第8話 これからの話
時刻は深夜零時。
流石に喫茶店は閉まっている。日本語で閉店と書かれた看板が下げられていた。英語じゃないのかよ、と思ったがスルーしておく。
だから俺は、店の裏口に回った。どうやらそこが家としての玄関になっているそうだ。木製の古臭い横スライド式ドアに手をかけるが、流石に戸締りがされていて家の中にまで運ぶことは出来ないようだ。
体を前かがみにしておぶっている人を落とさないように慎重に右手を動かし、インターホンを押す。
ピンポーン。
家の中から音は無い。
もう一度。
ピンポーン。
駄目だ。反応がない。 というかこの姿勢きつい。
ならば。
連打だ。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
「うっさいちゅうねん! 何時やと思っとるんや!」
家の中からマスターの声がした。
勢いよくこちらに駆けて来ているのがわかる。
「よし! ここまでは運んだぞ! がんばれ!」
おぶっていた少女を慌てて座れせるように背からおろし、店の入り口から離れる。
近くの電柱の陰に隠れて様子だけ伺えるように玄関を覗き込んだ。
後はあいつ次第だ。俺が出来ることはもうない。
「どらあ! 新聞はいらんでえ! ……は?」
ピンクのパジャマを着たマスターが唖然とする。思考がフリーズしているようにも見えた。人は本当に驚くとああなってしまうのか。
突然大声を出すのをやめて玄関に立っていたそれに目を奪われる。
「どうしたの奏、って! アリス!?」
音に驚き後を続いて出てきた幸耀さんも、寝ぼけ眼に眼鏡をかけて視界が回復した瞬間同様の反応を示した。
俺は、アリスの体を玄関前に置き去りにして来たのだ。
これは本人の希望だ。
流石に家まで歩ける体力は無さそうだから運んでくれといったもの。
ついさっきまで存在していた幽霊のアリスはもういない。今この世界にいるのは。
「奏! なんでアリスが!?」
「わ、わからへん! 玄関を開けたらここにいたんや!」
正真正銘。生きているアリスだ。
「お父さん。お母さん」
「あ、ああ」
マスターが、抱きかかえていたアリスの目が見開くのを見て涙を流す。
幸耀さんは夢でも見ているのかのように一度目をこすって、それからアリスに声をかけた。優しく、笑いながら。
「おはよう、アリス」
「うん、長い間、ごめんなさい」
「何を謝っとるねん! このアホ!」
マスターが泣きながらさらに強くアリスを抱きしめた。乱暴に力を込めて。
震える腕の感触に、アリスは驚いたように目を見開いていた。
「お母さん? 怒ってる、の?」
「知らんわアホ!」
もう涙で顔がぐちゃぐちゃのマスター。幸耀さんがその二人を包むように大きな腕で抱擁する。
やっぱりそうだ。
唯のアリスの誤解。怒られないから大切にされていない、距離を置かれているなんて、そんな訳がない。
体が弱かった娘の事を本当に心の底から思いやってくれていたのだ。
「本当によく頑張ったね。アリス」
「うん、うん。ごめん、なさい!」
「泣きたいのはこっちや! わーん!」
マスターの声、そして不器用で誰よりも優しい少女の涙が、夜の町に流れた。
何故アリスやその家族がここまで苦しまないといけなかったんだろう。理由はわからない。
だって、アリスの悩みは一般的には悩みにならない。幸福自慢だと捉える人もいるかもしれない。
それでも唯一事実として、アリスはその誰からも理解されない苦痛に心を潰されていた。
雨粒が石を砕くように、あの家族の互いを思いやる気持ちが少しずつすれ違い、アリスの心に亀裂を入れていたのかもしれない。どんなものも摂取しすぎると毒になる。
それは、幸福なんていう概念も例外ではないんだろう。
これ以上考えると哲学的な考えに陥りそうなので、この辺で思考は放棄する。こんなことは授業に真面目に出ない不良でなく、頭のいい偉い学者が何通りでも答えを出しているはずだ。
まあ、俺から言える確かなことは。
この世界は、人が苦しむように出来ている。それだけだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
誰もいない夜の道を一人で歩く。
長い、長い一日の終わり。俺は自分の家に到着した。
家族の暖かさ。それをこれまでの人生で一番実感させられた一日。
そういえば喫茶店に鞄を置きっぱなしだ。明日取りに行く時にアリスのその後についてマスターに聞いてみよう。もしかしたら飛鳥が持ち帰ってくれてるかもしれないが、そうだったら今度何か礼をしないとな。
入り口を開ける。丁度母さんが出ていくところだった。胸元が見えそうなワンピースに、上からジャケットを着ている。玄関で片手に持てるサイズのブランド物のバッグを持った状態と鉢合わせた。
仕事にいくのかもしれない。何の仕事をしているのかは知らないが、暮らしていれば薄々と伝わってくる部分はある。
ああ、最悪だ。最後の最後にこの人に会うのか。
「……こんばんわ」
「こんばんわ」
挨拶を交わす。それは親子としてのものではない。同じマンションの住人にするようなそっけないもの。
俺は部屋に入ってベッドに潜り込む。
それまでの気持ちが嘘のように消え去って、ただどうしょうもなくどす黒い感情がマグマのように涌き出て止まらなかった。
――――――――――――――――――――――――――
二ヶ月後。
学校は文化祭が近づきどこか浮わついた雰囲気が流れる。そんな中俺はというと、しっかりと授業に出るようになって以来、クラスにも少しだけ馴染み始めていた。
授業に出ないでサボっていると、口うるさい幽霊にどやされた事を思い出して落ち着かなくなったのだ。
朝のホームルームの時間、外の雲を眺める。トイプードルみたいにモコモコした雲。アリスならきっと、猫と言うだろう。
あの件以来、よくアリスの実家でもある喫茶店【司】を訪れるようになった。店名の由来は、マスターの祖父の名前かららしい。
アリスはあの後病院に戻りしばらくリハビリしている。まあ、無意識に体は動かしていたので全く歩けないほど筋肉が衰えてはいなかったそうだが。
そんなわけで、アリスとはあまり話せていない。
あの、まるで夢のような濃密な三日間を過ごした割には、あっさりとしている気もするが、現実なんてそんなもんだった。
自分の行動で何かを変えれたなんて実感することは本当に少ない。
今回の俺の行動は、アリスの家族を少しでも笑顔にできたと自画自賛することで満足しておこう。
あ、だが、一つだけ。
俺の周りで大きな変化があった。
教卓と同じくらいの身長の先生が、突然含み笑いを浮かべて手を広げる。
「むふふー! 実は! 今日は皆さんにサプライズがありますよ!」
生徒が騒々しく何事かと話し合う。
満足そうにそれを見つめてから、先生は廊下の方に声をかけた。
「入っていいですよ!」
声に呼応して一人の少女が教室に入ってくる。それまで騒がしかったが、その瞬間教室は音が消えたように静まり返った。誰もがその少女に目を奪われているのだ。
まあ、それも仕方がないだろう。
絹のように綺麗な珍しい銀色の長髪に、白い肌。ほどよくぷっくらとした唇と、顔全体のバランスがまるで黄金比だと感じてしまうような目と鼻の位置。
目の前の少女は、大方この世のものとは思えない絵本のお姫様のような美しい容姿をしていた、のだから。
「おはようございます。私の名前は上赤アリスです。病気で入院していて、わからないことも多いですが気軽に話しかけてくれると嬉しいです」
そう言ってその少女はクラスを見渡し、最後に俺と視線を重ねた。
そして楽しそうに笑顔を浮かべる。諦めでも、後悔でもない、この先の生活に期待を込めたような笑顔を。
「これから、末永く、よろしくお願いします」
俺の周りの変化。それは。
クラスメイトが一人増えたことだ。
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