第6話 幸せという毒
長い時間そうしていた気がする。
何も見えない暗転した世界。どういうわけか見覚えがあるその空間に、不思議と哀愁を覚える。
そうだ。確か、ここは……。
何かを思い出そうとした時、暗闇に誰かの声が聞こえた。
「――い! 坊主! おい、大丈夫か!」
その声に反応するよう、うっすらと目を開ける。
そこで、先ほどまでの感覚は消え去り意識が覚醒し始めた。
「生きてるか! ああ、よかった……!」
口周りに濃い髭を生やした、坊主でゴリラのようなおっさんが俺を抱えていた。
「く、食うな……」
「誰が食うか!」
「が!」
ごちんと頭に拳骨を落とされる。 その痛みで俺は完全に目を開いた。
視線を落とすと頭痛こそひどいものの、体には傷ひとつ無い。制服に少しだけ擦れた跡がついている程度だった。多分道路を転がったからだろう。
近くに軽トラが止まっていたので、拳骨をくらわしてきたおっさんが運転手だったというのは何となく理解できた。
「俺……。生きてるのか?」
「ばっかやろう! 俺の方が聞きたい! 急に飛び出して来やがってよお!」
鬼のような形相でおっさんから怒られる。 そりゃそうだ。俺は、この人の人生を滅茶苦茶にする可能性があることをした。
赤信号で飛び出してきた、ルール違反の歩行者によって目の前のおっさんは理不尽にも一生分の罪を背負わされるかもしれなかったんだ。 許されるはずがない。
「ほら!」
「うわっと! これは……?」
無造作に硬い紙切れのようなものを投げてくる。胸あたりに当たるが紙なので痛みもなく、落下する前にそのまま手に取った。
「俺の名刺だ。 当たりどころが悪くて明日になって何かあったじゃ困る。 絶対に明日の夜に俺に電話しろ。そうじゃなかったら何かあったと思うからな」
そう言っておっさんは頭を掻きむしりながら、自分の軽トラに乗り込む。
俺は呆然として少し黙っていたが、車のエンジン音で我に返りすぐにおっさんに疑問を投げ掛ける。
「ま、待ってくれ! 俺は轢かれなかったのか?」
完全に当たる距離だった。
多少衝撃を緩和できていたとしても、怪我の一つもないのは違和感がある。 それを知っているのは目の前のおっさんだけだ。
「知るかよ、俺だって聞きたい! 人をはねたと思ったし、そんな手応えがあったんだ。でも車には傷ひとつねえし、お前は道路脇で気を失ってるしで訳わかんねえんだよ!」
おっさんは嘘はついていないだろう。 頭を掻きむしりながら本気で混乱している顔をしていた。
「とにかくだ、 また明日連絡しろよ! 俺のせいでお前さんが怪我してたらそれなりの対処があるからよ」
「いや、今回のは全て俺が悪い。だからあんたに何かして貰う必要はない……」
「ガキが生意気言うな! お前は知らないかもだがな、それが責任ってやつだ! 絶対に電話しろ!」
そう言って、終始怒りを露にしながら、おっさんはトラックで走り出した。
俺はぽつんと道路に立つ。
何であの距離で車をよけれたんだ……。
謎が深まるばかりで頭をひねるが、考えても答えは出そうになかった。今度、友華にでも相談してみようかな。あいつなら何か説明つけてくれそうだし。
「って! んなことより!」
後ろを振り返ると目的地はそこに建っていた。
「アリス、ここにいろよ!」
俺はとりあえず今の出来事を考えるのは後回しにして、その場所に侵入するべくもう一度足を動かした。
――――――――――――――――――――
しんと静まり返った建物の中。 足音を殺して歩いても少しの音が壁に反響する。
妙に寒気を感じてしまい、外との気温差で少し肌寒いほどだった。場所の雰囲気も関係してるのかもしれない。
どこの町にもありながら夜になると非常灯の怪しい光と、立ち止まっていたら飲み込まれてしまいそうな暗闇が互いを引き立て外から見ても気味の悪い印象を受ける場所。
肝試しで冷や汗が出るような感覚と似ていた。
ここまでは来た。
あとは手探りで探すしかないな。
一階、二階、三階を捜索したが見つからない。 そして四階の階段を上ったところで、一つの部屋から明かりが漏れているのを見つける。
俺はその部屋に近づき中を覗き見てから、始めて安堵して声を出す。
「やっぱり、病院にいたんだな。アリス」
病院本棟の横に隣接している入院棟。そこの一部屋にアリスはいた。
窓の近くに立ち、月明かりで顔が照らされる位置。その前には一つの白いベッドが置かれていて何かが横たわっている。
「……よく、わかったね」
俺が来るのは意外だったのかもしれないが、アリスの声に俺への興味は含まれていない。
カーテンで遮られて、こちらからは見えない何かをじっと見つめていた。
興味は薄かったとしても、 反応はしてくれたので俺はこのまま話を続けよう。
「馬鹿な俺でもわかるくらい、ヒントをくれてたからな。覚えていた記憶の話で、お前の親がやってる喫茶店に行く前に通った暗いところ、それは夜の道だ。そして、お前が記憶の最初に覚えていた白いところは病院。あの話は、幽霊になったお前が、病院から自分の家まで帰っただけだったんだよな」
アリスはこくりと頷く。それが俺の考察が正しいと肯定したものであるというのは、流石に分かった。
「そう。ただそれだけの行動だった。でも、私はそれすらも忘れていた。……いや、自分から忘れるようにしていた」
アリスは俺にもその視線の先が見えるようにカーテンをずらした。
そこには、目をつむりベッドに寝転んでいる人がいる。 生きている人間の体を持ったアリスだ。
写真でも思ったが、食事や最低限の行動を取れるというのは本当のようで、寝たきりの割には綺麗な体でやせ細ってはいなかった。
規則正しい寝息で、病気なんて嘘かのように安らかな顔で寝ている。
逆に余りにも綺麗なので、その姿は精巧に作られた人形のようだ。触れれば消えてしまいそうな程の儚さを感じさせる。
銀髪が月明りによって透き通るように輝き、ツンと凛々しいまつ毛は少女の容姿の非現実性を一層加速させていた。
花に例えるのなら白いユリだ。以前友華から聞いた言葉の受け売りではあるが、花言葉は純潔・威厳というらしい。なるほど、白いユリにそのような気持ちを抱いたやつの気持ちも分からんでもない。
って、俺は呑気に何を考えてるんだ……。気を抜きすぎだな。
「その、お前は、アリスなんだよな?」
少し不安になって尋ねる。 アリスはそこで初めて俺を見て、目を細めた。
「うん。私はアリス。ここで寝ているアリスだよ」
後ろから差した月明かりがアリスの顔を幻想的に照らす。儚くそれでいて怪しい光は、今のアリスそのものを表しているように思えた。
「俺がわかったのはアリスがここに来たってことだけだ。何を目的にしているのかまではわからない」
アリスは俺に緩慢な笑顔を浮かべ、嬉しそうに後ろで指を組む。
「嘘でしょ。それ」
「嘘じゃない。本当にお前が何をしたいのかまではわからなかったんだ」
「だったら、そんなに服をボロボロにして汗もかきながら私を探さないでしょ。わからないにしても、予想はできた。違う?」
ああ。俺の浅はかな思考などアリスにはとうにお見通しだったようだ。
確かに俺はアリスの考えはわからない。でも、状況から考えてそれなりの答えは出ていた。それはアリスが記憶を忘れるようにしていた、という発言で確信に近づいている。
多分アリスは……。
「俺の考えは、その、お前にとって嫌な間違いをしているかもしれない。いいか?」
「うん。多分それで合ってる」
同意を貰ってから、俺は自分の考えを話すことにした。
歩いてアリスのベッドに近づき窓側にいる幽霊のアリスとは対面に位置する。見下ろすと本当に綺麗な顔だなと改めて感じさせられた。
「お前は、起きるつもりがないんだろ。――酷い言い方をすれば、死のうとしているんだ。このまま、この場所で」
アリスは俺の答えに不思議と満足そうに頷いた。
「うん。そうだよ。私は戻る気がない。幽霊になって、自分の状態に気づいてそうしようと思った。だから、未練が無くなるように自分から全ての記憶を忘れた。まあ、今度はそれが未練になっちゃったんだけどね」
自嘲気味に話すが、アリスのその言葉は冗談ではなく心の底からそう望んでいるんだと思う。 耳にかかった髪を払い、窓の外を見つめるその瞳は決断への迷いの無さを感じさせた。
「……どうして、お前は、死のうとしているんだ?」
漏れたのは純粋な疑問。
わからない。
恵まれた環境、良い両親に囲まれて、幸せに暮らしてきたのがこのアリスについて俺が持つ印象だ。
そんな彼女が、死ぬ動機が見当たらない。
「私は、息苦しかったの。昔から体が弱くて、何もできない私に、お母さんもお父さんもいつも優しくしてくれるから。怒られたことなんてないから、それが不気味でずっと生きづらかった。だから、折角の機会だしこれ以上親に迷惑かけたくないから、このまま死のうかなって」 「は? ……そんな理由で、死ぬのか?」
思わず俺は聞いてしまう。
説得しようと思ったんだ。
アリスが死ぬことのないように、何か抱えているものがあるのなら俺がそれを緩和させようと考えていたんだ。
でも、それはできない。俺はアリスがこの世界から離れようとしている理由を理解することができなかったから。
だから、何を解決すればいいのかがわからない。 深く暗い海の底に沈むように、そのアリスの答えは俺を震えさせる。寒く、理解できない狂気を感じたのだ。
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