冬
寒い。
マフラーをきゅっと巻き直してから、指先の冷えた手をコートのポケットに突っ込む。
この地域の冬の寒さにはだいぶ慣れてきたつもりだけど、今日は一段と寒い。それなのに学校に手袋を忘れてきた。
少しでも寒さが紛れるように、コートのポケットのできるだけ奥にぎゅーぎゅーと手を押し込む。
一刻も早く家に辿り着きたくて早足で歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「今帰りか?」
振り返ると、黒のリクルートスーツに紺のコートを着たお兄ちゃんがにこっと笑った。
「そっちこそ、早いね」
「あぁ、たまにはな」
そう答えるお兄ちゃんは、何だか機嫌がよさそうだった。
次の春で大学を卒業する予定のお兄ちゃんは、最近就職活動で毎日忙しそうだ。
黒のリクルートスーツを着て、説明会だ、面接だと時間刻みで動き回っているらしい。
普段見慣れないスーツ姿が大人っぽくてかっこいいな、なんて。
あたしは呑気にそんなことを思っていたけど、自己分析だとか、企業研究だとか、エントリーシートを何社に送っただとか。お兄ちゃんが食事のときに叔父さんや叔母さんにする話は難しくて、何だか大変そうだった。
お兄ちゃんなら就職なんてすぐ決まるんだろうな。
勝手にそんなふうに思っていたけど、そう簡単にはいかないのが現実らしい。
そのせいか、最近のお兄ちゃんはいつもちょっとピリピリしていた。でも今日のお兄ちゃんは、何となく纏う雰囲気が柔らかい。
「いいことあったの?」
「わかる? 俺、内定決まった」
何気なく聞いたら、お兄ちゃんが弾むような声で返してきた。
「内定?」
よくわからずぽかんとするあたしに、お兄ちゃんが笑顔で頷く。
「あぁ、つまり就職先が決まったってこと。最終面接受けてた東京の会社から、今日電話もらったんだよ」
嬉しそうなお兄ちゃんの言葉に、あたしの頭は一瞬にして真っ白になった。
「東京……? お兄ちゃん、この町出るの!?」
おめでとうの言葉よりも先に出た叫び声に、お兄ちゃんが驚いたようにまばたきをした。
「あぁ、そのうちな……」
「そのうちって、いつ?」
言葉を濁して誤魔化そうとするお兄ちゃんに、つかみかかる勢いで必死に訊ねる。
「いつ、って……。まだまだだよ」
お兄ちゃんは苦笑いを浮かべると、ふと足を止めた。
つられて足を止めたあたしの視線の先には、帰り道の曲がり角にある家の桜の木があった。
まだ葉も蕾をつけていない裸の桜の木は、冬の木枯らしに吹きさらされてひどく寒そうだ。
「あの桜の花が散る頃かな」
お兄ちゃんのつぶやく声に、はっとする。
顔をあげたら、お兄ちゃんが笑ってあたしの頭に手のひらをのせた。
「研修は実家から通える工場で受けて、それから配属先が決まるらしい。だから、ここ出てくのなんて、まだずっと先だよ」
お兄ちゃんが優しい目をしてそう諭す。
そう言ってくれたのはきっと、今にも泣きそうな顔をしているあたしを一時的にでも慰めるためだ。
この辺りの桜は遅咲きだから、満開になった花が散り始めるのは五月の初め。
まだずっと先だ。
お兄ちゃんはそう言って笑ったけれど……。
「さよなら」までの時間が残り少ないことが、あたしにはちゃんとわかっていた。
寂しげに立ちすくむ冬の桜の木は、儚げで頼りない。それをじっと見つめたまま、あたしは最後まで就職先が決まったお兄ちゃんに「おめでとう」の言葉が言えなかった。
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