薄紅色の、散る。
月ヶ瀬 杏
春
あたしがここにやって来たのは、八歳になる年の春だった。
亡くなった母の姉だという人に連れられてやって来たこの土地は、四月も半ばだというのにまだセーターの上に冬用のジャケットを羽織らなければ震えるくらいに肌寒かった。
いくつも電車を乗り継いでやって来た見知らぬ土地には、ただ不安しかなかったし。母の面影を少しも感じないのに、そのくせ母に似た声であたしの名前を呼ぶ叔母には、小さな不信感と反発心があった。
それでも、口数が少なく社交的でないあたしに、叔母はもったいないくらいに優しい態度で接してくれた。
始業式を微妙に過ぎた変な時期に転入するあたしが新しい小学校にうまく馴染めるように、色々と手続きを進めてくれたのも叔母だった。
ここに来る前から使っていた、お古の赤いランドセルを背負って、新しい学校での初日を無事過ごしてきたあとの帰り道。
あたしは叔母の家へと続く曲がり角の一軒家の前でふと足を止めた。
古い家の外壁の向こうから伸びてきている一本の木の枝。その先に、いくつか薄紅色の小さな花が連なって咲いている。
見覚えのある花だな。
そんなことを思ってぼんやり見入っていると、そばを通りかかった人があたしの後ろで立ち止まった。
「どうした? なんか珍しいもんでもあったか?」
少し低い声が明らかにあたしに向かって問いかけてきたから、驚いて思わず肩がビクついた。
「そんなビクつかなくてもいいだろ」
振り返ると、思いきり首を反らさないといけないくらい背の高いお兄さんが、苦笑いを浮かべて立っている。
黒の学ランに身を包んだそのお兄さんの顔には、どこかで見覚えがある。
その顔を目を凝らしてじっと見て、たっぷり数分は考えて、ようやくお兄さんの正体に思いあたった。
「だいぶ考えたな。俺が誰なのか」
「おばさんちの……」
ぼそりと答えたら、お兄さんが「正解」と言って口端を引き上げる。
しばらく考えないとわからなかったけど、彼はあたしがお世話になることに決まった叔母さんのひとり息子だった。
確か、高校生になったばかりだと聞かされた気がする。
叔母さんの家に連れて来られた初めの日の夜、お互いに軽く挨拶をした。
でもそれ以降は、生活時間も生活リズムも違うからか、たまに廊下ですれ違うくらいで、ほとんど交流がなかった。
それに、お兄さんはあたしとすれ違ってもちらっと顔を見てくるぐらいで、声をかけてきたことがない。
だからあたしのことなんてどうでもいいか、もしくは見えてないのかな、なんて思っていた。
でも、確信的に話しかけてきたってことは、あたしの存在は一応きちんと認識されているらしい。
「人ん
「これ、桜?」
びっくりして問い返すと、お兄さんのほうも驚いたような顔をした。
「どっからどう見ても桜だろ。お前、見たことないの?」
「見たことあるよ! あるけど……」
「けど?」
お兄さんの口調が、あたしをバカにしているような気がしてむっとする。
「あたしが知ってる桜はもっと早くに咲いて、もうとっくに散ってたよ」
ここに来る前通っていた小学校の通学路にあった、桜の並木道を思い出す。
あそこの桜は、毎年入学式の少し前に満開になって早々に散ってしまう。
あたしの入学式のときも、綺麗な薄紅色の花吹雪が新入生を祝福するみたいに盛大に舞っていた。
「あぁ、ここら辺は四月になっても寒いからな。桜も遅咲きなんだよ」
「遅咲き?」
「満開になって散るのは早くて五月の頭かな。二回も花見ができて、今年はラッキーじゃん」
お兄さんはそう言うと、大きな手のひらをあたしの頭の上にぽんっと無造作にのせた。
「ほら、帰るぞ。まだ夕方は寒いからな」
ぽかんと口を開けたあたしに、お兄さんが手を差し出してくる。
茫然と見ていると、お兄さんが「さぁ、繋げ」とばかりにその手のひらをさらにぐっと突き出してきた。
「やめてください。子どもじゃないんで」
可愛げのない声でそう言うと、お兄さんがゲラゲラと笑った。
「お前が子どもじゃなけりゃ、誰が子どもだよ」
失礼な笑い方にむっとしていたら、お兄さんがほとんど無理やりあたしの手をとった。
「ちっこい手。やっぱ、ガキじゃん」
揶揄うように笑うお兄さんに、ますますむっとする。
でも、お兄さんの大きな手に包まれたあたしの手は、確かに小さくて。何も言い返せなかった。
「ほら、帰るぞ」
迷子の手を引くみたいにして、お兄さんが歩き出す。
その直前、あたしを振り返ったお兄さんの眼差しがとても優しかった。
そのことを、あたしはきっと一生忘れられないと思う。だって、それがあたしの初恋だったから。
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