴箱を開けると、そこにあったはずのお兄ちゃんの靴が全て消えてなくなっていた。


 言いようのない焦燥感に襲われて、心拍数が徐々に上がっていく。

 慌てて靴を脱ぎ捨てると、あたしは「ただいま」も言わずに二階へと駆け上がった。


 きっちりと閉じられているお兄ちゃんの部屋のドアを、一縷の望みを抱きながら勢いよく開く。

 その瞬間、視界に飛び込んできた見慣れない風景に目眩がしそうになった。


 部屋の中には、お兄ちゃんがいつも使っていた机やベッドなどの大型家具がそのまま置いてある。

 けれど、今朝あたしが家を出るときにはそこにあったお兄ちゃんの衣類、本、雑貨やゲーム機。

 いつも通りそこにあって、いつも通り乱雑に散らばっていたそれらが、部屋から全てごっそりと消えてなくなっていて。そこで生活していたはずのお兄ちゃんの気配そのものが、完全に消え失せていた。


 今目の当たりにしている事実が信じられなくて、ふらふらとした足取りで階段を降りてリビングの叔母さんのところに向かう。


「叔母さん!」

「あら、おかえりなさい」


 今はもうよく思い出せないけれど、かつては母に似ていると思った叔母さんの穏やかな優しい声があたしを迎え入れてくれる。

 目を細めて柔らかに笑いかけてくる叔母さんを、あたしは泣きそうな顔で見つめた。


「お兄ちゃんは?」


 まさか、もう行ってしまった?

 あたしに黙って。さよならすら言わずに。

 あたしは何も聞いてない。


 泣かないように手のひらをきつく握りしめるあたしに、叔母さんが小さく首を傾げた。


「あら、その辺で会わなかった? コンビニに行くとか言ってたけど」

「コンビニ……」


 それを聞いた瞬間、あたしはすぐに家を飛び出した。


 一番近いコンビニに向かって走るあたしを、向かい風が邪魔をする。


 目を伏せながら走り続けていると、風にのせられて飛んできた薄紅色の小さな花びらが、あたしの頬をすっと掠めた。

 ふと足を止めると、叔母さんの家を出てから少し先にある曲がり角の家の桜が、風に吹かれてはらはらと散り始めている。


 一週間前に満開になった、曲がり角の家の桜。


 あの桜がまだ枯れ木だった冬。

「桜が散る頃にこの町を出て行く」と、お兄ちゃんがそんなふうに言っていた。


 薄紅色の涙の雫のように、風に吹かれて流れていく桜の花びらをじっと睨む。


 まだ、散らないで。まだ。


 桜の木を睨みつけると、風に吹かれて流れてくる薄紅色に逆らうように前へと進む。

 だけど桜の木のある家の角を曲がってすぐに、あたしは再び足を止めた。


 探していた人が、薄紅色を散らしていく桜の木を見上げて、ぼんやりと立っていたから。


「お兄ちゃん……」

「おぅ」


 声をかけると、お兄ちゃんがゆっくりと振り返っていつも通りの笑顔を見せた。

 その反応があまりにも普通すぎて少し腹がたつ。


「黙って行こうとしないでよ!」


 怒ってそう言ったら、笑顔のお兄ちゃんの眉尻が困ったように垂れた。


「黙ってるつもりはなかったんだけど。言いにくかったんだよ」

「どうして?」


 真っ直ぐにお兄ちゃんを見つめながら、少しずつ距離をつめる。

 手を伸ばせば届く距離まで近づいたとき、お兄ちゃんが困り顔でつぶやいた。


「だってお前、泣くだろ? 俺がいなくなったら」


 その言葉を聞いた瞬間、身体中を電流が通り抜けていくみたいな衝撃が走った。


 大きく目を見開いてお兄ちゃんと向かい合うあたしの頭上に、薄紅色の花びらがひらひらと絶え間なく舞い落ちてくる。


 目の前に舞い落ちてくる無数の花びらのせいで、お兄ちゃんの顔がぼやけて歪んで見える。

 だけどどうやらそれは、瞳に涙のフィルターがかかっていたせいだったようで。お兄ちゃんをよく見ようと目を凝らすと、あたしの頬に数筋の涙が伝った。

 涙で濡れたあたしの頬に、散り落ちた一枚の桜の花びらが張り付く。


「桜の涙みたいだな」


 花びらに気がついたお兄ちゃんが、あたしの頬に手を伸ばして薄紅色の涙を拭ってくれる。

 それからその手をあたしの頭に置くと、小さな子どもを慰めるみたいに優しく撫でた。


 最後まで子ども扱いして……。


 悔しくて泣き顔のまま上を向いたとき、お兄ちゃんが背を丸めて顔を近づけてきた。

 いつもと違うその雰囲気に、瞬間的にまばたきと呼吸を忘れてしまう。

 そんなあたしの額に、桜の花びらが舞い落ちてきたような優しさで、お兄ちゃんの唇が静かに触れた。


「また帰ってくるから。それまでいい子で待ってな」


 突然落ちてきたキスに茫然としていると、お兄ちゃんが悪戯っぽく笑った。


「そのときは、もうちょっと大人になっとけよ」


 薄紅色の花びらが、あたしたちの別れを惜しむように、いくつもいくつも舞い落ちる。

 舞い散る桜の花びらの向こうに見える、お兄ちゃんの笑顔がまぶしい。


 今年の桜を。花が舞い散る季節を、あたしはきっと一生忘れない。

 これから、何度季節が巡っても。


 頬を濡らしたままの涙を制服の袖で拭うと、あたしは小さく頷いた。


fin.

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薄紅色の、散る。 月ヶ瀬 杏 @ann_tsukigase

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